忘れん坊(2)
パシィン!
爽やかな青空に、気持ちの良い音が響き渡った。
「この忘れん坊!」
呼び鈴で外に呼び出され、いきなり頭を叩かれて一喝されたおばさんは、目を丸くして開いた口が塞がらないようだ。
おばさんはその口をまるで餌を求める金魚のようにパクパクと開閉し、再び口を開けたまま何を言えばいいのか分からず困惑した表情を浮かべる。
僕は勢いよく、腰を90度に折った。
「すみませんでした!」
さらに困惑を深めるおばさんだが、僕はおばさんばかりにかかずらわっているほど暇ではない。
僕はみんなの救世主なのだ。
扉を開けてから一言も発していないおばさんを置き去りに、僕は次の人のところへ駆けだした。
パシィン!
「この忘れん坊!」
「すみませんでした!」
パシィン!
「この忘れん坊!」
「すみませんでした!」
ピンポーン。
……ガチャ。
パシィン!
「この忘れん坊!」
「すみませんでした!」
ピンポーン。
……ガチャ。
パシィン!
「この忘れん坊!」
「すみませんでした!」
パシィン!
「この忘れん坊!」
「すみませんでした!」
………
……
…
「ちょちょ、うっかりさん! 何やっとーと?」
「八百屋さん。これはこの村を救うために必要な事なんです。僕は救世主なんです」
「きゅ、救世主?」
「はい。八百屋さん、歯を食いしばってください」
「え? ちょ、ま――」
パシィン!
「この忘れん坊!」
「すみませんでした!」
「うっかりさん? どうしたのホントに。騒ぎになってるわよ?」
「花屋さん。分かっています。仕方のない事なんです」
「ハリセンと、忘れん坊? が?」
「ええ。これを村人全員にやります」
「ぜ、全員……?」
「僕はこれをやり遂げるためなら、狂人の汚名をも受ける覚悟です。それだけの覚悟を持って、僕はここにいます」
「そ、そうなの。ちなみにそれって、か弱い女の子?と言えるか分からないけど、私は対象外になったりは……」
「しません」
「そ、そうよね。さっき小柄で可愛らしい八百屋さんに思いっきり……」
「目を閉じて歯を食いしばってください」
「うぅ……わ、分かったわ」
「では、いきますよ!」
「ちょっと待ったあ!」
僕の「忘れん坊!」よりも大きな声が後ろから浴びせられ、驚いて振り向くと、そこには息を切らせた司書さんがいた。
膝に手をついて息を整えると、下を向いていた顔がこちらに向けられる。
その目はいつもと違いまったく笑っておらず、鋭い視線で僕を射抜いていた。
「ひっ……。し、司書さん。これには事情がありまして」
僕が怯えたような声を出すと、司書さんの視線が若干、ほんの少しだけ柔らかくなった、ような気がした。
いや、やっぱり変わってないかも。
「ええ。分かっています。うっかりさんはみんなを助けようとしていたんですよね?」
「え、ええ! そうです! その通りなんです! そうだ! 司書さん、事情は説明しますから手伝って――」
「手伝いません! ちょっとこっち来てください!」
「え、いや、ま、待ってください。僕には、僕にはやり遂げないといけないことが!」
花屋さんや八百屋さん、周りの人の好奇の目にさらされながら、僕は司書さんに引きずられるように図書館の方向へ連れて行かれる。
司書さんは一度立ち止まると、みんなに向かって言う。
「皆さん、すみませんでした。うっかりさんのこれは、ちょっとした勘違いが引き起こした悲劇だと思ってください。決して、質の悪い悪戯なんかじゃないんです。私からも謝ります。申し訳ありませんでした。ほら、行きますようっかりさん」
途中で司書さんの手を振りほどくことができないと思った僕は、司書さんに連れられるままに図書館、その司書室までついていった。
「座ってください」
「あ、はい」
司書さんって、こんな強引な一面もあったのか。
驚いた。
僕が村のみんなに迷惑をかけたことを怒っているのだろうか?
でも、仕方ないことだったのだ。
説明すれば司書さんも分かってくれるはずだ。
僕が借りてきた猫のように椅子に座っていると、司書さんはいつものように飲み物を用意し始めた。
僕としては一刻も早くここから抜け出して救世主活動を再開したいところだけれど、司書さんから逃げられそうもないので、黙って待つしかない。
「はい。どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
いつもと違って、黄緑色のお茶だった。
「心を落ち着かせるハーブティーです」
「な、なるほど」
何を理解したわけでもないけれど、反射的に答える。
なるほど、って便利な相槌だよね。
司書さんは僕の対面に座り、ハーブティーを一口飲んだ。
ほぅと一息ついて話し始める。
「うっかさん。先に言っておきますが、私はうっかりさんの行動に怒ってここまで連れてきたわけじゃありません」
「え、そうなんですか?」
「はい。さっきも言ったように、うっかりさんが村のみんなを助けようとしてあのような行動をとったということは、ちゃんと理解しているつもりです」
「司書さん……」
司書さんは分かってくれた。
僕の、誰にも理解されないと思っていた救世主活動を。
「ですが」
と、ここで語気が強くなる。
「あの行動には、実は何の意味もありません」
「え……?」
「それに、まさかあんな非常識な行動に出るとは……。さすがに予想できませんでした……」
司書さんは頭を抱えた。
あれ? 僕の行動を理解してくれたはずでは?
