絵描きの自画像
外から夕方のチャイムが聞こえて、手を止めた。
立ち上がり、身を引いて、全体を見る。
最初の印象からはかけ離れている。さみしさ以外にも、様々な印象が混在していて、一言ではまとめられない絵になった。
ムラサキの助言のおかげで、普段の自分の画力と比較すれば、上手く見える。だが、やはり下手は下手だ。見ていると恥ずかしくなる。全てを上から塗りつぶしたくなる。
申し訳なくもなる。
大切だとも思う。
気になる箇所を少しだけ手直しして、絵筆を机に置いた。
「どれだけ描いても、終わった気がしない」
「そうだな」
「だけど、とりあえず、ここで終わりにしておく」
ムラサキも立ち上がった。
「あとは乾かすだけ?」
「乾いたら、パネルから切り取る」
絵を描き終われば、ムラサキと共にいるこの時間も終わるのだと、初めて気がついたみたいに清佳は考えた。実際のところはずっと頭にあったが、考えないようにしていた。
ムラサキがドライヤーに手を伸ばすのが目に入り、勝手に口が動いた。
「急いではないから、もうドライヤー、使わなくても。自然乾燥で大丈夫……いやあの、ムラサキさんが早く乾かしたいなら全然いいんだけど」
自分の口を恨めしく思う。
それでもドライヤーを机に置く音に、やはり安堵はするのだった。
「部屋に戻らず、ここで待つか?」
うなずき返して椅子に座った。
ムラサキは窓に向かって歩いていった。
電気はついていたのに、カーテンが開けられただけで、ずいぶんと明るくなったように感じる。
「窓は開けなくていいか……」
「いいと思うよ。外の方が湿度高そうだし、暑そうだし」
名残惜しさを感じながらも、エプロンを外した。
「待っている間、ムラサキさんの絵を見てもいい?」
「どうぞ。好きに」
「ありがとう」
廊下に無造作に置かれたキャンバスや、ボードに画鋲で適当に貼られている画用紙などを見て回る。
時々、ムラサキが近寄ってきて、何も言わずにそばに立った。
清佳が近くにある絵の感想を言うと、その度にどことなく照れくさそうにしながら離れていく。
少しすると、またそばに寄ってくるので、また感想を告げた。
「この絵、いいね」
とりわけ清佳が惹き付けられたのは、壁に直接画鋲で貼られた、月の絵だった。
正確に言えば、月のようなものが描かれている絵だ。ところどころに白い点が散る、春の夜のような青色の中に、ぽかんと一箇所だけ丸く、何も描かれていない箇所がある。そこだけ元の紙の繊維が見える。
描き込まれた絵ではないのに、不思議と何かを感じた。
「……どこが?」
「ううん、何となくだけど。好きだよ」
気恥ずかしくて本人には言えないが、見ていると、北条紫純という人間について思いを巡らせたくなる。他の絵も多かれ少なかれ、描いた時の主題などを探りたい気持ちにはなるが、この絵はとりわけ強くそう思う。
他よりも長い時間眺めていると、ムラサキは清佳の隣から離れながら言った。
「あげようか」
「え?」
「絵を見てもらったのと、描いてもらったお礼に」
「え、そんなの、こちらこそ。最初は嫌だったけど、描くの楽しかった。色々と教わったし……前と同じように、話してくれるのも……」
今朝ムラサキの姿を見た時には、いよいよ騙し続けていた罰を受けるのだと覚悟した。
だが、今日一日かけて清佳に与えられたのは、かえって苦しくなる程の許しだった。
プラントポットを出ていく前に、ムラサキの目にうつる自分の姿を、描き変える機会を与えられた。
ムラサキだけでなく、ムラサキ以外の四人も、今も清佳に、憎しみや嫌悪以外の感情を持ってくれていることを教えてもらった。
「これ以上はもらえないよ」
ムラサキは、部屋の中心に置いた椅子に座る。
「もらってくれた方が嬉しい。その絵でなくても、何枚でも。……作品未満のものばかりで、申し訳ないが」
嬉しいとまで言われれば、断るのも気が引ける。
だが、もらい過ぎの感覚が消える訳ではない。
「お礼に、はやっぱり悪いから。私が欲しくてねだったことにして。それで、せめてもの代価として私からは、ムラサキさんの食べたいものを何でも作る権を差し上げます。特に食べたいものがなければ、ここの掃除とかする権でも……まあ、私にできることなら何でもいいけど」
