閑寂


「……何か、静か?」

「他は出払ってる」


 誰かと遭遇することに怯えていたが、心配する必要がないと分かった途端、元気が出てきた。足音もひそめずに、四階まで上がる。


「四階って結構、上るの大変だよね。アトリエは静かな方がいいんだろうけど、部屋は光さんがいる三階とか、二階でも良かったんじゃない?」

「最初は、ずっと絵を描いている予定だった。降りにくい方が都合が良かった」

「最初は?」

「今は、他も楽しいと思うようになった。話したり、ゲームをしたり」

「……そう。それは何より」

「確かに、もう変えてもいいな。機会があれば」


 アトリエの前まで来て、アトリエに入るのは初めてだと気がついた。

 特に気にしていなさそうにムラサキが入っていってしまったので、「失礼します」と呟いて、恐る恐る清佳もアトリエに足を踏み入れた。

 部屋の作りは、自分の部屋と同じである。だが、生活するのに必要な家具はない。代わりに大量の絵や画材が置かれている。

 そして何故か、見覚えのあるテディベアもいる。


「ベアくんだ。結局ムラサキさんにもらわれたのか、あなたは」

「忘れてた……」


 ムラサキはテディベアを隠すように、テディベアの前に、近くにあったキャンバスを立てかけた。

 部屋の中心には、椅子と、黒い布をかぶったキャンバスがある。


「今更だけど、ムラサキさんってどういう絵を描いているの? 油絵?」

「自分の手で扱えそうなら、色々試す。水彩画もデジタルイラストも。母親が油絵で、父親が銅版画だったから、昔はその二つが多かった」

「デジタルも? 何か意外だな」

「好きなのはアクリル画だが、よく頼まれるのはデジタルだ。パソコンは今、部屋の方にあるが……」


 ムラサキはアトリエをうろうろして、絵の山の中からファイルを取り出してきた。

 首をかしげつつ開くと、精細な風景の描かれたポストカードや、どこかで見たことのあるキャラクターのイラストがファイリングされていた。


「い、意外だなぁ! これソシャゲのキャラじゃなかったっけ!?」

「昔、クラスの奴に頼まれて描いた」

「クラスの人に頼まれた絵も描くんだ……。仕事でしか描かないのかと。このファイル、全部そうなの?」

「全てではない。仕事の絵もある。仕事と言っても、生活費と、辛うじて資料代や材料費を賄える程度しか稼げてはいないが」

「しか、ではないよ。立派だよ」


 今までも侮っていたつもりはなかったが、あらためて話を聞くと、すごい人だと思う。両親が有名な絵描きだとしても、自分自身までもがそれを好きになって、才能を発揮できるかは別だ。実際、清佳は両親の仕事について詳しく知らなかったし、同じことをしようという気にはならなかった。

 感心しながらファイルや部屋を見ていると、ふとムラサキは固まった。


「……だから、俺に絵の話を、しないでくれ」


 口数が多くて、楽しそうで良かったのに、と軽く笑う。


「全然いいと思うけど」

「目的を忘れるところだった」

「本当に好きなんだね」


 ファイルをムラサキに返し、部屋の中心にある、布をかぶったキャンバスに目を向けた。


「見せる絵ってそれ?」


 明らかに一つだけ異質だ。


「見て、感想を、言えばいいんだよね。あの、もう一度言っておくけど私、本当に絵って分からなくて。普段は景気のいい映画見たり、血しぶきとか炎とかがすごいゲームしてるばかりで」