というか、あの行動に意味がない?
それはどういうことだろう?
そもそも、どうしてそんなことが司書さんに分かるんだろう?
僕がやっていたことの意味を分かっていたし、司書さんは何を知っているというのだろう?
「うっかりさん。順を追って話しますから、落ち着いて聞いてください。あと、村の人達は放っておいても大丈夫ですから、気にしなくていいですよ」
「え! いや、大丈夫じゃないんですって! このままじゃ!」
やっぱり、司書さんは分かっていない。
状況の深刻さを理解していない。
ここは僕が教えてあげないと――
「大丈夫です。うっかりさん。私を信じてください。いつもうっかりさんは、私を信じてくれますよね? うっかり者の自分より、しっかりしている私の方が信頼できると、前に言ってくれましたよね?」
「う」
それは、確かにいつもならそうだけれど、怪奇現象が関わっているし。
「大丈夫です。私の話を聞けば、納得できるはずです。ですからせめて私の話を聞き終えるまでは、ここにいてください。いいですね?」
正直、忘れん坊が進行している事態を放っておくことは看過できない。
けれど、司書さんがここまで言っているのに。
ここまで言わせてしまった司書さんを振り切って外に駆けだすことなど、僕にはできなかった。
「はい……。分かりました」
呟くように返した僕に、司書さんは満足そうに微笑みかけた。
その様子は自信に溢れていて、僕の奇行や焦った表情を見ても一切、揺らぐことはないようだった。
「それではうっかりさん。解決篇と行きましょう」
◇
自信満々に宣言した司書さんは、いきなり前提を覆すようなことを言った。
「まず、うっかりさんは今この村で怪奇現象が起きていると思っていますよね?」
「はい。その通りです」
「その怪奇現象は、村の人々の記憶を消してしまうもの、それに類するものでしょう?」
「その通りです。そこまで分かっているなら――」
「それは間違いです」
「え?」
「もう一度言います。それは間違いです。うっかりさん。この村の内部で今怪奇現象が起きているというのは、その通りだと思います。ただそれは、村人みんなに影響して、記憶を消すようなものではありません」
「え、っと、それは、村人の何人か、例えば八百屋さん、花屋さんとかの数人しか記憶の消去は行われていないということですか?」
「いえ違います。そもそも、この怪奇現象は記憶を消すものではありません。記憶を、思い出させるものです」
僕の頭の中で、クエスチョンマークが躍りだす。
記憶を、思い出させる?
何を言われているのか、司書さんが何を言っているのか、さっぱり理解できない。
現に八百屋さんや花屋さん、司書さん……のことは自分ではわからないにしろ、僕も記憶の消去に遭っている。
怪奇現象百科事典の、“忘れん坊”の説明内容とも現実は一致しているし、これは間違いないはずだ。
それが誤りだとなぜ司書さんが言い切れるのかは不思議だったけれど、記憶を思い出させる怪奇現象が起こっているという話は、それに輪をかけて意味不明だった。
「何を言われているのか分からない、という顔をしていますね?」
「その通りです。司書さんは何を言っているんですか?」
司書さんは穏やかにニコリと微笑んだ。
「それを今から説明します。ずるずると結論を先延ばしにするより、最初に言ってしまった方が分かりやすいでしょう?」
「それは、そうかもしれませんけれど」
余りにも結論がぶっ飛びすぎていて、間の説明を省かれると何も分からない。
記憶を消去する怪奇現象と、記憶を思い出させる怪奇現象じゃあ、まるで正反対だ。
そもそも、記憶を思い出させてくれる怪奇現象が仮にあったとして、それのどこに問題があるのだろう?
