Sayaka

 盆を持ってリビングに戻ると、座る場所がなくなっていた。

 コの字型になっているソファの、コの上辺には祐希と小野寺、下辺にはテディベアを膝に置いた光とムラサキ、そして短辺は、咲坂が両手を広げて独占している。

 テーブルにお盆を置きつつ、さてどこに座ろうと悩み。

 コの字の下辺の先端よりも先、テレビの横にあるスペースに、正座した。

 咲坂に鼻で笑われた。


「床かよ」

「……だって」

「いいねぇ。土下座でもしてくれんのか?」

「敬司。それ言ったら、サヤさんはたぶんするけど、いいの?」

「あの、小野寺先輩……」


 全員の目がこちらを向いた。

 「大丈夫」と言おうとしていたのだが、言葉に詰まる。

 あらためて考えると、どういう意味での「大丈夫」なのか、自分でもよく分からない。

 かばわれなくても自分で断れるから大丈夫なのか。

 土下座が必要ならするから、大丈夫なのか。


「えぇと、その……お気になさらず」


 隣に座っている光が何故か頭を撫でてきた。

 咲坂の眉間のしわが深くなる。舌打ちして彼は、少し小野寺の方へずれた。


「冗談に決まってんだろ。さっさと座れ」


 気分としては床も収まりが良かったのだが、どいてもらったのを無視はしにくい。空けられた場所に腰かける。

 景色は反転し、右隣に咲坂、左隣にはムラサキが来る。

 一番遠い角からは、心配そうな視線が向けられている。昨日から心配させてばかりだ。申し訳ない。

 光は薄ら笑い、小野寺は目をつむっている。

 一つ息をつき、背をのばした。


「呼び出して――ごめんなさい。せっかくの夏休みの終わりに、時間をもらって、ごめんなさい。三月からずっと盗聴していたことと、騙し続けていたことを謝りたくて、来てもらいました」


 部屋には電気がついているのに、妙に暗い気がした。


「ただ、人によって知っていることに差があると思うので、先に事情の説明をさせてください。……どうでもいいと思ったら、聞き流してくれて大丈夫です」


 もう一つ深呼吸して、両親を亡くしたことから、説明を始める。

 伯母に引き取られてからもずっと、清佳は両親を亡くしたことを引きずっていた。そのさみしさを埋めるために、二人の思い出話を伯母とすることを切望していた。だが、嫌われていたために、伯母とはほとんど会話らしい会話はなかった。

 そんな中で、伯母が不倫をネタに小野寺と光に脅迫されて、所有している不動産を不法占拠される。その解決を頼まれ、清佳はその頼みを引き受けた。頼みを断って今以上に嫌われ、思い出話をできるような関係が、さらに遠ざかることを恐れた。あわよくば伯母の気を引けるかもしれないという考えもあった。

 今思えばさらに、破滅願望もあった。

 一人だけ生き残った自分を、ずっとうとましく思っていた。

 頼みを引き受けた時に、家族構成や成績などが記載された身元調査書、盗聴器やマスターキーなどを渡された。


「梓さんは、盗聴によって不倫現場を撮った写真の場所を突き止めて、奪い返してほしいと考えていたようでしたが。いくらでもバックアップが取れる以上意味がないと思ったので、私は、弱みを握って脅迫し返すことで、退去させようと考えていました」


 聞き苦しくならないように、声からは極力感情を引いている。うまくいっているかは分からない。自分の声が、やけに近い。かすかな震えや語尾の上がり下がりが、一々気にかかる。


「そのために、盗聴器を十個、リビングや廊下などに仕掛けました。……一応言っておくと、個人の部屋には仕掛けていませんが。だから許してくれと言うつもりはないです。そして、盗聴と並行して、対面でも弱みを探っていました」


 途中からは、脅迫をし返すのではな、別の方法で伯母の負担を減らして許してもらえないかとも考えていたが、それは言わなかった。

 うまくいかなかったのだから、なかったのと同じだ。

 止めたいと悩んでいたことも、結局、惰性と未練で続けていたのだから、彼らには関係がない。


「ただ、成功することはなく。そうしているうちに、脅迫の首謀者である二人が、私の盗聴に気がついて……。あの祭の日のことが起きました。つまり、私を追い出すことを目的とした脅迫が」


 その裏には様々な思惑があったが、今は関係がない。深く考えれば方法のおかしさなどに気がつくだろうが、それへの対応は二人に任せる。


「あれに関してはあとで二人とも、正しい手段ではなかったと謝ってくれました。今はもう何のわだかまりもないし、私も、強制されてここにいる訳ではありません。……ただ、あの出来事が、自分を省みるきっかけにはなって。……すぐには行動を変えられなくて、咲坂くんや優希くんに悪態をついてしまったし。そのあとも、たくさん助けてもらわなければ、何もできなかったけれど。それで、私は」


