やさしさと無愛想

 清佳は階段を上がり、先に、三階の小野寺の部屋を訪れた。

 三階ではあるものの、一階はキッチンやリビングなど、全員の共有スペースになっているため、部屋番号は二〇三。

 向かい合いながら五つの部屋が並ぶ廊下の、一番奥、階段側から見ると右側。

 アパートにも似た作りだが、チャイムはないので、清佳は扉を叩いた。


「小野寺先輩、いますか?」


 少しして、中から音がする。

 清佳はほんの少し身構えた。

 この人物に対しては、祐希や光とは異なる緊張を感じてしまう。

 扉が開く。人が来て目の前に立ったら、この辺りに頭が来るだろうという位置を見る。

 だが実際には、頭は想定よりも上にある。

 そこに微笑みがなければ、恐ろしさすら感じていたかもしれない。

 清佳も身長は一六〇センチはあり、女子としてそう小さい方ではない。だが、一九一センチの前に立つと、大した差ではないと思えてくる。

 これで祐希のような性格だったなら、清佳は近づくこともできなかっただろうが、幸いにも小野寺は普通よりも穏やかな性格だった。


「どうしたの、サヤさん。また祐希か敬司が何かやった?」


 清佳の言葉を聞く前からそう言う辺り、むしろ苦労人だ。


「何もやってないです。これからスーパーに買い物に行くんですが、何となく買い物のリクエストを聞く流れになったので、小野寺先輩にも聞きに来ました」

「え、ありがとう! でも大変じゃない? 僕も行こうか」


 ただ馴れ馴れしいだけで、特に清佳を手伝おうとはしない光とは違い、小野寺はきちんと「良い人」である。

 本当は手伝いを頼みたい気持ちはあったが、問題児ではなく、良い人ばかりが割を食うのは気に食わないという思いがあり、清佳は首を振った。


「大丈夫です。それで何か、あります?」

「え、えぇと……。じゃあごめん、何か片手で食べられるようなもの、買ってきてもらっていいかな」

「サンドイッチとかおにぎり的な?」

「ううん、エナジーバー的な奴で大丈夫。ご飯系だと荷物、多くなるでしょ?」

「小野寺先輩……! 正直助かります。ありがとうございます!」


 清佳が来るまで、掃除など、最低限の家事は小野寺がしていたらしい。このシェアハウスの住人の中でも特に問題行動の多い祐希と咲坂の、友達兼保護者役だから、という理由のようだ。だが、様子を見ている限り、友達でなくても小野寺は進んで働いていそうに思う。

 だからこそ、清佳は余計に心苦しさを覚える。

 小野寺と分かれ、結婚するならああいう人だよなとぼんやり思いながら、階段を上る。

 最上階である四階。

 住人は一人。だが、彼は二つの部屋を専有している。

 一部屋は他と同じ、生活のための部屋。

 もう一部屋は「アトリエ」である。

 アトリエは三〇四。

 扉は既に開かれていた。

 中をのぞくと、作りは他の部屋と同じではあるのだが、全く違った光景が広がっている。

 絵。絵。絵。

 お手洗いと浴室、小さな台所が並んだ廊下にも、その奥の居室にも、たくさんの絵が置いてある。

 部屋の主は、部屋の真ん中で椅子に座っていた。扉には背を向ける形で、清佳には恐らく、気づいていない。

 その人の前には、真っ白なキャンバスがある。

 その姿を見て、買い物のリクエスト程度で声をかけて、集中を妨げてもいいものなのか不安になる。

 悩みながらも、まあわざわざ四階まで来たのだからと、清佳は思い切って声をかけた。


「あの、ムラサキさん……今、ちょっといいですか?」


 ムラサキは振り返らず、何も言わない。

 集中していて聞こえなかったのかと、もう一度言おうとすると、カタンと音がした。横にある机に、パレットと筆が置かれる。


「何?」


 完全には振り返らず、軽く首をひねるだけだ。入り口からは、顔はよく見えない。

 面倒はない人なのだが、清佳はムラサキと話す時が、最も緊張する。

 同い年であるはずなのに近寄りがたい。彼が言葉を発すると、空気が変わるような感覚がある。

 だが、無駄に躊躇って時間を浪費させるのも良くないと、息を吸って問いかけた。


「スーパーに行くので、リクエストを聞きに来ました。飲み物とか、軽食とか、何かあれば」

「ない」

「あ、はい」


 沈黙が流れる。心臓が縮む。


「……すみません、それだけです」


 開いたままの扉を閉じかけて、空気が悪くなるから開けっ放しでいいと光に言われたことを思い出して、清佳はすごすごと立ち去った。

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