良いことじゃないか。
いやほんと、何言ってるんだろう司書さんは。
「順を追って説明しましょう。まずは整理です」
司書さんは僕が以前説明した忘れん坊連続事件の内容と、その後の僕の行動を合わせて、順番に確認して行った。
その作業は、僕が忘れん坊の内容を思い出すためにしたことと同じだった。
○月×日 僕は暗証番号がどうしても思い出せずにいた。この際、司書さんにも思い出す作業を少し手伝ってもらった
翌日 僕は暗証番号を思い出した
その後、水筒の場所など、いくつかのことを思い出した
隣のおばさんがゴーヤチャンプルーの作り方を僕に教えた事実を忘れていた
八百屋さんが僕にゴーヤを取っておくという約束を忘れていた
昼食。ダイニングテーブルの広さに寂しさを感じて、花屋さんの予約を思い出す
花屋さんが花の予約を忘れていた
図書館に行って、ここまでのことを司書さんに話した
司書さんは僕が貸した本のことをすっかり忘れていた
これによって僕は村で怪奇現象が起こっていると断定
僕は家に帰って怪奇現象の正体を、記憶の中の百科事典をめくって思い出した
思い出した怪奇現象“忘れん坊”の解決法として、救世主活動を始めた
司書さんに止められて司書室に連れて行かれた
司書さんは家に戻った後の僕の行動を知らないので、そこは僕が話して補完した。
もちろんその時、僕は“忘れん坊”についても話すことになった。
しかし司書さんの反応は薄かった。
「なるほど。“忘れん坊”ですか。どおりで……」
と一言呟いただけ。
まるで取るに足らないことであるかのように、サラリと流してしまった。
「それにしても、百科事典なしで怪奇現象を特定するのは大変だったでしょう」
「ええ。それはもう。頑張りました。誰が持っているか分からないあの本を村中探し回ることも考えましたが、それは大変すぎるので最後の手段にしました」
「それは良かったです。さすがにそこまでされると、私も心苦しいですから」
「はい。……え?」
心苦しい?
それってどういう意味だろう?
司書さんの顔色を窺うと、申し訳なさそうに眉をハの字にしていた。
「ごめんなさい。村中を探しても、百科事典は見つかりません」
首をかしげる僕の前で、司書さんが席を立ち、司書室の隅にある棚を開けた。
そこから取り出したものをテーブルに置く。
「だって、その本はここにありますから」
トン、と置かれたそれは、怪奇現象百科事典だった。
これまで何度もお世話になってきたこの本を、見間違えるはずもない。
「どうしてそれがここに……?」
問うまでもない。
司書さんが持っていたのだ。
借りていった人がすぐに返したという可能性もなくはないかもしれないけれど、それほど短時間で返すぐらいなら、図書館で読めば済む話だ。
僕がこの本を借りようとして奥の本棚に向かった時、それを後ろから呼び止めたのは司書さんだった。
あの時、僕は奥の本棚にこの本があるかどうかを確認せずに、司書さんの言葉を信じて家に帰った。
「ごめんなさい。この本が借りられてしまったというのは、嘘です。厳密には、私が借りたと言うことはできますけれど」
「どうしてそんなことを……」
考える前に、口から出ていた。
あの時僕が怪奇現象を特定しようと動いたことは、司書さんにもバレていたのだろうけれど、一体どうしてそれを妨害するような真似をしたのだろうか?
まあ結局のところ、僕は“忘れん坊”を覚えていたので、その妨害は失敗に終わったのだけれど。
「うっかりさんの行動を妨害したかったわけではないんです。ただ、さっきも言ったように、私が借りたかったんです。そのためには、ああするしかありませんでした」
司書さんが借りたかった?
それはつまり、司書さんも怪奇現象特定に動いていたということだろうか?
しかし、あの時点では忘れん坊連続事件は単なる笑い話だったはず。
僕がそれを怪奇現象だと断じたのは、司書さんが貸した本のことをまったく覚えていなかったからだけれど、司書さんもそれで異変に気づいたのだろうか?
「うっかりさんは、怪奇現象を特定するためにまずはこれまでの『物忘れ』を並べて、共通点を探したんですよね?」
「ええ。でも、共通点らしきものは見つかりませんでした。どの物忘れも、いつ忘れたのかが定かではありませんし」
結局のところ、あの作業は無駄に終わった。
「いえ、共通点はあります。それも、不自然なほどに大きな共通点が」
「え? 本当ですか?」
「本当です。うっかりさんが流行り病のように物忘れが広がっている、と冗談めかして話してくれた時から、私はその共通点が気になっていました」
それは、最初の最初じゃないか。
司書さんは話を聞いてすぐに共通点に気が付いたということになる。
そんなに分かりやすい共通点があるだろうか?
「話を聞いていれば、すぐに気づくと思いますけれど、うっかりさんは本人だから、逆に気がつきにくかったのかもしれません」
「本人? あの、その共通点って何なんですか?」
司書さんが真っ直ぐに僕の目を見た。
射抜くように。
思わず息を飲む。
「この一連の物忘れの共通点、それは――
――うっかりさん、あなたです」
「…………は、はあ」
まるでミステリの真犯人を宣言するように言われたけれど、いまいちまだ理解が追い付いていない。
僕が共通点?
