七月前編
胸走火
どうせまたアトリエにいるのだろうと、清佳はやや駆け足にアトリエに向かった。
開いたままの扉をのぞき込めば、案の定、廊下の奥に、椅子に座った背が見える。
「ムラサキさん、もうみんな外出てるよ。行かないの?」
「行く」
「……。いや、行く、じゃなくて。早く来てよ」
ムラサキは少しして立ち上がり、アトリエを出てきた。やや乱暴にアトリエの扉を閉める。
一瞬見えたキャンバスは、真っ白だった。
気の毒は思うが、スランプに関しては盗聴で知った事実なので、清佳は何も気づいていないふりをするしかない。
「財布とか、必要なもの持ってる?」
「部屋寄ってから行く」
「先に準備しておいてよ」
アトリエの向かいにある部屋に、ムラサキは入っていく。待っている間、清佳はムラサキの部屋の前で、下で待っている住人たちに向けて連絡する。
ムラサキの保護者役である光が、他の面々にやや理不尽に怒られているのを眺めていると、ムラサキの部屋の扉が開いた。
「さ、行こ……う?」
頭の上に何か載せられた。
取り上げて見ると、夏らしい涼しげな雰囲気のバレッタだ。
「あげる」
「え? 何で?」
「かわいいから」
「かわいいけど」
ムラサキはさっさと歩いていってしまった。
「……まあ、つけておくか」
趣味のデザインではある。結んでいた髪を少し下でまとめ直して、バレッタをつけた。
廊下やリビングなどの電気が消えているか最終確認をしながら、一階に下りた。
外に出ると、ムラサキが待っていた面々に小突かれていた。
「あーもう、いじめない。行こ」
プラントポットの扉に鍵をかけて、六人でぞろぞろと駅へ向かう。
「電車混んでそうで嫌だな……。僕もシュートくんみたいに背、高くなりたかった」
「あ、サヤさん。はぐれた時、どうするか決めておかない?」
「連絡だけ入れて、各自で適当に帰ればいいだろ。女引っかけて帰らねえ奴もいそうだし」
「やだもう、敬司くんったらそんなこと言わないでよ。期待に応えたくなっちゃうでしょ」
「光さん……。でも咲坂くん、はぐれてもいいって、じゃあ一緒に行く意味なくない?」
「最初から一人で行くのと、途中ではぐれて一人になんのは違ぇだろうが」
「ケージくん、一匹狼っぽい雰囲気出しておいて、結構そういうところあるよね」
「そういうって何だよはっきり言え。はり倒すぞ」
「言い合いはいいんだけど、帰る時まで体力は残しておいてよ。帰りの電車の方が混むだろうから」
「人混みくらいでで疲れるかっての。なあ……あ、だめだ、ここひ弱しかいねぇ。檜原、今回はお前の勝ちだ」
「ひ弱じゃないし。僕は人混み苦手なだけで、体力はあるから」
「ガキがナマ言ってんじゃねえよ。五月頃から夏バテつってへばってたくせに」
「そんなことない!」
呆れて眺めていると、光に肩を抱かれた。
「サヤちゃん、何かかわいいのつけてんね。さっきもつけてたっけ?」
内心で「目ざといな」と思いながら、肩に回された手を払いのける。
「さっきムラサキさんにもらいました」
「え、何で?」
「かわいいから、だそうです」
自分では使わないが、デザインなどで心惹かれて衝動買いしてしまう気持ちは分かる。
だが、光の反応は「納得」ではなかった。
「……紫純。それ、どっちのこと言ってる?」
「ノーコメント」
「ほぼ答えだろ、それ。えー、どうすっかな」
「何もするな。勝手にやるから」
「紫純のマネージャーとしては、指くわえて見てる訳にはなー。サヤちゃん、俺どうしたらいいと思う?」
「……何、何が? 今、全然話についていけなかった。何の話です?」
「鈍感。紫純がかわいいって言ったのは、果たして何に対してでしょうか、って話」
「バレッタ以外にあります?」
「自分自分」
頬に指をさされ、再び払いのけながらも、動揺する。
清佳を挟んで光の反対側、ほんの少し先を歩くムラサキを見上げた。
「かわいいの、私?」
ムラサキは少しだけ顔を清佳に向けた。
「ノーコメント」
「だからほぼ答えだろって、それ」
清佳も若干光と同意見だが、保留にしておく。
どの道、いわゆる恋愛的なそれとは限らない。単純に、ペットをかわいがるような意味かも知れない。清佳はその可能性に賭けておく。
「ほんと困っちゃうな~。どうしよ? サヤちゃんから希望ある?」
「何で光さんが困るんですか。……とりあえず光さんは、ムラサキさんの言うことに従っておけば良いのではないでしょーか。と言うかその質問、どんな答えを想定してるんです」
「アトリエに二人とも押し込んで、外から開けられないように押さえとくとか」
「驚きの力技ですね。普通に止めてください」
気まずいのもあるが、それをされた場合、伯母からの命令を果たすべきかと検討する羽目になる。無理やりされた、という証言は、脅迫ネタとしては強度が高い。もちろんそんな騙し討ちはしたくないが、絶対にしないと言い切る程には、清佳は自分を信用していない。
伯母を思い出して、バレッタの方も、もらって良かったのかと気になり始めた。真の理由はともかく、恐らく贈り物には違いない。
騙しているのに。
せめて今日くらいは忘れようと、思考から追い出した。
「ムラサキさんも、嬉しいけど、何と言うか……アクセサリーって私、あんまりつけないし。次は受け取らないから、ね」
「俺がベアくん贈ろうとした時と反応違くない?」
「そりゃ違いますよ。光さんだからとかでなく、渡し方が全然違いますから。光さん、不審でしたから」
あのテディベアは結局どうしたのだろうと気になったが、今聞くようなことでもないかと、脇に置いておく。
あらためてムラサキに目を向けた。
「あと、そう言えば言ってなかった。かわいいバレッタをありがとう。これは、もうもらってしまったから、つけるようにする……使わない時は、部屋に飾っておこうかな」
ムラサキの返事を聞く前に、いつの間にかかなり先に行っていた咲坂に、大声で名を呼ばれた。
「夜中の住宅街で、人の苗字を叫ばないでくれるかなー」
照れ隠しもこみで、早足に咲坂のところまで歩いていく。
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