八月

三者

 伯母からの連絡はないまま日は過ぎた。

 まず、咲坂が戻ってきた。部屋が同じ階なので、帰ってきたことにはすぐに気がついた。

 久しぶりに、自室から出る前、緊張感を覚えるようになった。

 その二日後に祐希が戻ってきた。

 そして祐希が戻ってきた日の午後に、小野寺が戻ってきた。

 学校が始まるまでは、あと二日だ。

 学校が始まれば、しばらくは慌ただしくなる。夏季休暇の時間的余裕とは比べようもない。

 もっとじっくりと様子をうかがいたい気持ちもあったが、さすがに、行動を起こさない訳にはいかなかった。

 戻ってきたその日の夜に、清佳は小野寺の部屋の扉をノックした。

 小野寺はすんなりと出てきた。

 この日まで話し方や話す内容など、色々なことを考えた。考えた上で、結局分からなかったことやまとまらなかったこともあり、頭の中ではまだ考え事が渦巻いていた。

 だが、小野寺の顔を見て、ふっと全てが遠ざかる。

 頬に大きな絆創膏。

 小野寺が実家で過ごした時間を、思わずにはいられなかった。

 その間、自分が、自分のことばかり考えていたことも。


「古臭い人なんだ。妻と子どもは自分の所有物で、何をしてもいいと思っている」


 咄嗟に目をそらしたが、それも失礼なように思えて、身動きが取れなくなった。清佳が葛藤の中にいる間も、小野寺は淡々と言う。


「でも、いつも暴力を振るわれる訳ではないから。と言うか初めて。だから心配しないで大丈夫だよ」

「……すみません」

「ん、何が?」

「無遠慮に、見てしまって」

「それは仕方ないよ。目立つから」


 恐る恐る顔を上げたが、身長が高すぎて、首元までしか見えない。それでくじけてしまい、ゆるゆるとまた、うつむきかけてしまう。


「それに。……光さんに、聞いていました」


 その上で、何もしなかった。光に任せた。

 その選択は間違ってはいなかったと思う。だが、この怪我を前にすると、正しかったとも思えない。

 続ける言葉に迷って、しばし口をつぐむ。聞いて、何もしなかった。それにはいくつも理由があった。そんな風に言ったところで、小野寺には関係がない。


「一度でも問題だと、私は思います」


 苦しまぎれにそう吐き出しながら、思い切って顔を上向けた。

 困ったような微笑みが浮かんでいる。


「そうだね。それは、僕もそう思う」

「あ。……いや、あの。私のことじゃなくて」

「気にしなくていいよ。僕の家のことも、何も。分かってる」

「……はい」


 そのつもりはなかったのに、自分がされた拉致や暴行を責めるような言葉になってしまった。小野寺の微笑みからは、心なしか静かな拒絶も感じた。さすがにもう、何も言えない。

 小野寺が口火を切った。


「和解の話をしに来たんだよね? 話は大体、笠原くんから聞いてる。あ、サヤさんからの連絡、返さないでごめん」


 小野寺の声は穏やかだ。天気の話でもするかのように。

 それが少し恐ろしい。

 本当に怒っていないのか、それとも綺麗に隠しているだけなのか、清佳の目では読み取れない。

 だが、小野寺が清佳の首を絞めたのは、事実だ。こうして目の前に立つと信じられなくなるが、痛めつけたいと思われる程に、清佳は嫌われていた。

 動機があったはずだ。

 それを知ることも、小野寺を訪れた目的の一つだった。嫌がられたら諦めるつもりではいるが、やはりできれば知りたい。

 切り出し方を考えながら応える。


「全然気にしなくて大丈夫です。大変だったんでしょうし……むしろ、すみません。気苦労をかけてしまって。用件も、私の都合の押しつけで」

「押しつけじゃないよ。ありがたかった」


 感謝されるとは思っておらず、言葉を失う。


「笠原くんをこれ以上付き合わせるのは、申し訳なかったし。僕も、言い出せなかっただろうから」


 そして小野寺は言った。


「ごめん。サヤさんには申し訳ないことをした」


 声からは、無理も嘘も、一切感じられなかった。

 しばらく呆気に取られてしまった。


「……謝らなくてもいいって話は、聞きましたか」


 言葉を絞り出したが、そんなことを言いたいのではない。


「それも聞いてる。むしろ感謝してるって言ってた、って。ただ、真に受けるのはどうかと思って。自分も謝りたかったし、謝らせてもらったんだけど。やっぱり迷惑だったかな」

