spook


「咲坂くん、前に貸した昼食代、そろそろ返してよ」

「あ、ワリ。忘れてたわ」


 思わず清佳は両手を握りしめてしまった。

 人を殴ったことなどないが、殴りたい。今日が一度目になるかもしれない。

 プラントポットに住まう人々の経済事情は、全体的に恵まれてはいる。家賃はかからず、水道光熱費などは伯母が払わされている。住人がプラントポットに住む際に必要とされるのは、食費や消耗品などの生活費くらいである。

 以前は小野寺が、現在は清佳が、それらの金を共益費として徴収し、まとめて管理している。

 人によってお金の捻出方法は異なる。咲坂や光はアルバイトをしているようだ。小野寺と祐希はどうやら親が金を出している。ムラサキはアルバイトではなく、高校生ながら自身の描いた絵を売って稼いでいるらしい。

 清佳は、伯母からお金をもらっている。

 ただしその金額は、共益費に充当する分と、昼食代、盗聴器などの「経費」のみである。

 金額について事前の相談はしていなかったが、振り込まれた金額からすると、そういうことだった。

 清佳が個人的に使う金はなかった。

 家事炊事に忙しい現在の生活では、新たにアルバイトをすることはできない。個人的に服や文房具、スキンケア用品などを買う余裕は、現状ではなかった。

 故に、今後、伯母と交渉しなければならないと、考えているところだった。

 あまり親しくない伯母にねだるために、タイミングをはかりつつ、己の胆力を練り、神経を逆なでしないようなメールの文面を、用意しているところだった。

 そんな中の五百円。

 他の住人たちに無断で共益費に手をつけることはできなかったので、あれは清佳の昼食代から出している。

 清佳が自由に使える貴重な分。誰かが食べなかった朝夕食の残りを流用するなどして、普段は極力、使わないようにはしている。だが今月余った分は既に、化粧水や生理用品など、共益費からは出しづらい、個人で使うものにあてた。余裕は相変わらずない。

 今回は先に買っていたから良かったものの、下手をすれば、生理用品を購入する金が足りない、という事態になる可能性もあった。

 つまり、清佳が一食分、我慢すればいいという問題ではない。

 なお、一食分我慢するだけだったとしても、それなりに腹が立つ。


「でもさぁ。オレこれから、ちょっと金いるんだわ……。むしろ貸してほしいくらいっつーか」

「えぇ?」


 さすがに呆れてしまった。返せと言ってすぐ、貸せと言われるとは思っていなかった。

 咲坂は悪びれもせず、散らばった靴の中から自分の靴を探し出して、履いている。

 財布とスマートフォンだけ持って、外出しようとしているようだ。

 金もそうだが、それも気にかかる。


「とにかく、お金の件と。……あと、咲坂くんの自由ではあるんだけど。こんな時間に、いつもどこ行ってるの? 結構よく、夜中に外出してる気がするけど」


 そして、プラントポットでは寝てばかり。恐らく学校でも寝ている。


「なぁに? 清佳ちゃん、オレのこと、気になっちゃう?」


 からかうような態度が腹立たしい。だが以前の祐希と比べればまだマシだと、怒りを抑える。

 清佳が苛立ちをぶつけたあの日以降、祐希は不気味なくらいに大人しくなってしまったので、今はむしろ咲坂の方が鬱陶しくもある。


「うん、気になるよ。ご飯もちゃんと食べに来ないし」

「ママかよ。止めてくんね? 同い年だろ、オレら」


 ふとわざとらしく、何か思いついたように、咲坂は右手で、左の手のひらを打った。


「あぁ、そっか。檜原サン、理事長のスパイだもんな。オレが夜な夜な何してるのか、金がどうなってんのか、そりゃあ気になるよなー」


 一応は否定するべきなのだが、咄嗟に言葉が出て来なかった。実際、家政婦として清佳を送り込んだのは、理事長である伯母である。不法占拠だと怒っていた人間が、急に親切ごかして人を寄越したとなれば、何かあるに決まっている。当たり前すぎて、今まで誰にも指摘されなかったし、清佳もごまかす気になれない。