苦笑しながら言い添える。
「何にせよ、期限があるから、早めに使って」
足元にあるキャンバスを蹴らないよう、手足をのばして画鋲を抜こうとしていると、ムラサキが再びやって来て代わりに取ってくれた。
「ありがとう。絵って、飾る時は、額縁に入れればいい?」
「そこまで……いや。清佳さんがしたいように。日光と湿気に気をつけるくらいでいい」
夜空を描いたような絵は、クリアファイルに入れて手渡された。
「ちなみにこの絵、どういう絵なの?」
画鋲を弄んでいた手が、ぴたりと止まった。
「あ、何か、ごめん。夜空の絵かなとは思ったんだけど、描いた時の意図とかも、せっかくなら聞きたくて」
「謝ることはない。……が、言いたくない。言いにくい」
「じゃあ言わなくていいや。どんなだとしても、私は好きだし」
ムラサキからほっとした雰囲気が漂う。
ムラサキにそこまで思わせる絵とは何なのだろうと気になって、あらためて眺めていると、手のひらで目を覆われた。
「あと、できればその絵を見るのは、俺のいないところにしてほしい」
急に暗くなった視界に、ほんの少し鼓動が早くなる。
「そ、それはいいけど……。ここまでされると、ちょっとまた知りたくなる、かも」
「……そうか。どうしたらいい?」
「聞かれても。……どうでもよくなるくらい、インパクトのあることするとか?」
視界を塞いでいた手は、清佳の頭をわしゃわしゃと撫でてから離れていった。
どうでもよくなる程ではないが、心臓には悪い。
仕方なくクリアファイルは裏返しにして持ち、清佳は引き続き絵を見ていった。
そして、しばらくして。
名前を呼ばれた。
振り返るとそこには、既に木製の額縁に入れられた、清佳の描いた絵があった。
「あ、やってくれたんだ。……私のこそクリアファイルで良かったのに」
イーゼルに絵が立てかけられる。描いていた時に使っていた椅子に腰かけて、あらためて絵を眺めた。
子どもの落書きのように無軌道な絵だ。一通りムラサキの絵を見た後だから、余計にその下手さが引っかかる。
技術以外の、発想などもつたない。
描いている途中にも時々意識していたが、終わってみるとさらに、絵にうつった自分自身のエゴや願いがあからさまに感じられる。
あぁ、と苦笑いした。
「その。ちょっとまぎらわしい言い方になってしまうんだけど」
「うん」
「……正直言えば、もっと良い絵を描きたかったなぁっていうのが、今一番大きい気持ち。でもこれはムラサキさんの手伝いのせいとかではなくて、私自身の」
軽く手に触れられた。
「また描けばいい。俺はいくらでも手伝う」
「……うん」
謝罪の言葉が口をついて出そうになるが、何とか堪えた。
今する謝罪は、理由がぶれる。本当に謝罪をするべきことに向き合わないままに、なあなあに終わってしまいかねない。
謝罪は誠実に、心からの反省をこめてしたい。
代わりに、感謝を告げる。
「ありがとう。次はもっと良い絵を描けるように……」
額縁を撫でながら、息をつく。
満足のいく絵にはならなかったが、背中を押してくれる絵にはなった。
「まずは、自分にできることをするよ」
「清佳さん」
「この絵も大切にする。さっきもらった絵と一緒に」
裏返して持っていたクリアファイルを、ちらと見下ろす。
するとムラサキに、さっと抜き取られた。
「……この絵は、実は、一番の失敗作だった」
絵を表向きにして返される。
「だが、清佳さんの手にある間は、一番大切な絵になる。ありがとう。……まあ、変わらず、俺の前ではあまり見ないでほしいが」
呆気に取られているうちに、ムラサキは額縁を持ち上げた。
「俺が部屋まで運んでいい?」
「あ、うん……」
遅れて、色々と言いたいことが思い浮かぶが、口をつぐんで追いかけた。
拒絶や遠慮ではなく、全て受け取った上で、行動で返そうと決めた。
全員に謝罪をする。
そう決めた。
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