 意志に関係なく震えてしまう手が腹立たしい。

 自分の知らないところで、自分について探られているおぞましさ。長い付き合いの相手だからと話した会話を、知り合ったばかりの他人に盗み聞きされる不愉快さ。一人だと思って何気なく過ごしていた時間への不安。羞恥心。これから新たに知り合う人を信じることへの躊躇。

 清佳はそれを、味わわせた側だ。

 弱くいる権利もない。

 膝の上で手を握りしめる。


「遅くなったけれど反省しました。謝りたいと思いました。これが今日、私がみんなを呼んだ理由です。……ここまでで何か、あれば」


 つう、と耳鳴りがする。十秒もすると治まった。

 五人を見回し、ひらひらとテディベアに手を振らせる光や、軽くうなずく祐希にうなずきを返す。

 頭を下げる。


「必要だと思ったから、長々と説明をしたけれど。弁解するつもりはないです。私がした行為は、私個人にどんな事情があっても、不法占拠を止めるためであっても、許されるものではない。行為自体だけでなく、みんなと接する時に盗聴で得た情報を利用していたり、反省するのに時間がかかったことだったり、間接的にもたくさん、迷惑をかけた」


 水底に沈んでいるかのようだ。


「すみませんでした」


 ムラサキが深く息をつく。光が飲み物を飲む。祐希が軽くうなずく。小野寺は沈黙している。


「何だよ、謝るだけかよ」


 恐る恐る顔を上げて、右を見た。


「檜原、あん時オレが何つったか覚えてるか? 覚えてねぇんだろうなー。今謝ったら許す、つったんだわ」


 覚えている。それを、自分は、拒んだ。


「今謝ったら、だ。まさか檜原の分際で屁理屈は言わねぇよな。今ってのはあの日、あの時だ。で、今日は何日だよ。あれからどんだけ経った? おい。カレンダーの見方は分かるよな? もう夏休み、終わるんだけど。遅くねぇか?」


 遅くなったことに関しては、申し開きのしようがない。その通りだとうなずいた。


「分かってる。ごめん。ただ、私は、口で謝るだけで許してもらおうとか、そもそも許してもらうなんて、虫のいいこと考えてない」

「……ほー」

「……出ていく前に、せめて償おうと思って呼んだの。謝罪は当然のこととしてしたけど、足りないのならもちろん、他のことでも償う」


 咲坂は腕組みをして笑う。


「つまり、許さなくていい上、自由に使っていいってことか。じゃあ何か、サンドバッグになれっつったらなんの?」

「そ、れは……ごめん、難しい。さっきも言ったけど、それ自体が正しい手段ではないし、もし表沙汰になったら庇えない」


 格闘技と言い張っても無理筋だろう。一方的な暴行は、正当化ができない。


「まあでも、そんなこと言ったら、私刑自体が正しくはないから……。だから、バレにくいことなら、何でも……土下座とかお金とか」


 祐希から向けられる責めるような目が、胸に痛い。お菓子を買って返しておくことにする。


「軽率に何でもとか言ってんじゃねえよ。身ぐるみ剥ぐぞ」

「ケージくん」

「うっせえな。しねぇわ。すんなよ。テメェの貧相な体見たらかえって落ち込むから」

「え、あぁ、うん……」


 金や持ち物を根こそぎ取るという意図だと思ったのだが、文字通りの意味だったらしい。


「ハ。ま、いい心がけだとは言ってやる。テメェのせいでな、オレは大いに心の傷を負った。あの時、今謝ればとは言ったものの、謝られるくらいじゃ割に合わねえなーって、正直ちらっと思ったんだよ。いっそ得したかもしれねえな」