「あ、いえ。迷惑なんて全く。本心ではありますけど、絶対に謝るなって程に強い気持ちじゃなくて、ただ、元々責める気がないので、許すとも言いにくい……」

「許さなくていいよ。受け取る必要もない。僕が勝手に謝っただけ。……楽になるためでもある。それも、ごめんね」


 言っていることは分かる。今の清佳の中にも、同じ気持ちがある。償いというだけでなく、自分の罪悪感を和らげるための謝罪。

 声は軽やかだが、誠実さは失われていない。

 本心としか思えない。

 それが、底知れない。

 あの夜に向けられた憎悪と釣り合わない。


「そういうことなら、受け取ります。……けど」

「けど?」

「けど……小野寺先輩は、何で……」


 その時、右後ろから、扉の開く音がした。


「……何してるの、二人で」


 すねたような口調は、以前と変わりない。

 こんなこともあるかもしれないとは思っていた。だが、その時どうするかまでは思いつかなくて、ない可能性に懸けた。そして負けた。

 心臓がきりきりと絞られるようだ。

 顔を向けられない。硬直する。


「何でもないよ、祐希」

「この二人で何でもないことある? 分っかりやすい嘘つかないでよね」


 足音が近づいてくる。

 横に立たれた。思わず反対側に顔を背けてしまった。

 祐希も帰ってきたばかりで、まだ話せていない。話したいことは積もり積もっている。だが、まだ早い。特に今は間が悪い。


「サヤカ」


 そうは言っても、いいごまかしも思いつかない。

 そもそも、騙し続けたことを謝らなければならないのに、その前に、嘘をついていいのだろうか。


「大丈夫? シュートくんに何かされた?」


 痛くはない、けれど確かな強さのこもった手で、腕をつかまれた。

 恐る恐るではあったが、顔を上げた。祐希の目には苛立ちや怒りはなく、心配げな色があった。

 優しさに唇を噛んだ。


「何もないよ。大丈夫」


 清佳を拉致した犯人のことは祐希ももう知っているのだと、遅れて思い至る。

 祭の夜、プラントポットに帰ってきた後、ムラサキの問いかけを無視しておけば良かったと、何度か思った。プラントポットからの退去を要求されたと言わずにおけば、光と小野寺が犯人だった件については、うやむやにできたのではないか、と。

 祐希の優しさに触れて、あらためて同じことを思う。

 だが、そうはできないから、せめて責任を取る。


「私から、話をしに来たの」

「……二人で? ヒカルは?」

「光さんとはもう話した。訳を聞いて、和解を……仲直りをしたよ、ちゃんと。小野寺先輩とも」

「え、ほんと?」


 小野寺とアイコンタクトを取る。


「本当。ですよね、小野寺先輩」

「あぁ……うん」

「ただ、やっぱり直接話したかったし、他に聞きたいこともあって。私が急に押しかけたの。むしろ、迷惑かけてるのは私の方だったりして。だから大丈夫」

「……ふぅん」

「でも、ありがとう」


 何をぬけぬけと感謝なんてしているのだろうと、不意に思った。


「……ごめん、まだ、謝ってないのに、心配させて」


 友人をさしおいて、ぽっと出の人間、しかも加害者を、当然のように心配する。そういう優しい人に、まだ謝ってもいないのに、自分の方が彼らのためになるべきなのに、優しくしてもらっている。

 心が、がらがらと崩れていく。


「私も、謝るから」


 腕をつかんでいた手を、はがして押し返す。この優しさに甘えてはならない。


「ただ……少しだけ、本当にあと少しだけ。ちゃんと全部謝りたいの。私がした悪いこと、全部。みんなにも小野寺先輩にも」

「サヤカ? 僕は、別に」

「端から全部謝れって思うかもしれないけど、きっとそれじゃ反省はできないから。ちゃんと反省して謝りたいから。だから、待ってて、ほしい……」

「待ってサヤカ。落ち着いて。聞いて。何か、分かんないけど、僕は全部謝れとか思ってないよ。盗聴のことは、謝った方がいいとは思うけど、でもちゃんと悪いと思ってくれてるなら、そんな顔しなくても」

「祐希。少し僕に話させてくれる?」


 冷静で動じない声で、小野寺が言う。

 それに対して、舌打ちが響いた。


「シュートくんはもっと反省した顔したらどうなの! 反省する気があるなら!」


 壁を蹴る音が鈍く、空気を震わせる。蹴った足も痛いだろうに、祐希はぴしゃりと声をぶつける。


「シュートくんが感情表現とか大きい声出すのが苦手ってことは知ってるし、僕は僕で大げさなんだろうけどさ。今みたいな時に冷静でいる奴がどう思われるかくらい、シュートくんなら分かるし、ちゃんとそう思われないふりくらいはできるでしょ? そんなに馬鹿じゃないでしょ? 僕とケージくんの面倒見られるくらいだもん。反省する気もあるよね?」

