絵描きの物思い

 手始めに、若木の周囲に木々を増やした。

 霧の中に太陽と明けの明星を配置した。

 地面に小さな花を咲かせた。

 ムラサキに鹿を描いてもらった。

 湖の中には巨影を沈めた。

 遠くで火山を噴火させた。

 若木のそばにろうそくを置いた。

 葉の先をほんの少し焦げさせた。


「……ムラサキさん、ちょっと休憩していい? そう言えばお昼を食べてない」

「あぁ、もちろん」


 大して筆を入れたような気はしないのに、かなり時間がたっていた。

 エプロンを脱ぎ、恐る恐るアトリエを出る。


「まだ他の人、帰って来てないかな」

「咲坂と祐希と小野寺さんは一日いないはずだ。笠原は、いたとしても、部屋から出てこない。いないも同然」

「そうなの。何か作ろうと思うんだけど、ムラサキさん食べる?」

「俺の分もいいのか」


 聞き返されて、一瞬いいのだろうかと自問する。


「うん。久しぶりに、何か作りたい気分だから。……ムラサキさんが良ければ」

「食べる」

「……ありがと。あ、でもそう言えば食材、買ったままだ。大丈夫かなー……」

「足の早そうなものは、小野寺が食べていた。俺も食べた」

「そっか。良かった」


 三人いないのは本当のようで、一階に下りるまで誰の気配もなかった。

 久しぶりに冷蔵庫や食器棚を開ける。確かに誰かが料理をしていたようで、皿の位置などが少し変わっている。不味いカップラーメンや菓子パンですませていた頃を考えると、ずいぶんな進歩だと、自分の手柄ではないが、嬉しくなった。

 清佳自身はと言えば、この一週間はインスタント食品を温めて、誰かに見つかる前に自室に戻り食べる、という生活をしていた。

 楽ではあったが、やはり物足りなかったと、二人分のパスタを茹でながら思う。ベーコンと冷凍野菜に火を通し、出来合いのソースとあえて、皿に盛り付けた。

 ダイニングテーブルに皿を置き、ムラサキの斜向かいに座る。


「ありがとう。いただきます」

「うん。いただきます」


 いただきますと言うのも、少し久しぶりだ。

 パスタを食べながら、ぼんやりと言う。


「ムラサキさん、やっぱり絵、上手だねぇ」


 ただ絵を描けるというだけではない。清佳の曖昧な指示や問いかけを汲み取って、どの絵の具を合わせればいいか、水の量は、筆は、と助言をしてくれる。色の図鑑を見せながら説明してくれる。どうしても自分では描けそうにないと言えば、清佳の頭の中をのぞき込んできたように描いてくれる。


「……。清佳さんも、上手い」


 言葉を飲み込んだ気配があった。

 絵を描いている最中にも何度か感じたが、ムラサキは褒められても、あまり嬉しくさそうだ。

 ムラサキが最も嬉しそうにしたのは、清佳が「絵を描くのって楽しいね」と言った時だった。

 褒め方が悪いのだろうか。

 自分が言われてみて分かったが、少なくとも上手という言葉は、あまり良くはなさそうだ。


「ありがとう。けど「上手」って、言われてみて分かったけど、何か複雑だね。ごめん」

「……謝るようなことではない」


 ムラサキの絵に囲まれて、ムラサキに手伝ってもらいながら絵を描いている状態で上手と言われても、苦笑いしか出ない。

 清佳以上に知識があるムラサキは、それ以上に複雑だろう。きっと彼の比較対象は先人たちだ。


「とは言え、私は絵には詳しくないから、他の褒め言葉も、すごいとか綺麗とか、その程度しか分からないんだけど」

「充分じゃないか」

「私はそれでもいいけれど……描いた人に、できるだけお返しがしたくて。ムラサキさんも最初は感想を聞きたいって来たんだし」


 映画やゲームには、大抵レビューが存在している。言葉が思い浮かばない人間でも、レビューサイトなどで高評価をつけることで、作品に感謝を伝えた気分になれる。

 絵にも同様の仕組みは、きっとあるところにはあるのだろう。

 だが、どの道その方法は、創った本人が目の前にいる時には使えない。

 お金を払うのは、何か価値を決めてしまうようで複雑だ。払える額にも限度がある。


「突き詰めれば自己満足だとは分かってるけど。やっぱり貰いっぱなしは、何かさ。ムラサキさんにも喜んでほしい。……そうやって頑張るのって、鬱陶しいかな。薄っぺらい感想っていらない?」