「ま、心配ねえから。悪ぃことはしねえよ、オレは」

「いや、割としてるし、お金!」

「そのうち返すわ~」


 咲坂はひらっと手を振って、シェアハウスから出ていってしまった。

 春風が一瞬吹き込んだが、すぐに扉は大きな音を立てて閉まった。

 見た目を裏切らない不良だ。

 どうしたものかと悩み、その場に立ち尽くしていると、階段の方から足音がした。静かな足音だ。

 盗聴のおかげか、足音だけで人物が予想できるようになりつつある。

 何となく待っていると、予想通りムラサキが現れた。

 清佳を見て、珍しく驚いたように目を開く。


「清佳さん、何を?」

「咲坂くんを……見送ってた」


 入学式まではムラサキに対して敬語を使っていたが、同じクラスになって、生活の様子を眺めて、清佳はムラサキに対して敬語を使うのを止めた。言葉数は少ないものの、ムラサキは怖い相手ではない。無言でいる時も、ただ考えているだけだと、最近分かってきた。


「ムラサキさん、咲坂くんって、いつも夜にどこ行ってるのか、知ってる?」


 咲坂が出かける時間はまちまちだが、遅くとも二十二時以降には、シェアハウスからいなくなっていることが多い。身元調査書によれば留年はしていなかったし、年齢的にこの時間帯のアルバイトはできないはずだ。

 裏を返せば年齢をごまかして、深夜のアルバイトをしている可能性はある。


「何故、俺に聞く」


 ムラサキは清佳の質問には答えず、聞き返してきた。

 ムラサキと咲坂が話している場面は、ほとんど見たことがない。清佳も、ムラサキはたぶん知らないだろうとは思った。


「今ちょうど来たからって言うのもあるけど。私以外だと、咲坂くんと同い年なの、ムラサキさんだけだから。何か知らないかなって」

「同い年だからと言って、知っているとは限らない」

「うん。まあ、正直何となく。失礼しました」

「構わないが」


 きちんと聞いていれば、淡々とした言葉の中にも、感情があるのが分かる。今は戸惑っているようだ。

 微かにムラサキは、思考を巡らすように目をそらした。


「聞くなら、俺よりは、小野寺さんだろう。中学からの付き合いだと言っていた」


 少し驚く。知らないのは予想通りだったが、そのフォローとなるような情報を、ムラサキ自ら教えてくれるとは思わなかった。

 小野寺と咲坂が昔からの付き合いであることは、伯母の作った調査書を見て既に知っていたが、それを教えてくれたことが嬉しい。


「ありがとう、ムラサキさん。助かる」


 ムラサキは会釈をして、ダイニングに入っていった。

 飲み物でも取りに来たのだろう。意外とムラサキは宵っ張りで、四階の廊下灯に仕掛けた盗聴器には、深夜にも物音が入っていることがある。

 絵を描いているのかも知れない。それも夜更かしまでしているとなると、あまり褒められたことではないが、やはり録音を聞いていると、自分との差でなおさら尊敬の念がわく。

 ふと、追いかけて、謝りたい衝動に駆られた。

 平気なふりをしていたが、自分自身まではごまかせない。

 実は、ちょうどこの場に来たこと、同い年であることだけが、問いかけた理由ではない。気分的には「何となく」ではあるが、何となくで済ませるには露骨過ぎる理由がある。

 ムラサキはとても静かで、盗聴器に入っている声が、最も少ない。

 このシェアハウスで一番、罪悪感なしに話せる相手だった。


「……はぁ、どうしようかな」


 問題は山積みだ。

 とりあえず今は、お金を返してもらいたい。

 保護者役である小野寺に相談するのもいいが、小野寺は優しすぎて、やや頼りにならないところがある。「お金は返した方がいい」くらいのことは言ってくれるかもしれないが、咲坂が素直にそれを聞き入れるとは思えない。

 加えて、今のところ困っているのは、金を貸した清佳のみ。

 清佳自身が解決しなければならない問題だ。

 しばらく玄関で考えて、清佳はうなずいた。


「追いかけてみようかな」


 夜中、咲坂がどこに行っているのか。

 知ることで、祐希の呟きを聞いた時と同じように、ムラサキの夜更かしのように、見る目が変わるかもしれない。

 あるいは弱みを見つけて、脅迫の材料にできるかもしれない。

 尾行も良くはないのだろうが、実質、借金の取り立てである。盗聴よりは罪悪感が薄い。


「よし」


 解決ではないが、見通しが立って、ひとまずは満足した。

 咲坂は土日にも出かけることがある。自分の都合が良いタイミングで、いつでも尾行ができるように、準備をしておこうと決めた。


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