花火
花火の音で、目が覚めた。
ぼんやりとしながらも体を起こそうとした。
だが、体は思ったように動かなかった。
特に背中が痛い。いや腹も痛い。首が動かない。顔が上げられない。
徐々に頭がはっきりしてきて、自分の状態が見えてくる。
椅子に座らされている。
両手は、背もたれを逆側から抱くようにして、縛られていた。
さらに首の後ろから太ももの裏側にかけて紐が通されて、輪になっている。
顔を上げようとしても、その輪のせいで、顔はほとんど動かない。体は折れ曲がり、腕は肩との境からちぎれそうだ。膝を少し浮かしても、輪が取れるまでには至らない。首を下げても同じこと。
自分の腹の辺りにしか、顔を向けられない。
足は手と同じように、足首の辺りをまとめて縛られている。
呆然としていると、視界のやや上の方で、ふと光が動いた。
視線だけ上げて見ると、ローテーブルの上に、パソコンのモニターがあった。
真っ白な背景に、黒い大きな文字が表示されていた。
『おはようございます』
じっとその字を見ていたら、自分の身に何が起きたのかを思い出した。
夏祭り。
人混み。
痛み。
苦しみ。
「……何、これ」
画面が切り替わった。
『動かないでください。首を絞めます』
「くび、しめ? うぐっ……」
軽くではあるが、喉に紐によるものと思われる、圧迫感があった。
圧迫感から逃れようとして、自然と顎が上がろうとするが、首の後ろから太ももの裏に通された輪のせいで、ろくに顔は上げられない。逃げられない。
体を封じる用途の紐と、首を絞める用途の紐。清佳の首には今、二本の紐がかけられているらしい。
そして、首を絞める用の紐は、喉元を通って自分の背後に続いているようだ。
では、その紐の先は、どうなっている。
紐にこめられた力の緩まり方から、妙な人間らしさを感じて、鳥肌が立った。
「ひっ……」
喉元を通る紐の両端は、握られている。
いつでも清佳の首を絞められるように。
背後にいる誰かに。
清佳をここに連れてきた人間が。
背筋が凍る。
「やだ、死にたくない。何で」
まるで自分の声ではないように、泣きそうに震えていた。
少し置いて、目の前にある画面が一瞬明滅した。
今度は真っ白な画面だ。
そして、背後から、カタ、カタ、とゆっくりとキーボードの打鍵音がした。
打鍵がされる度に、ほんの少し首にかかった紐が動く。
体が震えてしまう。
画面に文字が表示されていく。
『殺しはしません』
文字の意味が分からない。
本当に犯人が背後にいる、とそれだけしか考えられない。
「何で、やだぁ……」
殴られた腹も、無理な方向へ回されて縛り上げられている腕も、ずっと痛い。
「おかあ……さ、ん。お父さ……」
もういないのに、他に頼れる人を知らなくて、呼んでしまう。
「何で、私、ばかり」
頬を流れた涙が、顎を伝って、口の中に入り込む。腿に落ちていく。
背後から椅子の足を蹴られた。
頭上で画面が切り替わる。
『要求は一つです』
涙で文字がぼやけるが、何とか読めた。
『プラントポットから出ていってください。うなずけば無事に帰します』
知っている文字列を目にして、訳の分からない状況に、少しだけ道筋が見えた。
「プラントポットの……誰か?」
ここまでされたのだから、誰であっても正気を信じることなどできないと、頭の片隅で思う。だが、背後にいるのが知り合いであるという可能性と、『殺しません』という言葉に、すがりたくてたまらなかった。
「む……ムラサキさん、咲坂くん、祐希くん、光さん、小野寺先輩、のうちの、誰か?」
微かに首が絞まるが、その動きがかえって、名前を出したうちの誰かだと感じさせた。
「何で、こんなこと、するの」
画面が切り替わった。
『モニターの右側を見てください』
目だけ動かして、モニターの右側を見た。何かあることには気がついていたが、意識には上っていなかった。
あらためて示されて、ようやく理解する。
一見、コンセントにつける電源タップにしか見えないもの。
小さくて、物陰に隠せば気づくことは困難なもの。
仮に見つけられたとしても、USBメモリとしか思われないだろうもの。
頭が冷えていく。
「盗聴器……」
貼りつけるのに使っていたテープや、テープの跡、土に埋めるための袋などは、つけられたままになっていた。
普段、自分が使っているものであることは、疑いようがなかった。