「知ってる。サメも好きだろう」

「……好き」


 珍しくムラサキは声を上げて笑った。意外と無邪気な笑い方をする。


「心配する前に、他に聞くことはないのか。何で布かけてあるのか、とか。何の絵なのか、とか」

「布をかけてあることに理由が?」

「じゃーん、ってしたくて」

「……ムラサキさんに対して、ほとんど初めて、光さんの友達だなぁと思ったよ」


 気を取り直して問いかける。


「何の絵?」

「清佳さんの絵」

「……私?」

「前に、見せると言ったから。俺が君をどう思っているか」


 キャンバスの前の椅子に座らさられた。

 後ろに立たれる。

 少し気にしていると、ムラサキはすぐに察したように、横にしゃがんだ。


「こんなに早く見せる予定ではなかったが。たぶん、今だろう。じゃーん」


 気の抜ける声とともに、キャンバスにかけられた布が取られた。

 そのゆるさに反して、絵は静かな雰囲気だった。

 水彩風の絵だ。

 全てがかすむ霧の中、冷たい湖が描かれている。

 湖のそばには、若い木がぽつんと生えていた。

 その緑は美しく、単体で見れば生命力に満ちている。

 けれど、どうしても周囲に、何もなさすぎた。


「さみしい絵」


 吐いた息が絵の中の霧とまじって、とけていくような気がした。

 呼吸する度に、体の中に、冷たい空気が入ってくるような心地がする。

 それでも、呼吸を止める訳にはいかない。


「綺麗だけど、綺麗だから、嫌だな」

「嫌?」

「嫌。見ているとさみしくなるのに、目が離せないから」


 そう言って、はっと我に返った。


「あぁこれ、私の絵なんだっけ。見ても、やっぱり、あんまりよく分からないけど……。そう考えると何言っても恥ずかしいな。綺麗だとは、やっぱり思うけど」

「嫌とも言った」

「あー……。絵の感想ってどう言えばいいの?」

「正解はないだろう」


 感想に正解などないことは知っているが、作品の制作者に直接聞かれた経験などないので、求められているところを探ってしまう。

 あらためて絵を見る。

 見てしまう。あまり見たくはないのに。


「私は嫌、というだけで。私以外の人にとっては良い絵なんじゃないかな。さみしいのが好きな人もいるでしょう。私も泣ける映画を見ることはあるし」


 無理やりに目をそらして、横にいるムラサキに顔を向けた。


「もういい? 見た」


 ちらっと見返される。


「……案外、俺は絵が上手いんだな」

「ハハ。何それ。素人が言うのも何だけど、上手なんじゃないかな。この部屋にある絵はどれも、それぞれの魅力があるように見えるよ。色々過ぎて、ずっといると疲れそうなくらい」