 少し顔をそらしていたが、肩を抱かれてのぞき込まれた。


「本当に、オレが言ったら、何でもやるつもりがあるんだな?」

「うん」

「文句言わず逆らわず、聞いたら一言目には「承知いたしました敬司様」と言えよ?」

「……う、うん」


 そして、そこそこ痛い勢いで頭突きをされた。


「じゃあ、まず、自分自身にキレんのをやめろ。お前が何でもかんでも贖罪にするのをやめるまで、オレらはここに残れって言えねぇの」


 一瞬、その言葉の意味が分からず、呆気に取られた。

 何度か頭の中で繰り返して、じわじわと意味を理解した。

 額よりも、さらに強く痛む胸を抑える。

 誰も彼も、罪を犯した人間に、優しすぎる。


「おい、返事はどうした」


 その言葉は本当に嬉しくはあった。自分を責めるな、と言われているのと同じことだった。その上、プラントポットに残ることまで、許してくれようとしている。

 けれど、うなずけなかった。

 罪悪感は、両親の死以来、自分を支える大切なものでもあったから。

 自分一人だけ生き残ったのだから、両親の分まで生きなければならないと自分自身を責めることで、何とか生きてきたから。


「――そんなこと、できない」

「あぁ? そうかよ。じゃあ他にねぇわ。損した。お部屋帰ろ。コーヒー捨てといて」

「え。ま、待ってよ!」


 本当に咲坂が立ち上がったので、思わず手を取ってしまった。


「何だよ。できねぇんなら放せ。さっさと出てけ」


 思考が白く、熱く、言葉が出てこない。うめくことしかできない。


「しつけぇな……。おい、爪立てんな。変な気になる」

「咲坂」

「ムラサキにまで言われんのかよ」


 仕方なさそうなため息の後、ソファが弾んだ。悪いと思いつつ、腕ははなせない。


「さーやかちゃん。オレらのための償いなんじゃないの。お前の都合は関係ないんじゃないの」

「でも」

「オレらが欲しいのは、笑顔で元気な清佳ちゃんだけだから。真っ青な顔したサンドバッグなんかいらねぇから」

「……よく言えるね」

「オレだって言いたかねぇわ、こんなこと。でも仕方ねぇだろ。いくら利用価値があっても、何回謝っても苦しそうで、何も楽しもうとしないで、情けない顔してるガキなんか近くにいたら、気が滅入るんだわ。いやほんと、こうして自分の目で見ると、鬱陶しいことこの上ねえな」


 空いている手で顔を隠す。声だけが聞こえる。


「いいんじゃない? 償いなんかせず、罪の意識なんか忘れて、逃げたって。ここの五人以外、誰も知らないんだしさ。案外、逃げた先で何か見つかることもあるかもよ?」


 逃げることができたなら、とうにしている。

 途方に暮れて、指の隙間からそっと、咲坂の顔を見た。

 目が合ってしまう。

 にやーっと口が横にのびた。本当に意地の悪い顔をしている。殺しても死ななそう。


「まあ、どんな理由があっても、今出てったらオレは一生恨むんだけど。許せねぇよ、一人だけ安全圏に逃げるとか」

「うわ、最悪〜」

「人の心がないなぁ」

「お前らが言うな犯罪コンビ」


 本当に最悪だった。的確に清佳のトラウマをえぐっていた。両親が死んだのに、生き残っている自分という状況を、思わずにはいられなかった。そんなことを言われたら、出ていくなどとはとても言えない。

 だけれど、そうなると二つに一つ。

 償いとして自分を許して、プラントポットに残る。あるいは、償いをせずに、プラントポットに居座る。

 どちらも選びたくない。

 償わずにいるのは罪の上塗り。

 だが、償えと言われても、怒るのをやめろと言われても、そう簡単にやめられない。

 今も、本当は、もっと罰を受けるべきだとさえ思っている。

 騙し続けたことも、盗聴も、謝ると決意するのに時間がかかったことも、個人の家庭に口出ししたことも、伯母の頼みを達成できなかったことも。

 今も一人、のうのうと生きていることも。

 何だか今、身の置き所がないくらいに、嬉しく感じてしまっていることも。

 罪ばかりだ。

 自分を許すことなどできない。


「自分はなぁんも得るもんなかったくせに、罰ばっか欲しがりやがって」


 その言葉は否定しなければならないと、咄嗟に口を開いた。後者は合っているけれど、前者は違う。


「得るものは、あったよ」


 言ってすぐに、自分の手で自分の心臓に刃を突き立てるようだと気がついたが、後戻りできない。


「楽しかった……」


 両親の死への悲しみを忘れてしまいそうになるくらい、穏やかな日々だった。


「……そ。じゃあ、余計に許せないだろうな。楽しかった場所と時間を、自分で壊して」

「……うん」

「かわいそ。でも、撤回してやーらない。オレも本気だから」


 いまだつかんだままの手が、持ち上げられる。


「あーあ。さっき、引き止めなきゃ良かったな? あのまま見送っておけば、出ていくことはできたのに。オレなりの優しさだったんだけどなー」


 逆に手を取られた。そして、何故か何かを確かめるように、手首をくるくるとひっくり返された。

 満足したように、最後に手首を指で撫でられる。

 その指の軌跡で、ようやく、縄の痕が残っていないか確かめられていたことに気がついた。


「だって」

「だって?」

「……こんな終わりは嫌だった、から。明日梓さんから連絡が来て、ちゃんと話せずに終わる可能性はゼロじゃないし」


 それに、人はいつ死ぬか分からないでしょう、と小声で言うと、咲坂は馬鹿にしたように、けれど何となく優しく笑った。


「何だ、そんな理由か。そんな心配しなくても終わんなかったけど、別に。お前がどうしようとオレは昼飯たかりに行くし、うちの親も呼べってうるせぇし。オレは百年生きるし」