「梓さんを、脅迫してる人?」
打鍵音とともに、画面に『はい』と映し出される。くらっと視界が歪んだ。
あらかじめ用意されている文章と、この場で打っている文章があるようだ。
拘束といい殺風景な部屋といい盗聴器といい、酷く計画的だ。
だから、夏祭りにみんなで来ることになったのも、計画のうちなのだろう。
話を持ちかけてきた咲坂――は、違うと思いたい。咲坂は純粋に楽しみにしているように見えた。
だが、それを言うなら誰だって楽しみにしているように見えていたし、違ってほしい。
「何で、こんなことするの?」
もう一度問いかけたが、今度はさっきとは意味が違う。清佳を襲った理由ではなく、脅迫や拉致などの危険を犯してまでプラントポットを不法占拠している理由。自分の推測ではなく、彼自身の口から知りたかった。
だが、彼は答えない。
『要求は一つです。プラントポットから出ていってください』
既に見た文章だ。
動機は聞くな、ということだろう。
承諾だけを求められている。
清佳は特に取り柄もない、普通の女子高校生だ。実力行使をされれば為す術はないし、単純に恐ろしい。
今すぐにでもうなずいて、この状況から救われたい。
だが、事故に遭った車のように、本能と思考と願望と、あと何だかよく分からない色々な何かが、頭の中でぐちゃぐちゃになっていた。
「出ていけって、言われても……」
拒絶めいたことを口にしてしまう。
途端、首が絞まった。反射的に逃げようとするが、首の後ろの紐が食い込んで逃げられない。
「あ……」
顔の皮膚から温度が失われる。思わず手を引こうとするが、手首にかけられた紐はとけない。
死ぬ、と思った瞬間、紐は緩んだ。
広がった気道に、文字通り必死に、空気を送り込みながら。
死ぬ時には、涙を流す間もなく、状況を理解する間もなく、ふっと死ぬことを思い出す。
もしこれが最期になるならば、問いかけや言い訳ではなくて、言い残しておかなければならないことがあると、そう思う。
「ご、めん、な、さい」
口にした瞬間、そう言えば、としゃぼん玉のように思いが弾けた。
ずっと、死にたがっていたのだった。
両親とともに事故に遭って、自分だけ生き残った、あの日から。
ずっと、死にたいと願っていた。
たった一人だけ生き残ってしまった親不孝な自分は。
好きと言いながら、共に住む人々を騙す自分は。
死ぬべきだと思っていた。
謝らなければならないと思っていた。
「殺していいよ」
死ぬのは怖くて、苦しいのは嫌で、両親に申し訳なくて、涙が止まらない。
けれど、そう言った。
「誰か、分かんないけど。ごめんね」
窓の外で花火の音がした。
カーテンが閉め切られていて、その光は見えない。
酷い罪を重ねていると、その時気がついた。
「花火、見せられなくて、ごめん」
ひょっとすると、一人ではなくて、五人全員が背後にいて清佳の首を絞めているのかもしれない。
そうされても仕方のないことを、している。
友達と行く夏祭りを、自分のために浪費させている。
自分の選んだ選択肢に従って彼らの敵になりきることも、自分の執着を捨てて彼らの仲間になることもできなかったせいで、全員が不幸になる道を選ばせてしまった。
「みんなと、お祭、楽しませてあげられなくて。ごめん……」
喉にかかっていた紐が、足に落ちた。
「うっ……」
肩を強く殴られる。
殴られた箇所も痛いが、既に裂けそうになっている腕と肩のつなぎ目に伝わった衝撃が、特に辛い。
呻いていると、背後で打鍵音がして、モニターに文字が表示された。
『君は何故』
そこまでで、あとは書かれず、消された。一瞬だった。
伯母の命令に従っている理由を聞こうとしていたのかと推測する。見当はずれの推測である可能性はあったが、この際、どうでも良かった。
罪滅ぼしになるのなら、命でも動機でも、渡してしまいたい。
そう思いながら、何故だか笑ってしまう。
「何でだろうね」
泣きすぎたせいか、窒息させられたせいか、頭が痛い。
「最初は、梓さんに嫌われるのが怖かったから。お父さんとお母さんの思い出話をしたかったの、梓さんと。頼みを断ったら私のこと嫌いになって、話もしてくれなくなるって。そういう風に考えて引き受けた、けど、本当は。頼みを聞いたところで。梓さんが私と思い出話してくれる保証なんか……ない。……ないんだよね」
