絵描きの不思議

 入居初日に、ムラサキは絵を描く人間だとは、光から紹介された。

 最上階である四階にはアトリエがあること、アトリエの掃除はしなくていいこと、光とムラサキは幼なじみであることなども、全て光から伝えられた。

 盗聴や普段の生活から、それらの言葉の裏付けは取れている。咲坂と喧嘩をしている間にも、廊下で出くわしたことがあった。

 だが、こうして一対一で向き合う場になると、本人の口からも聞いてみたくなる。


「ムラサキさん、この時間まで絵を描いてたの?」


 電気ケトルがかすかに音を立て始めた。

 無言のうなずきを見て、どうしたものかと清佳は首をひねる。

 先程は明らかに様子がおかしかった。

 絵を描くこと自体は悪くはないが、それで精神のバランスを欠くようでは、本人も困るのではないか。

 ただ、芸術家は己の精神に向き合うものというイメージもある。止めるべきだと、強く言っていいのか分からない。


「とりあえず、食事はした方がいいと思う。死ぬから。あと、絵を描くのにも、体力っているんじゃないの?」

「……」

「あー……もしかして。夕食前に呼びはしたんだけど、聞こえてなかった、みたいなことある?」


 清佳は食事前に人が来なかったら、声をかけるようにしている。今日もムラサキには声をかけた。

 その時は、返事はあったが「あぁ」という一言だけだった。

 結局来なかったので、いらないと判断したのだろうと思っていたが、違ったのかもしれない。

 投げかけられた言葉をきちんと理解せず、反射的に適当な返事をしてしまった経験が、清佳にはある。今日呼びかけた時のムラサキも、声は聞こえて返事もしたが、その内容までは頭に入っていなかったのかもしれない。


「そもそも、アトリエにいる時……特に絵を描いている時って、声をかけていいものなのかな。集中してると邪魔かも、とか思って、声小さめにしてたんだけど。中入って、肩揺らすまでした方がいい?」


 お湯がわいた。インスタントの春雨スープを入れたマグカップに湯を注ぐ。


「肩は、揺らさないでほしい。声は聞こえている。邪魔かどうかは気にしなくていい」

「……了解」


 肝心なのは、食事は取る方がいい、という話の方だ。だが、意図的に無視されているようにも感じた。これ以上言いにくい。

 春雨がほぐれてから、マグカップをムラサキの前に出した。

 そのまま椅子には座らずに、キッチンの中に戻って、食器棚に寄りかかる。

 ひとまず今は拒まずに、大人しく春雨スープを食べている。食欲がない訳ではないらしい。

 咲坂や祐希のように反発が分かりやすければ強く言えるが、反応が薄いと、何とも言いにくい。

 清佳が食事を、アトリエまで持っていくこともできる。ただ、それをし始めると、他の住人に頼まれた時にもしなければ、文句が出るだろう。

 態度はともかく、対応に関しては、妙な優劣をつけたくはない。

 何か良い方法はないかと首をかしげる。


「これ、聞いていいことなのかも分からないのだけど。さっきみたいなことって、頻繁にあるの?」

「さっきみたいな、とは」

「……光さんの言葉で言えば、「変」になる、みたいなこと」


 一口に「変」とまとめてしまっていいのか分からないが、上手く言えない。

 早口で一方的な話し方は、ムラサキにしては珍しいが、変と言う程ではない。危うさを感じた核心はそこではない。

 さっき、ムラサキがつらつらと「緑」について話している間、清佳が感じたのは、何を言っても、きっと今のムラサキには聞こえないだろうという諦めだった。

 目も耳も、すっかり閉じてしまったような雰囲気があった。

 清佳のといに、ムラサキは何も答えない。清佳の質問が的を射ていなくて意味が分からないのか、それとも答えたくないのか。

 付き合いの長い光に聞いてみた方が、より詳細に分かるのかもしれない。

 だが、光に聞いても、光の知るムラサキの情報しか得られないようにも思うのである。

 目の前に本人がいるのだから、本人に聞けることは、やはり聞いておきたい。


「じゃあ……あぁ。さっきムラサキさん、緑色について話してくれたけど。ああいうの、普段から考えてるの?」


 今度は返事があった。


「考えてはいない。覚えているだけ」

「ふーん。すごい」

「……すごくはない。覚えるだけなら、誰にでもできる」

「覚えているだけでもすごいと思うよ。知識があったら、思考も広がるだろうし」

「そこが――俺は上手くない」


 ムラサキはうつむく。落ち込ませてしまったような気がしたが、他にかける言葉を思いつかない。


「ううん……。ムラサキさんが見ている景色、私とは全然違いそうで、羨ましいけどな。同じ赤を見ても、思いつくことが違うと言うか。何かあるよね。自分が見ている赤と、他人が見ている赤は、本当に同じ赤なのか、みたいな話」