 適当な言葉だったけれど、その軽やかさが胸をついて、不思議と言い返せなかった。

 咲坂の中では、明日が来ることが当たり前になっている。そこには信頼という尺度すらない。決定事項だ。


「……うん」

「でも、ま、そういうことなら、仕方ないな。選ぶしか。お前の責任だ、こうなったのも」


 手を弄びながら、ふっと何気なく、弱いところをついてくる。自分を許せと言ったくせに、責任を問いてくる。

 人をいじめるのがうまい。

 と言うよりは、本当に怒っていて、本気で清佳に償わせようとしているのかも知れない。


「今決めろ。償うか、オレに一生恨まれるか、今度こそ」


 もう答えは決まっていたけれど、すぐには口に出せなかった。

 そう簡単に痛みは消せない。

 いくつもの罪を忘れることはできない。

 両親の死を思う時、いつも、自分の行動が何か一つでも違っていたらと後悔してきた。あの日が自分の誕生日でなかったら、外食なんてしなくていいと言っていたら。その後悔と反省を取り返そうとして、うとまれるくらいのいい子になった。

 けれど、それは間違いだと言う。

 清佳自身も本当は思っていた。

 明日が来ることを、当たり前に信じたい。

 生きていることを罰だと思いたくない。


「……償う、よ。……自分を、許す」


 何とか言ってみたけれど、苦しい。喉がつかえる。

 こんなに苦しいのは初めてだ。

 自分の一部を切り離すようだ。


「自分を責めるのを、やめる」


 今まで、罰だと思ってきた苦しみは、所詮は自分が自分に対して与えたものだったと知った。

 償いなんて言ったけれど、まるで償う覚悟なんてなかった。許さなくていいだなんて、きっと許してくれるという希望に寄りかかった甘えだった。

 本当の罰は、罪滅ぼしは、容赦なく心をえぐった。

 恥と申し訳なさと苛立ちで耐えられなくなって、ソファの上で膝を抱えた。


「ん、頑張った頑張った。よく言えました」


 泣いた子にするように、背を撫でられた。


「ご褒美くれてやろうか。ちゃんと何が欲しいか言えたらだけど。どうする?」

「……子ども扱いしないで」

「先にガキ扱いしたのはテメェだろうが」


 償いなら、頑張るのは当然のことで、ご褒美なんてもらっていい訳がない。

 以前ならそう思っていた。

 けれど、もう、許したのだった。自分を責めるのはやめるのだった。

 本当は、喉から手が出る程欲しいものがある。

 ただ、既に心が限界で頼りない。ほんの少し咲坂に身を寄せた。

 ちょうどよい高さに肩があったので、頭に額を押しつけた。

 ワックスの匂いがする。


「ごめんなさい……許して。ここにいさせて。一人にしないで」


 声は弱々と崩れた。


「……あー。うわ」

「うわ?」

「顔上げんな」


 頭を抑えつけられた。ちゃんと言ったのにと不平を思っていたら、少し撫でられた。


「いいよ。許してやる。どうせこいつらも許してんだろ。……ここにいればいい」


 恥もなく罪悪感もなく、ただ安堵した。

 初めて罰を得て、初めて本当に許されたと思えた。

 現実にはきっと、今すぐには、変わることはできない。自責の念は体に染み付いている。

 けれど、変われないことをあまり気に病む気にはならない。

 許すから。許されるから。

 両親の死から、やっと一歩踏み出せた気がした。

 頭の上から手が離れたので、恐る恐る顔を上げる。咲坂にお礼を言わなければならない。本当に最悪だと思ったこともあったけれど、きっと清佳のためではあった。

 けれど、咲坂の言葉はそれで終わりではなかった。

 清佳が口を開く前に、耳元に口が寄ってきて、息がかかる程近くで囁かれた。

 声には悪魔のような微笑みが滲んでいた。


「一人にもしねぇよ。地獄まで道連れにしてやる」


 念押しするように、耳にキスをされた。



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