初めて言葉にしたが、今初めて考えた気はしない。ずっと心のどこかで思っていた。酷く恐れていたことを口にしているはずなのに、気持ちは乾燥している。
「何で一人だけ生き残ったって、もしかしたら、とっくに恨まれてるかもしれなくて。プラントポットに来させたのも、厄介払いしたかっただけとか……何となく、思ったことある気もするけど。どうだったんだろう。そうだとしたら、私、何で、何がしたかったんだろう」
当然のことながら相槌はない。
首を絞めて止めてくれてもいいのに、と思いながら、自分では止められなくて、価値のない話をする。
「そもそも梓さん、葬儀の準備とか事務処理の時以外でお父さんとお母さんの話全然してくれないし。嫌われてなくても結果は同じだったりして、とかも、考えたことある気がするし。アハハ」
自然と目が盗聴器に向く。
問いかけを繰り返してはいるが、答えは既に知っているのだった。
「やっぱり、破滅願望だったのかな」
口に出してみると、酷く陳腐に感じた。
死んだ両親の後追い。健康に生きている自分が許せなかった。
「それか、お父さんとお母さんのこと、忘れてない、ふりとか。ずっと大切にしてるって自分へのアピール。もう、声も思い出せない自分への、罰。ヤケクソ。自傷行為。それも……良く言い過ぎか」
背後で打鍵音がして、反射的に口を閉じた。
目の前の画面には何も映されない。真っ白なままだ。
誰かに連絡を取っている可能性に気がつく。連鎖的に、背後にいる人が五人以外の誰かである可能性にも思い至った。一瞬の記憶ではあるが、思えば、清佳を拉致したのは見知らぬ誰かだった。例えば、自分が伯母から頼まれたように、五人のうちの誰かから依頼を受けたり、あるいはプラントポットに住んでいない協力者がいたり。
見知らぬ人だとしたら、ずいぶんと悠長に話を聞いてくれたと思う。すぐに、五人のうちの誰かだとしても気が長い、と思い直す。
恐怖によって脅迫するなら、動機なんてものを聞いても、意味はない。
首を絞める用の紐も落としてしまって。
もしかして本当に殺さないのかと考えていると、ふと、首元に微かに風が当たった。
人の動く気配があった。
どことなく視界が薄暗くなった、と思ったら、頭上から大きな毛布をかけられた。足元まで覆われて息がこもる。
不安感で血の気が引くが、体には毛布以外のものは何も触れない。
毛布越しに、真横を誰かが通っていく気配がする。
モニターを持ち上げる音。コンセントからプラグを抜く音。
「お、わり?」
返事はなく、椅子が横向きにゆっくりと倒された。
少し楽になったような感覚はあったが、首の後ろから太ももの裏に回された紐はそのままで、やはり体勢的には厳しい。
また、背もたれの後ろに回された腕が、背もたれと床の下敷きになっている。間に毛布が挟まってはいるが、純粋な痛みで言えば、首を絞められた時よりも痛い。
「待って。腕、痛い。動けない!」
足音は遠ざかっていった。
電灯のスイッチが押され、毛布越しの光まで消える。
遠くで扉の閉まる音がした。
花火の音だけが残った。
「……餓死するまで、置いておかれるとか、ない、よね」
それはあまりにも嫌な死に方だ。
きっとさみしい。暗い。苦しい。辛い。痛い。
死に方を選ぶなんて贅沢なのだろうけれど。
これから誰か別の人間が来るのか、あるいは練炭でも焚かれているのだろうかとも考えたが、何も起きなかった。花火の音が聞こえるだけだ。
痛みにただ耐えるのは辛く、しかも少し暇だったものだから、何もかも夢だったらいいのにと、妄想した。
目が覚めたら、自分の家で。
ダイニングでは、お父さんが眠たそうにご飯を食べていて。
キッチンでは、お母さんが忙しそうにしていて。
二人とも、清佳に「おはよう」と笑いかけてくれる。
清佳の誕生日だからって、外食なんて行かなくて良かった。
家でケーキを食べて、「美味しかったね」で終わりで良かった。
しばらく想像していたが、結局毛布の中で目をつむり、その夢を追い払った。
もう飽きるほど願って、飽きるほど失望した。飽きているのに悲しみは尽きずこみ上げる。
他のことを考えようとしたが、何を考えても何だか悲しくなった。
耐えるしかないと、目をつむった。
大声を出して助けを求める気には、なれなかった。
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