「……うん」

「じゃあ、しなよ。反省してますって顔を。サボらずに。僕に対してはもういいけど、サヤカにくらいは」


 相当、強引なことを言っている。反省する気があるなら、反省する演技くらいはしろ、と。確かに穏やかな調子に違和感はあったが、そこまで言うこととは思えない。さすがに黙って聞いてはいられなかった。


「祐希くん、いいよ、大丈夫だよ。取り乱してごめん!」

「サヤカがどうとか関係ないから。あとでどうせ言うつもりだった」

「でも……。小野寺先輩も、すみません」

「ううん。祐希の言う通りだから」


 小野寺の目が陰った。


「口で謝っただけで。僕は頭も下げずにいる」


 長身が折れる。謝罪の言葉が聞こえた。


「あ……謝らないでくださいってば! 充分です! 元はと言えば、私のせいなんでしょう」


 盗聴だか他のことだか申し訳ないことに分からないが、追い出すことよりも、痛めつけることが優先されるような熱量を持った憎悪の原因は、サヤカにあったはずだ。


「私の何かが良くなかったんですよね。だから、小野寺先輩のせいじゃなくて。あの、早く頭上げてください。……祐希くん!」


 我ながらとんでもないことに、祐希に助けを求めてしまった。「下げさせときなよ」とそっけなく返された。

 苦笑しながら小野寺は頭を上げてくれた。


「サヤカ、優しすぎるんじゃない? 一発ぶん殴るくらいしときなよ」

「だめだよ……」


 それをするなら、清佳も自分の謝罪の際に、身を投げ出さなければならない。そんなことをしていては終わらない。


「その代わりになるかは分からないけど、サヤさんは、たぶん、僕の動機を聞きに来たんだよね?」


 何気なくうなずいてから、話の先を察する。


「でも、小野寺先輩が話したくなければ、諦めるつもりでした。無理に言ってもらうのは、それはそれで、申し訳ないですから」

「話すよ」


 相変わらず、本心かどうかは読み取れない。


「ただ、先に言っておくと、サヤさんが謝るようなことは何もない。自分のせいだと言っていたけど、あれは僕の未熟さと、逆恨みでしかないから。何も得られず、時間の無駄になるかもしれない。それでも、良ければ」

「いいに決まってるじゃないですか。無理にお願いしてるのに。……もしかしてさっきので、自分に非がないか確認するためだけに知りたがってると思われてますか」


 理由の第一にはそれがあるけれど、それが全てではない。


「僕のことが心配?」


 言い方に悩んでいると、容易く言い当てられた。


「サヤさんは優しいからなぁ」

「……それは、違います。怖がりなだけです」


 人はいつ死ぬか分からないから、嫌な思いをしていてほしくない。可能な限りいつも、幸福でいてほしい。

 光に任せたにも関わらず、咲坂や祐希がいるにも関わらず、心の底からは信じ切れずに、そうやって不安でいる。

 それを優しいと言われるのは心苦しい。

 小野寺にとってはどうでも良かったようで、軽い相づちで流された。


「僕の部屋で話すのは良くないだろうし、空き部屋で話そうか」


 きっとすぐに終わる話ではない。リビングで話せば、誰かが来てしまう可能性がある。小野寺の提案にうなずきつつ、そっと視線を右に向ける。


「シュートくん。僕も理由、聞いていい? 邪魔しないから」


 大きな目には強い意志があった。


「シュートくんのことなら、友達として、僕にも責任があると思うし」


 ずっと涼しく穏やかだった小野寺の目が、弱り切ったように歪んだ。祐希もそれを見て動揺したようだったが、強引に押し切るように続ける。


「それに、何も知らないうちに事が進んで、終わってから知らされるばっかりで、いい加減腹立つんだよね! 一番の被害者は僕らだって忘れないでよ。あとでサヤカにもちゃんと説明してもらうから」

「私は、もちろん、話すつもりだけど」

「祐希にも話すよ」


 小野寺の言葉は、清佳の言葉を遮りそうな勢いだった。

 きっと清佳に対して罪悪感がない訳ではない。だが、祐希に対しての罪悪感は、きっと比べようがない程に強いのだろうと、見ていて思う。

 怒る気にはなれなかった。小野寺の顔は、あまりにも辛そうに見えた。


「僕は、敬司と祐希にも、謝らなきゃならない」


 同じ屋根の下で暮らしていたはずなのに、小野寺秀人という人の顔を、初めて見たような気がした。



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