犯人

 あらかた描きたいものを描いたので、しばらく絵に修正を入れているのだが、いくらやっても終わりと思えない。

 理由は自分で薄々分かっていた。

 あと一つ、はっきりと、描きたいと思うものがある。

 だが、それを描いていいのか分からない。

 それを――ずっと、描こうか描かずに終わろうか迷っているせいで、描き終わらない。


「ごめん、ムラサキさん。ちょっと休憩していい?」

「うん」


 絵筆を机に置いて、椅子に腰かけた。ムラサキも清佳の右隣に置いた椅子に座る。

 ぼんやりと考えていると、少しして、淡々とたしなめられた。


「休憩なら、悩んではいけない。休まないと」

「……ごもっとも」


 よく分かるものだ。清佳が分かりやすいのかもしれない。

 目の前に絵があるので、どうしても延々と考えてしまう。ムラサキが口から思考をだだ漏れにしている時の気持ちが、少し分かるような気がした。

 絵には雑多にものが描き込まれて、既に、最初に感じた雰囲気はなくなっている。見ていても嫌だとは思わない。

 目的は達成されているとも言える。


「ちなみに、ムラサキさん、今のところこの絵、どう思う?」


 視線が絵に移った。清佳はその横顔を眺める。

 自分は感想がほしい訳ではないのだろうと思った。今求めているのは、終わりにするきっかけだ。描くかどうかを自分で決められなくても、「充分だ」とムラサキの一言があれば、終わりだと言いやすい。

 ムラサキが清佳に目を戻す。首をかしげて言葉を待ったが、妙な沈黙がある。

 これ以上見つめ合っていると、その気がなくても顔が赤くなってしまいそうだと、それとなく目をそらす。

 少ししてムラサキは言った。


「俺と笠原以外の奴らは、一昨日から実家に帰っている」

「えっ」


 何故今その話を、という驚きよりも、内容への興味が勝った。


「三人とも、学校が始まるまでには、戻ると言っていた」


 学校が始まる時まで、清佳がプラントポットにいる保証はない。伯母からの連絡次第だ。

 一週間ずっと誰かと顔を合わせることに怯えていたが、案外、あの三人とプラントポットで会うことは、二度とないのかもしれない。

 会うことを恐れていたくせに、さみしくなった。


「そう。そっか……」


 視線を下ろすと、イーゼルの足元に絵の具が転がっていた。拾い上げて机に載せながら「ううん」とうなる。

 胸がかき乱される理由は、二度とプラントポットで会えなくなることだけではない。

 咲坂と祐希が、実家に戻った理由。

 昼も夜もなく何度も思考に上がってきた、夏祭りの夜にした自身の言動が、再びよみがえる。

 ただプラントポットにいたくないだけなら、以前から度々泊まっていたらしい小野寺の家や、知人の家に行くこともできただろう。自惚れではないはずだ。


「私が……色々と言ったせい、かな」


 両親がいる人間への嫉妬、家出していることへの怒りを、むき出しにしてしまった。

 人には人の理由がある。両親がいても、幸福とは限らない。彼らは、彼らなりに切実な理由でプラントポットにいた。そう分かっていたのに、言葉にしてしまった。

 単なる八つ当たりだ。清佳の言葉を真に受ける必要なんて、彼らには全くなかった。

 それなのに、彼らはきっと、あれで何かを考えてしまった。


「みんな大丈夫そう?」

「連絡がないから、大丈夫だろう」

「つまりムラサキさんもよく知らないんだね……。いや、いいんだけど」


 そもそも清佳には心配する資格もない。

 もやもやとした気分で、横目にムラサキを見る。


「答えなくてもいいんだけど」


 デリケートな質問だ。しかも、今この話をした理由など、他にも聞きたいことはあった。

 だが、問いかけてしまう。


「ムラサキさんが今もここにいるのは、単に、絵を描くため?」


 ムラサキもまた、目だけで清佳を見た。


「うちは元々、放任気味だ。作品制作や海外出張で、しばらく姿を見ないことも珍しくない。家に帰っても、ここにいても、あまり変わらない」

「……やっぱり、色々だね」


 子供が家を出るまでもなく、親が家にいないこともある。


「でも、変わらないのなら、帰ってもいいんじゃ……。あ、その、帰れって訳ではなくて、単純な疑問として」

「あと、清佳さんと笠原が心配だったから」


 何てことなさそうに言われた。


「それは──」


 咄嗟に質問を飲み込んだ。

 だが、見透かしたようにムラサキは言った。


「二人とも、落ち込んでいるだろうから、放っておけなかった」


 清佳が何かしでかさないか、見張るためではない。

 とても情けない気分になって身を縮めた。

 自分の中にある、みっともない、情けない、醜い願望を、認めざるを得ない。

 だが、そう簡単に素直にはなれない。なってはならない。

 一旦、聞かなかったことにする。


「光さん、落ち込んでるの? それも私のせい?」

「いや。清佳さんのことには違いないが、自分のしたことを悔いているんだろう」

「……何か落ち込むようなことあったっけ」

「清佳さんの伯母さんを脅迫した。清佳さんを拉致して怯えさせた」

「えっ」


 さらりと言われて、またもや面食らった。

 清佳も、脅迫の首謀者と自分を襲った人間について、何となく推測はしていた。

 祐希や咲坂は、入り組んだ企みをするような性格ではない。清佳をアパートで見つけた時も、清佳の所業を知った時の様子も、何も知らなかった人のもののように見えた。

 ムラサキと小野寺は、清佳が拉致された時にその場にいなかった。もちろん、協力者がいれば必ずしもその場にいる必要はない。だが、あの時、二手に別れようと提案した人間が誰かということも重ねて考えると、妙に帰りの遅かった一人の人物に、疑いの目を向けずにはいられなかった。