 ムラサキは首をかしげた。


「人によるだろう。例えば俺の父親は、感想をもらうと大抵、分かっていないと怒る。母親は、作品が完成した時点で、作品への興味をなくす。感想には見向きもしない」


 この人は、先に自分以外の人間について言う人なのだと思いながら、問いかけた。


「ムラサキさんは?」


 恥ずかしがるような笑みが、ムラサキの顔に浮かぶ。


「……最近は、受け入れるようにしている」

「変わったの?」

「前は父と同じで、嫌だった。何を言われても、何も伝わっていない気がしたから」


 軽い感想しか言えない清佳には、耳の痛い言葉だった。だが、今は違うらしいのだからと、続きを待つ。


「だけど、中学の時……伝わらないのではなく、単に技術や知識を見せびらかしているだけで、そもそも、伝えようとしていたものなんて、なかったことに気がついた」


 ムラサキらしくもない、嘲るようなため息が切ない。


「それで、感想どころか、絵を描くこともできなくなった」


 盗聴ではなく、直接その顔を見ながら聞いたことで、その苦しみの強さを感じた。

 今まで、清佳がちらっとアトリエを覗き込んだ時や、一階でムラサキが料理を食べに来るのを待っている間も、アトリエで一人、苦しみに耐えていたのかも知れない。

 ただ、疑問がある。


「私に見せてくれた絵は?」


 清佳の絵は無論、ファイルに綴じられていた絵や部屋中にある絵、全てが中学までに描かれていたとは思えない。あれらの中には、この一、二年でリリースされたゲームの絵もあった。


「あれは俺の絵ではなくて、頼んできた人の絵だから」

「それ、違うの?」

「違う……と思っていたが」


 目が合って、微笑まれた。


「清佳さんの言う通り、同じだ。俺自身が空っぽでも、誰かのためなら、描ける。それが俺の絵だった」


 ムラサキが嬉しそうなので嬉しくなってしまうが、あまりピンとは来ていない。


「……描けるようにはなったんだ?」

「うん」


 本当に絵を描けるようになったことが嬉しいのだと伝わってくる。それならいいかと、笑い返した。


「だから、絵を見てくれる人と、伝わったことを大切にすることにした。お世辞でないのなら、上手でもすごいでも、褒め言葉以外も、受け入れるように……したい」

「あくまで、したい、なの」

「感情はすぐには切り替えられない。それに、困る褒め方もある。俺以外の誰かを下げたり」

「あぁ、いるね、そういう人」

「どれだけ直しても意味の分からない駄目出しをする人は、いる。全ては受け入れられない」

「仕事の話? 何か大変そうだなー。ムラサキさん、どうしてその方がいいと思うのかって説明、色の図鑑とか持ってきて、丁寧にしてくれるのに。たくさん知識がないとできないし……知識があっても、みんなにできることではないと思う。絵とはまた別の才能だよ」

「……ありがとう」


 パスタを食べるのを忘れていたことに気がつき、頬張って飲み込む。


「よし。とりあえず、気軽に褒めよ」


 ムラサキは「そういう結論になるのか」と、今気がついたように呟いた。「そういう話だったでしょ」とパスタを食べつつ応えた。

 一通り食べ終わってから、ふと気になって尋ねる。


「でも、あの絵って、私頼んでなくない? どう思ってるの、と聞きはしたけど」


 今や大分賑やかになってしまった、清佳を描いたという絵。

 以前の記憶なので、具体的にどう問いかけたのかは忘れてしまったが、絵で答えてほしいと言ってはいないはずだ。

 絵にしたのは、ムラサキの勝手だ。


「頼まれてはいない」

「じゃあ、それは、ムラサキさんの伝えたいことでしょう。空っぽではないよ」

「うん、今は」


 穏やかな目に見つめられて、少し居心地の悪さを味わう。


「一人で考えている時は分からなかったが、他人といる内に、多少、自分というものが見えてきた。清佳さんにも、笠原にも、祐希と咲坂と小野寺さんにも、伝えたいことができた」


 ムラサキが、この家を大切な場所だと感じていたことが、伝わってくる。

 その環境を他ならぬ自分が壊してしまった事実が胸に迫る。

 何故ムラサキがまだ自分に優しいのか、ずっと分からない。


「そう。……頑張ってたんだね」


 「良かった」は無責任すぎて、言えなかった。



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