Hello

 強い決意を持ってアパートまで来たものの、やはり、チャイムを鳴らす時には、弱気が胸をかすめた。

 尾行をしている時、遠目には優しそうな人に見えたが、人は見かけによらない。咲坂が食品をドアノブにかけていたのも、脅されている可能性もあると思い至る。

 それでも、勇気を出してチャイムを押した。

 扉はすぐに開いた。


「こ、こんにちは。初めまして」


 咲坂と似た顔に、優しそうな微笑みが浮かぶ。


「こんにちは。秀人くんから連絡いただいていた、檜原さん、よね?」

「はい。せっかくのお休みの日にすみません」

「あら……いいのいいの。どうぞ上がって」


 家はあまり広くはない。二人住むので精一杯というところだろう。ただ、部屋からは、女性一人が住んでいる気配しかなかった。咲坂はもちろん、父親らしき人の存在も感じられない。

 そんな中、冷蔵庫の前に置かれた、複数のビニール袋が目につく。

 一旦は目をそらしてすすめられた椅子に腰かけながら、考えてみれば、この人も咲坂だと気がつく。借金している方のことは、今は名前で呼ぶ方がいいだろう。


「いきなり連絡して、訪ねたのも、すみません。敬司くんのことで話があって」

「はい。何か、ご迷惑をかけてしまったのかしら」


 咲坂母が言った言葉は、小野寺からもよく聞く言葉だった。

 少し申し訳なくなる。この人が悪いのではない。

 しかし、放置することもできない。

 盗聴やわがままと同じだ。たった一秒の盗聴、ほんの数分で終わるパシリでも、たかが五百円でも、それは悪事には違いない。

 そして犯罪としては小さなことでも、被害を受けた人にとっては、大きなことかもしれない。さらに、被害者はその先、不信を持ち続けることになる。

 その不信があったら、仲良くなどなれない。

 本当に、どの口が言うのか、という話ではあるのだが。

 苦笑しながらも、咲坂母に告げる。


「迷惑という程ではないのですが。敬司くんが、私が貸した五百円を中々返してくれなくて。お母様に、代わりに返していただけないかと、頼みに来ました」


 咲坂母は意外そうに目を開いた後、悲しそうに目をふせて、黙って席を立った。財布を持って戻ってくる。

 机に五百円玉が置かれた。


「ごめんなさい。代わりで申し訳ないけれど、私から謝ります」


 深々と下げられた頭を見ながら、咲坂敬司に怒りを覚える。

 頭を下げるこの姿が、咲坂母の全てだとは思わない。外面は良くても、子どもに対しては度を越して厳しい仕打ちをする親も存在していると聞いたことはある。咲坂母がそういう人間である可能性は、今も皆無ではない。

 ただ、それならそれで、咲坂敬司には他にやり方があるはずだ。小野寺という友人もいる。本人には問題に立ち向かう強さもある。

 どんな問題があったとしても、ただ家出をするだけでは、問題の先送りにしかならない。

 気まずい気持ちで五百円を受け取り、ポケットに突っ込んだ。


「……ありがとうございます。たった五百円のことで、家まで来て、すみません」


 立ち上がって、咲坂母に頭を下げ返した。


「けど、これで友達のこと、泥棒と思わなくて済みます」


 何となくしっくり来ないと感じ、言い直す。


「たぶん敬司くんは私のことを、友達とは思っていませんが。私は仲良くしたいと思っているので。良かったです」


 企みはあるが、共同生活をする相手でもある。

 表面上で気にしないふりをして、心の底でずっと泥棒と恨み続けるよりは、この方が良い。


「……ありがとう」


 咲坂母の微笑みは、胸に痛かった。そう言いながら自分は、盗聴や尾行など、咲坂敬司を含んだ住人たちを騙すようなことをしている。仲良くしたいなどと言う資格はない。

 冷蔵庫前のビニール袋に視線をやる。

 借金の精算に関してはこれ以上何もしようがないが、少しでも埋め合わせがしたかった。


「ところで、お母様。あのビニール袋なんですが。あれ、敬司くんの買ったものですよね? ……あ、前にちょっと見かけたことがあって!」


 咲坂母の不思議そうな顔を見て、最後は慌てて言い添える。

 そして恐る恐る問いかけた。


「もし良ければ何ですが、今の五百円であれを少し、買い取らせてもらえませんか」

「えっ……」

「あの、本当にご迷惑でなければ、で。もちろん敬司くんと一緒に食べます」


 ビニール袋と、咲坂母を見て感じたのだ。

 量が多い。

 さすがに日持ちするものを買っているとは思うが、だとしても多い。冷蔵庫に入り切っていない。咲坂母は明らかに持て余している。

 案の定、咲坂母はほっとしたような表情を浮かべた。


「もちろん。五百円と言わず、全部持っていってもらって大丈夫」

「え、それはさすがに悪いですから」

「いいのいいの。甘いものは好きだけど、いくら何でも量が多くて、困ってたから。あ、そうだ檜原さん、服もいらない?」

「服? いいんですか?」

「趣味でなかったらごめんなさい。変な服ではないのだけど……私、こんなに服もらっても、着る機会なくて。タンスの肥やしになるばかりで」


 つまり、咲坂敬司からは服も贈られていただろう。

 咲坂敬司、器用そうな方に見えるのに、案外に不器用なところがある。


「お母様が良いのであれば、いただきます」


 それから服を選び、大量の弁当やお菓子をもらった。元が咲坂敬司の贈り物だと考えると複雑ではあったが、思わぬ収穫だった。


「ありがとうございます! いやぁ、正直助かります!」

「いいのいいの。敬司にも、檜原さんみたいなちゃんとした友達がいるって知れて、安心したから。このくらいのことはね」

「あー……ありがとうございます。けど、私もあんまり。割とろくでもない人間ですので……。すみません」

「ええ? ろくでもないなんて、そんなこと全然ないよ。敬司と同い年とは思えないくらい、しっかりしてて」


 自嘲するような笑みが浮かぶ。


「きっと、良いご教育をなされたのでしょうね」


 主語はなかったが、分かった。

 お礼を言おうと思う。だが、口を開くよりも先に、勝手に涙が流れた。


「えっ、どうしたの!」

「あー……いえ、すみません。何なんでしょうね。アッハッハ」

「そんな無理して笑わなくても」


 差し出されたティッシュをありがたく受け取り、涙を拭いて鼻をかむ。

 早くも、そろそろ半年が経とうとしているが、慣れるはずもない。


「自分より、両親を褒められる方が、ずっと嬉しいです。ありがとうございます」

「……そう」


 何かを察したように、咲坂母は痛みをこらえるような顔をした。申し訳ない。


「お母様も、良いお母さんだと思います。敬司くんが心底、羨ましいくらいに。部外者で、こんなガキが言うのも、失礼だとは思うんですけど。本当に」

「いいえ。……ありがとう」

「敬司くんに言っておきます。帰るようにって。私の言うことなんか、聞かないと思いますけど……」


 自分で五百円を返さなかったことよりも、家を出ていることの方が、腹立たしく感じる。


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