 清佳の居場所を知らせたというダイレクトメッセージも、本人がするのなら、何も不思議なことはない。

 もし、プラントポット内に犯人がいるとするなら、笠原光は何か知っていそうだと、考えていた。

 ただ、それをムラサキから言い出すとは思っていなかった。


「それ、自分だって、光さんが言っていたの?」

「いや。ただ、安く住める家があると俺を誘ったのは、笠原だった。都合の良すぎる話だったから、何か良くないことをしているのだろうとは思っていた。拉致も、するかしないかで言えば、する奴だ」


 前半はともかく、後半の思いのほかざっくりとした推測に眉を寄せる。


「……不法占拠の首謀者と、私を拉致した人は、同一人物とは限らないよ」

「そうだな」

「付き合いの長い友達だとしても、確たる証拠もないのに決めつけるのは、良くないと思います」

「うん」


 少しも心に響いていない。ムラサキの中では、どちらの件でも光が犯人であることは、確定事項らしい。


「あと、小野寺さんも共犯だろう。咲坂と祐希をプラントポットに誘ったのは小野寺さんのはずだ。それに、祭の夜、清佳さんを探している間、小野寺さんの姿だけ見かけない時間があった。人混みの中でも、咲坂と光と祐希は何度か見かけたのに」

「あぁ……だから、あー、もう」


 仮にムラサキの言う通りだとしても、全く嬉しくない。

 推測の正しさ以前に、犯人の正体についてムラサキが考えていること自体が、苦しくて嫌だ。止めてほしい。


「そんなこと、考えないでおきなよ。気づかないふりして今まで通りやっていけばいいでしょう」


 犯人が明白だったとしても、とぼけて、知らないふりをしておけば、今まで通りに生活できる。

 思い描いている像が、虚しい夢に過ぎないことには、清佳も気がついている。案の定、ムラサキはあっさりと否定した。


「無理だ。小野寺さんや笠原と同じように、清佳さんも大切だから。なかったことにはできない」


 ただし、その否定の理由と、その声にこもった力強さは、予想外だった。


「全員そう思っている。清佳さんを大切にしたくて、どうすればいいのかを、考えている」

「止めてって……」


 聞かなかったことにしたのだから、何度も言わないでほしい。

 期待をしてしまう。もしかしたら許されるのではないかと、恥知らずにも考えてしまう。


「だめだよ。そんなこと、勝手に言ったら」


 騒ぐ心をふん縛って、無理やりに心の奥底に沈めた。


「全員って言ったら、光さんも、小野寺先輩も含まれちゃうし。……光さんだって、本当に落ち込んでるのかどうか。あ、後悔は後悔でも、ムラサキさんに勘づかれるような杜撰な計画を後悔しているのなら、私にも分からなくはないけど。あの時結局、言質すら取らずに、どこかに行っちゃったし。本当何がしたかったのか」

「笠原が反省していない方が、清佳さんにはいいのか?」

「そうじゃなくて! 勝手に代弁するなってこと。しかもまるで、私を許す、みたいなことを。そうとは限らない……どころか、仮に光さんが犯人なら……怒っている方が普通でしょう……」


