七月後編

三文

 食事を作らなくていいのは楽だ、と何度目かも分からない感慨を抱く。

 夏祭りの夜から一週間。

 録音データを聞き返す必要もなくなり、家事もせず、宿題も終わってしまい、ぼんやりと映画を見続けている。

 伯母には既に「無理でした。帰ります」と連絡をした。

 だが、忙しいのか怒っているのか、返信がない。

 出ていくとすれば伯母の家に戻るしかないので、勝手に引っ越しはできない。待機する他になかった。

 今日見ているのは、演出の派手さが売りの昔の映画だ。意味もなく人間の背後などが爆発する。

 爆発は身近には起きないからいい。

 ただし、爆発は、車の事故とセットで起こされることも多い。それはできるだけ避けたい。

 車の破壊や、親役の死も見たくない。

 今度のことで、首絞めや拉致、誘拐などに関する描写にも恐怖を感じるようになった。

 ああいうのはフィクションだから良いのだ。現実には一切求めていない。

 一つ見終わって、次は何を見ようかとネットの評判などを探る。

 最高の夏休みだ。

 ため息をついていると、背後で、音がした。

 扉がノックされている。


「――誰?」


 問いかけは聞こえていないはずだが、応えるように、もう一度扉がノックされた。

 居留守という単語が頭をよぎる。ただ、玄関に靴があるので、居留守を使ったことは確実にバレる。

 それに、散々に不義理をしたのだから、恨み言を言われるとしても、甘んじて受けるべきだろう。

 渋々立ち上がり、扉を開いた。


「……ムラサキさん」


 ひょいと手が上がる。


「おはよう」

「……おはよ」


 この一週間、清佳は必要な時以外、部屋を出ていない。

 そしてムラサキの部屋とアトリエは、最上階である四階にある。中々すれ違うような機会はない。

 顔を見たのはあの夜以来だ。

 ムラサキは挨拶の後、じろじろと清佳を見るだけで、何も言わなかった。

 以前であれば清佳も何か言われるまで待ったのだが、さすがに今は待つような心の余裕がない。ため息をついて問いかける。


「何か用? 殴りに来た?」

「怪我は?」

「怪我? ……あぁ。あの時の?」


 殴られた腹、肩。絞められた首。縛られていた手首足首。筋も何箇所か痛めた。

 詳しくは住人たちには言っていない。


「元気そうには見えるが。まだ、痛むところはないか」


 どうやらムラサキは、清佳の体を心配していたらしい。

 呆れはしたが、一応答えた。


「痕は残っているけど、痛みはないよ。心的外傷はまだあるかな。拉致シーンのある映画を見られなくなった」

「……そうか」

「そんな深刻そうな顔しないでよ。冗談だって。映画を見られなくなるくらいの影響しかなかった、ってこと」

「好きなものを見られない、というのは、深刻なことだろう」


 そう言われて、ムラサキがスランプになっていることを思い出した。かなり無神経なことを言ったと後悔するが、素直に謝れない。


「……そうかもね。でも、ムラサキさんが気にするようなことではない」


 話しているうち、ムラサキが訪ねてくる理由をふと思いついた。


「もしかして、あの日のバレッタ、返しに来いって言いにきた? ちょっと待ってて」


 飾るに飾れず、テーブルに置いたままだ。

 部屋を戻ろうとすると、肩をつかまれた。


「返さなくていい。それは清佳さんが持っていてくれ。用は別にある」

「……そう。じゃあもらっておくけど」


 それなら何だと疑問をこめて、ムラサキを見る。

 ムラサキの目は静かだ。何も考えていないようにも見える。

 だが、その奥ではずっと、目の前にあるものを受け止め、解釈し続けている。


「絵、を。見てほしくて」

「え……って、絵?」


 アトリエの入り口などに置かれているものは自然と目に入っていたが、あらためてムラサキ自身に、絵を見せると言われて見たことはない。

 見てみたい、と反射的に思う。

 時に食事を忘れ、睡眠まで忘れながらも、ムラサキが打ち込んでいるものだ。

 だが、素直に「見たい」とは言えない。


「……光さんの方が良くない? 私、絵については何にも分からないよ」

「いい。知識で見てほしい訳ではない。清佳さんの感想を知りたい」

「いや、でも……私でいいの?」

「わざわざ清佳さんの部屋を訪れて、そう言われて、やっぱり清佳さん以外にする、と答える人間がいると思うか?」

「ムラサキさんにしては理屈だなぁ」

「理屈がなければ、他人は動かない」


 直感で生きていそうなムラサキの言葉としては、意外だった。

 自分が直感でも動くことができるから、余計に、他人は理屈ばかり気にするように見えるのかもしれないとも思う。


「……ま、そこまで言うなら行くよ。暇だし。部屋着だから、着替えだけさせてくれる?」

「朝食は食べたのか」


 聞く方と言われる方が以前と逆だと、少し笑ってしまった。


「大丈夫。食べたよ。カップラーメンだけど」


 着替えをして、ムラサキについて自室を出た。


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