「それは……恐らく、違う話だ。清佳さんが、持っている知識によって、連想するものが異なる、という話をしたいのなら」

「ハハ。知ったかぶりバレた。あれどういう話だっけ?」

「色そのものと言うより、人間の意識に関する話だったと思う。哲学は専門ではないから、詳しくは知らない。俺は、赤は赤だと思う。およそ六五〇から七七〇ナノメートルの間」

「何の数字?」


 ふとムラサキの眉間にしわが寄った。


「……絵について、話さないでくれ」


 素人が知っている範囲で会話についていこうとするのは、鬱陶しかっただろうかと思う。

 それとも、先程のように「変」になりそうだったのか。解決法として「寝ろ」と光が言うのなら、きっとあの状態の要因は、脳の疲労だ。好奇心が先立って、話しかけすぎたかもしれない。


「ごめん。配慮が足りなかった」

「配慮? 何に対しての」

「ムラサキさんの健康に? それか、中途半端な知識で話されるの、嫌がる人もいるから、それかなと」

「……そうではなく」


 ムラサキのため息は妙に色っぽい。


「俺が、一方的に話してしまうから」


 哲学や色については知っているのに、自分については知らないらしい。


「ムラサキさんにそれ言われると、大体の人は、立つ瀬がなくなるんじゃないかなぁ。何なら、好きなことについてくらい、もっと話していいと思うけど」


 ただ、周囲が目に入らなくなり、頭にある知識が垂れ流しになっているような状態は、見ていて不安になる。ムラサキ自身の言葉もある。今に限っては、話さない方が良いかもしれない。


「じゃあ、ムラサキさん、何か他に話題ある? もう眠れるのなら、全然戻ってもらってもいいけど」

「……おかわり、もらっていいか」

「お、もちろん。私も何か飲もうかな。次も春雨スープでいいかい。他にリクエストある?」


 相談して、ホットミルクを二杯いれた。

 まだ話すようであればと、清佳もテーブルにつく。

 特に相談した訳でもないだろうが、ダイニングの席には定位置がある。ムラサキの定位置は、今座っている席、リビング方向を見る辺の真ん中。

 清佳はお盆を持って、リビングに行くことが多い。最大で十五人が住める部屋数がある割に、現在ダイニングにあるテーブルは、全員で一度に座ろうとするとやや狭いのである。入居者がいなくなって売ることになったらしいので、以前はこのくらいでも事足りたのかもしれない。

 あるいは、彼らがちょうどいいサイズを買い直したのかもしれないと、清佳は思う。プラントポットにある家具家電の中には、電子レンジや炊飯器など、いくつか妙に新しいものがある。

 今日は誰もいないので、いつもは敬司が座っている、ムラサキの斜向かいに腰かけた。


「聞きたいことがある」

「え、うん」


 本当にムラサキから話題があるとは思っていなかった。

 盗聴器は見つかっていないよな、と不安になりながら、ホットミルクを飲む。

 ムラサキは謎めいた目で清佳を見ていた。


「何故いつも、辛そうなんだ」

「……辛そう?」


 反復した言葉が、ゆっくりと喉を通る。

 盗聴器どころか、過去も何もかも見透かされているのかもしれないと、怖くなった。

 ホットミルクを飲んだはずなのに、胃が冷たい。

 だが、どうにか、唇の端を持ち上げた。


「何故、と聞かれても。思い当たることが多すぎて、分からないな。明日の夜ご飯何にするかまだ考えてないし、家事しながら勉強するのも大変だし」


 この対応で合っているのか確かめたいが、誰にも助けは求められない。このシェアハウスに住む人間は、全員敵だ。


「あぁ、今一番悩んでいるのは、咲坂くんと仲直りするきっかけが見つからないこと。ムラサキさん、何か良い方法知らないかな」


 ムラサキの目を見返す。

 仮に盗聴を糾弾するのであれば、こうも落ち着いていられるとは思えないのだが、相手がムラサキとなると、途端に分からなくなる。

 妙に長く感じる沈黙の後、ムラサキは言った。


「咲坂はもう怒ってはいない。むしろ、清佳さんに聞きたいことがあるのに聞けなくて、困っている」

「え、何を?」

「そこまでは分からない。俺の目にはそう見える、というだけだ」

「あ、何だ」


 話題をそらせた安堵と意外な発言で、気が抜けた。


「ムラサキさんの口から聞くと、何でも本当らしく聞こえるんだよなー」


 背もたれに背を預けて笑う。


「ね、ちなみに祐希くんは? ムラサキさんの目から見て、私のことどう思ってる?」

「祐希は接し方に迷っている」

「あぁ、やっぱり最近、そんな感じだよね。光さんは?」

「笠原は嫌っている」

「え。……そうなんだ」


 好かれているとは思っていなかったが、嫌われているとは思っていなかった。やはりテディベアを投げたのは良くなかったか。ただ、清佳も傷つきはしない。光とはそのくらいの距離感がちょうどいいと思ってしまう。