「……俺が上手いのではなくて、清佳さんに絵を見る才能があるのかもしれない」

「何でそうなる。そんな大した感想ではないでしょう。自分が上手だから、って思っておきなよ」


 笑っていると、ムラサキは脈絡なく言った。


「もう一つ頼んでいいか」


 内心、そろそろ部屋に戻りたいと思っている。

 今のところ、ムラサキからは嫌悪感などは伝わってこない。それが清佳にはかえって怖い。


「内容による」


 ムラサキは立ち上がると、アトリエをうろつき始めた。何か集めているようで、手に、物が積み上がっていく。

 少ししてそれらは、清佳の横の床に置かれた。

 あとから、部屋の隅にあった机が持ってこられて、床に置かれたものが載せられていく。


「片付けを……した方がいいと思う」

「最近は光がいなかった」

「自分でやりましょう」

「清佳さん、手を出して」


 言われるがままに手を出すと、手のひらに絵筆が載せられた。


「その絵に、上から描いて。描きたいものを」

「その絵」


 復唱しながら、ムラサキの視線の先を見る。

 先程見せられた、さみしい湖畔と若木の絵しかない。

 上から描くという言葉の意味を、頭の中で確かめる。


「う、上からって、この絵に、重ねて描くってこと? 私が?」


 机にパレットが置かれる。使い込まれているのが一目で分かる。

 パッケージの異なる絵の具が様々にある。足元には色鉛筆やクレヨンも積まれていた。

 絵筆も、刷毛のような太さから、化粧筆のような細さのものまで揃えられている。細いヘラも一緒に置いてあるが、それも絵を描く道具なのだろうか。


「どの画材を使ってもいい。使い慣れたものの方がいいのなら、この絵の具は、うちの学校で使ってるものだ」

「描く感じで進めてるけど、描かないよ?」

「……エプロン、大きいな。仕方ないか」

「頼み聞くかは内容によるって」

「これは聞けない頼み?」


 エプロンを手渡され、うっかり受け取ってしまう。


「……何で私に描かせたいの?」

「嫌だと思うのなら、直す方がいい」


 逃れる理由を探す。


「さっきも言ったけど、私が嫌ってだけだから。ムラサキさんが良いのなら良いんじゃない?」

「これは、清佳さんのための絵だから。嫌と言われたままでは渡せない」

「くれるの? 別にくれなくてもいいのですが」

「いいのか? 俺の部屋に飾るが」

「……それ自体はいいけど、その言い方が、何か。ムラサキさんから見た私の絵というだけでしょう。似顔絵とかならともかく……風景だし」

「俺にとっては清佳さんだから」

「しかも、ムラサキさんが描いた私の絵の上に、私が重ねて描くって、何かこう……」

「いい文脈だろう」

「いいかぁ?」


 だんだんと、させられようとしていることが飲み込めてくる。

 事故の後にも、一度だけ病院で絵を描かされた。その時は上からではなく、真っ白な紙で、これ程の画材もなかったが。


「ムラサキさん、私にアートセラピー的なことをしようとしてる?」

「少し違うが、知ってたか」

「まあ、させられたことあるから」


 心理療法の一つだ。絵を描くことで心理状態をはかる。絵を描くこと自体も、ストレスの解消に繋がると聞いた覚えがある。


「私は、そりゃあムラサキさんにしてみたら、正常とは言いにくいだろうけど。別に私自身は異常だとは思わないし。それにムラサキさんにセラピーをされるのは……何か違うような」


 ムラサキは盗聴された側の人間だ。盗聴をした人間に対して、異常者と糾弾したい気持ちはあるだろう。清佳も弁解するつもりはない。

 ただ、清佳にしてみたら筋道は通っている。現在に関して言えば調子が良いとは言いにくいものの、盗聴して、それがバレて、ほぼ引きこもっているという現状は、それはそれで正常ではあるはずだ。

 だが、ムラサキは首を振った。


「これが清佳さんにとって良く働くのかは、俺には分からない。絵を描くことが健康に良いだけなら、絵描きは皆健康だ。スランプにもならない」


 自虐のような気がするが、一応清佳はスランプについては知らないことになっているので、そっとしておく。


「何なら、清佳さんは今の方が良いと、俺は思う」

「え」

「清佳さんも今の方が楽だろう?」


 認めてしまっていいのかと不安に思ったが、今更取り繕っても仕方ないと、考えるのを止めた。


「楽だよ。色々と面倒だったし……好きでやっていたことではなかったから。もちろん、だから許せとは言わないけど」


 引き受けたことを後悔し、何度も。止められないかと考えた。

 五人にも言った通り、結局続けていたのだから何の免罪符にもならないが、それも本心ではある。


「だったら、清佳さんは今のままでいい」

「いいの……?」

「ただ、この絵は、描き変えていってほしい。文脈とは言ったが、それも気にせずに、清佳さんの好きなように描いていいから」


 淡々とした口調の中に切実さがある。


「出ていく前に」


 つまり、上書きをしていけということだ。ムラサキの目にうつる清佳という人間を、文字通りに描き変える。

 そんなことをしていいとは思えない。厚顔にも程がある。

 だが、この絵がこのままの状態でムラサキの部屋に飾られるのは、悲しくもあった。プラントポットで過ごしている時の自分は、もしかすると客観的に見ればさみしそうに見えたのかも知れないが、自分自身では本当に楽しいと思っていた。

 逃れるための言い訳はいくつか浮かんでいたが、渡された筆を握った。


「……もっと、意味分からない理由にしてよ。感覚的で、めちゃくちゃで、芸術家ってよく分かんないね、って言えるようなさー」

「それは親がやってるからな」


 エプロンを広げて、立ち上がり身につけた。

 改まって絵と向き合ってみるが、何を描いたらいいか分からない。


「……そこまで言うなら、描く、けど。私からも要求していい?」


 好きなようにと言われても、今ある絵を無視することはできない。

 それがどんなイメージであったとしても、せっかくムラサキが描いてくれた絵を、全て否定することはしたくない。

 まるで関係のないものではなく、ムラサキの思いも受け止めるような絵を描きたい。


「私が一人で描いても、単に台無しにするだけだから。この辺に魚が描きたいとか、色をもっと明るくしたいとか、私が言ったら、ちゃんとアドバイスはしてほしい」

「うん、技術的なアドバイスくらいは」

「……言葉だけじゃなくて、手も目も貸して」


 ムラサキとの間に置かれた机を、少し後ろに移動させる。筆と絵の具がいくつか落ちた。


「自分探しってのは、鏡ばかりを見るものでもないでしょう」


 断らせないぞ、という思いで、ムラサキの腕をつかんだ。

 珍しく、瞳の中で、感情が動くのがはっきりと分かる。


「……はい」

「何か怯えてない?」

「怯えてはいない。驚いただけだ。……椅子をもう一つ、持ってくるから」


 腕を離すと、ムラサキはアトリエを出ていった。


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