 清佳の疑いに、ムラサキは首を振った。


「笠原は気が小さい」


 思わず首をかしげてしまった。大胆とまではいかないが、気が小さいようにも見えない。ムラサキは構わず続けた。


「繊細で純粋、と言い替えてもいいが。嫌いな人間にも嫌われたくない。傷つけたくない。そういう人間だ」

「繊細で純粋」

「相手が自分と似た境遇なら、なおさら。どう考えても今は、清佳さんにしたことで落ち込んでいる」


 似ているだけで、きっと経緯や思いは何もかも異なるだろうが、清佳にも覚えがある。両親のいない人間が、自分以外にもいると知った時の、ほの暗い同族意識。

 だが、だからと言って、同情するとは限らないのではないか、と思ったが。


「それだけならまあいい。笠原の問題は、それを自分では認めようとしないことだ」


 ムラサキの言葉は終わっていなかった。


「自分だけいいならそれでいいという嘘を、常に自分自身についている。そのせいで自分は苦しみ、他人からは理解されず、事はねじ曲がる」


 清佳とも関係のない、ムラサキ自身の愚痴が混じっているような気がする。


「……つまり。清佳さんが思っているより馬鹿なんだ、あいつは」


 珍しく、ムラサキは呆れ返っていた。

 ムラサキと光の関係性は、はた目から見ていると、どうにも捉えにくい。二人とも、全く逆の方向性に他人との距離感が個性的だから、一般的な尺度ではかれない。

 ただ、ムラサキが遠慮なく「馬鹿」と言うのは光だけだろうなと、聞きながら思った。


「許さなくていい。だが、できれば、あまり買いかぶらないでやってくれ」


 絵にほとんどの興味が向いているムラサキがここまで力説するのなら、本当に落ち込んでいるのかもしれない。

 ただ、それはそれで、「何だよ」と思わないでもない。

 首を絞めまでしたのに罪の意識に苦しむなんて、自分勝手とは思わないのか、と。

 覚悟もなくあんなことをしたのか、と。

 あとから申し訳なく思うくらいなら、最初からやらなければ良かった。計画的な行いだったのだから、何度でも自分を省みる機会はあったはずだ。

 思い浮かんだ不満は、全て自分に突き刺さる。

 ついでに、光に向けられたはずのムラサキの言葉も、今になって何となく痛い。

 落ち込んでいることを認めないから、事がねじ曲がる。


「光さんは友達に恵まれてるなあ」

「……清佳さんは、俺を友達とは思っていなかったのか」


 一瞬意味が分からない。あとから気がつく。


「あと、笠原は友達と言うか。マネージャーだ」


 そして、それだけは勘違いされたくないとでも言いたげな顔で、訂正された。

 結局のところ、欠かせない存在であることに変わりはなさそうだったので、違いは聞かなかった。


「ムラサキさんがそこまで言うなら、光さんは怒っていない、と思っておくよ」

「ありがとう」


 何故自分がお礼を言われているのだろうと可笑しくなり、少し笑った瞬間に、胸の内にあった糸が切れた。

 うずくまりたいくらいの自己嫌悪が、身の内側を焼く。


「こちらこそ、ありがとう」


 結局、清佳が描いている絵をどう思うかという質問には、答えてもらえていない。

 だがその代わりに、意識するのを避けながらも、内心で本当は欲していた言葉を、もらった。


「絵の話に、戻るんだけど」


 傷口に塩を塗り込むような痛みを覚える。無視して続ける。


「最後に、プランターを、描きたいと思ってて」


 一言喋る度に、耳に熱が集まった。恥ずかしさとは少し違う。


「陳腐って言うか、安直って言うか。どの口がって感じでもあるんだけど、描きたくて」

「いいと思う」

「……うん」


 耳の赤みを隠したくて、ムラサキがいる側の耳に手をそえた。


「この建物、来たばかりの頃、牢獄みたいに思えたの。でも、みんなと過ごしているうちに、そんな風に思うしかない自分が嫌になって……変えたいと思ってた。まあ、結局は変えない方を選んでたんだけど、絵では、ね」


 言い訳を連ねながら、思考を次に進める。

 プランターを描くとして、どのように描くのか。


「プランターだけ? 植物は描かないのか」


 プランターの中に植物を描くという思考がなかったことに、言われて気がついた。

 清佳自身はプランターの配置について考え始めていたところだった。最初から外の風景を描いているから、ただ地面にプランターを置くだけでは、かえって窮屈さを強調してしまうことになりそうだった。

 漠然と考えながら、あらためて絵を眺める。

 元は静かな湖畔と若木の絵だった。

 今は、清佳の中にある入りまじった思いが太陽や鹿、火山、ろうそくなどの形になって描き込まれている。意味があるものもあれば、ただ感覚に従って描いたものもある。

 ムラサキの目から見た自分という、描かれた当初のテーマからはかけ離れている。

 だが、そのテーマがまるで消えてしまった訳でもない。

 この絵を見返す時、清佳は今味わっている罪悪感と願いを、何度でも思い出すだろう。今後、清佳がどんな選択をしたとしても。

 それを思うと、何となく描きたいものが分かってくる。


「植物、生やそうか。そもそも植物がなければプランターだって分からなさそうだし。……あ。プランター、未確認飛行物体的に空を飛ばそうと思うんだけど、ただ空に描くだけだと、ぽつんと浮いているだけに見えちゃうかな。どうしたらいいと思う?」

「飛んでいる、ということを示したいんだな」

「うん」

「……あくまで例だが。翼やプロペラをつけるとか。飛んだ軌跡を描くとか」

「あ、軌跡、いいな。虹色にしよう軌跡。馬鹿みたいに明るくしよう」


 整った綺麗な絵にはしたくない、というのが、描き始めてからずっと考えていることだった。嘲笑されるくらいに滑稽な方が自分には相応しい。盗聴も騙し続けることも、それを止めることも、謝ることも、家事も節約も、何ひとつ綺麗にはできないから。

 絵筆の軸で、この辺りに、と場所を示した。

 脳裏には明星に向けて飛ぶプランターがある。

 描き方や使う絵の具、絵筆を相談しながら、できるだけ脳内のイメージに近づくように、描き進めた。



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