「小野寺先輩は?」

「あの人は、俺にはよく分からない」

「え、意外」


 見上げた顔を思い出す。

 清佳が来るまで、共益費などのお金の管理などをしていたのは、小野寺だった。だから揉めることも覚悟していたのだが、清佳が来た時には、小野寺はすんなりとその役割を渡してくれた。

 今も、食事には呼んだら来てくれる。手の空いている時には、買い出しの手伝いもしてくれる。咲坂との喧嘩の時には、自分から申し出てついてきてくれた。

 事なかれ主義的なところはあるが、優しく、穏やか。そこはかとなく漂う懐深さ。清佳は小野寺がかなり好きだ。

 単純な人物とは思わないが、考えていることが分かりにくい人物でもないように感じる。

 だが、ムラサキは首を振った。

 理由を言うつもりはないようだった。

 無理やり聞き出そうとまでは思わない。そもそもがムラサキの所感に過ぎないのだから、頭から信じるのもやや危険だ。


「……聞いておいてなんだけど、一応、話半分で聞いておこうかな。咲坂くんと祐希くんについては、勇気を出したい時に、参考にさせてもらうけど」


 そして最後に問いかけた。


「ムラサキさんは、辛そうに見える、ってだけ?」


 ムラサキの目には戸惑いが浮かんだ。

 問いかけを省みて、清佳は恥ずかしさを覚えた。本人に聞くことではない。内心で「しまった」と呟きながら顔をしかめた。

 しかも、薮から蛇を出すことにもなりかねない問いかけだった。


「何思ってても、本人には言えないよねー。……ごめんなさい。何も考えずに聞いただけだから、忘れて」


 盗聴器に入っている声が少なく、唯一、罪悪感をそこまで感じなくても済む相手。

 一方的に癒しに感じることくらいは許してほしいが、本人に気安さをねだるのは、行き過ぎだ。

 気まずくなってホットミルクを飲み、マグカップを空にしてしまう。


「私だってこんなんだし、ムラサキさんは一方的になるとか、気にしなくていいと思うけどなぁ」

「……清佳さんは?」

「ん?」


 暗に、一方的な話を止めろと言われたのかと思ったが、違った。


「清佳さんは、俺たちをどう思っている。嫌いなのか?」


 かげった目を見て、やはり、何もかも悟られているのかもしれないと思う。

 物証はなくとも、ムラサキの独特の感性は、全てを見通してしまいそうだと感じる。

 だが、今度は不思議と、恐怖はわかなかった。


「嫌いではない。腹が立つことはあるけど……三人家族だったから、こんな大人数で、しかも近い歳の人と暮らすの初めてで。大変だけど、賑やかで嬉しい」


 だからこそ辛いのだと言いたくなったが、喉の奥に封じた。

 企みがバレてしまうという理由もあるが、それ以前に。「自分も罪悪感を覚えている」など、少なくとも被害者に対して言う言葉ではない。

 せめて盗聴を止めてからだ。

 水道光熱費を支払わせることを小目標としてごまかしているが、盗聴は継続している。つまり、辛い苦しいなど、結局は上辺の言葉に過ぎない。本心では伯母を優先することを選択している。

 より正確に言えば、両親の思い出話をする相手を失いたくないという自分のわがままに、しがみついている。

 自分がかわいいだけだ。

 どんな言葉を使ってもごまかせない。


「……いきなり入ってきて、色々と押し付けている私が言うなって、思われるかもしれないけど。ここにいる人、みんな好きだよ。仲良くしたいと思ってる」


 自己嫌悪を押し隠して伝えた。

 ムラサキは微かに笑みを浮かべた。

 どういう意図だろうと考えずにはいられない。

 何も考えず、素直にその笑みを受け取れるようになれたらと思わず願ってしまうが、やはりこれも甘えだ。

 嫌われて遠ざけられて、思い出話をする相手を失う恐怖に抗えない。伯母にすがるしかない。


「何笑ってるの、ムラサキさん。変だった?」

「笑っていたか」

「にやにやしてた」

「それはない」

「まあ、にやにやしてたは嘘だけど。笑ってはいた」

「そう」


 ムラサキは口を閉じる。問い詰める程のこともないかと、清佳は不安を覚えながらも、聞くのを止めた。

 少しの間、沈黙が流れた。気まずくはない。

 録音の向こう側では、こういう時間があったのかもしれないと、ぼんやり考える。


「俺の答えは、またいつか、見せる」


 聞き返す前にムラサキは立ち上がった。


「おやすみ」

「え……あぁ! うん、おやすみなさい。カップは置いておいて。洗っておく」

「ありがとう」


 不思議な人だと思いながら見送った。釈然とはしなかったが、眠れそうなら良いかと、二人分のマグカップを洗い、清佳も部屋に戻ることにした。

 階段口には植木鉢がある。

 ダイニングにもリビングにも、盗聴器は仕掛けてある。

 今の会話は当然、全て録音されている。


「……馬鹿だなぁ」


 録音を聞く頃の自分に向けて呟いた。



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