それってどういう意味だ?
尋ねるまでもなく、司書さんは説明を続ける。
「まず一つ目、うっかりさんの暗証番号。これは物忘れをしたのがうっかりさん自身です。二つ目、隣のおばさんのゴーヤチャンプルー。これは、うっかりさんがおばさんにゴーヤチャンプルーの美味しい作り方を聞いたことを、おばさんが忘れていました。三つ目、八百屋さんのゴーヤ。これも、うっかりさんが八百屋さんにゴーヤを取っておいてほしいと約束を取り付けたことを、八百屋さんが忘れていました。四つ目、花屋さんのお花の予約。これも、うっかりさんが花屋さんにお花を予約したことを、花屋さんが忘れていました。そして最後、私が借りた本。これも、うっかりさんが私に本を貸したことを、私が忘れていました」
「そう言われて見れば、確かに……」
どれも僕に関することばかりだ。
「でも、それって不自然なことですか? 僕と相手……例えば司書さんとの会話の中で、僕が気づいた司書さんの物忘れですから、それが僕に関係することなのは普通じゃないですか? 逆に、司書さんが僕とまったく関係のない所で物忘れをしていたとしても、それに僕が気づくことなんてできませんよね?」
そうだ。
おかしくない。
この共通点のどこに、司書さんは不自然さを感じ取ったというのだろうか?
「確かに、うっかりさんが気づいた物忘れが、うっかりさんに関係することばかりだったということ自体はそれほどおかしくありません」
そうだろう。
だったらなぜ――
「ですが」
強調するように、そこで区切る。
「四つの物忘れが連続したという話が、うっかりさんに関係する四つの物忘れが連続したという話に変わることには、大きな違いがありますよね」
「―――っ」
そうか。
あの時点で、僕は四つの物忘れが連続したことだけを取り上げて、それでも不思議だと思って司書さんに話していた。
その時既に、司書さんの中では四つの『僕に関係した』物忘れが連続した話になっていたのだ。
それは、受ける印象が僕と違って当然だ。
そしてその四連続は、明らかに不自然だ。
怪奇現象を疑うには、十分なほどに。
「しかも、この共通点の注意すべき点はそれだけではありません。私はこの話をうっかりさんから聞いてすぐに、ある疑念を抱きました」
司書さんさっきからずっと、僕の目をじっと真っ直ぐ見つめている。
僕の心臓の音が、どんどん大きくなっていく。
緊張しているからだけれど、男女間のどうこうという緊張でないのは明らかだ。
「この四つの連続は、いえ、うっかりさんの物忘れを除外して、私が借りた本についての物忘れを含めて四つとしましょうか。この四つの物忘れの連続は、実は一つの事実によって簡単に説明がついてしまうんですよ」
司書さんが何を言おうとしているのか、分かっていたわけではない。
けれどなんとなくそれが、僕の中の何かを崩してしまいそうな気がして、緊張せずにはいられない。
静かな司書さんの声が、どこか恐ろしく感じた。
「とても不思議な四つの連続した物忘れは、特に何の不思議もない出来事に変わってしまいます。だから私はこの話を聞いた時、そうなんじゃないかな、と、真っ先に思いました。思わずにはいられませんでした」
ただ黙っているのに耐え切れず、僕は口を挟んだ。
「その、その一つの事実って、何ですか?」
司書さんは、長い瞬きをしてから、答えた。
「それは、全部うっかりさんの記憶違いだということです」
「な――――」
僕は、しばらく開いた口がふさがらなかった。
全部、僕の記憶違い?
何を言ってるんだ?
何を言っているんだ司書さんは?
そんなこと、あるはずがない。
僕は断言できる。
こんなにはっきり覚えているんだ。
どれもこれも。
記憶違いなはずがない。
「うっかりさん」
静かな声が、僕の混乱した頭にすぅっと入ってくる。
「いったん主観を排除して、客観的に考えてみてくれませんか? もしもこの四つの物忘れが、いえ、物忘れだとうっかりさんが思っていたことが、すべてうっかりさんの記憶違いで、現実にはそもそも存在しないことだった場合を」
そもそも、存在しないことだった?
僕はそんなことはあり得ないという内心の思いを押さえつけ、司書さんの言った通りに考えてみることにした。
まず隣のおばさんの件。
僕は隣のおばさんにゴーヤチャンプルーの美味しい作り方を教えてもらったことを、その途中にたくさんの無駄話が挟まれたことまでしっかり記憶しているけれど、これが僕の記憶違いで、存在しない出来事だったとする。
そうすると、あの時のおばさんの反応は、
『は? なんだいそれ?』
『私、そんなこと言ってないわよ』
『んー? そんな話してないと思うけどね』
極めて正常だったことが分かる。
物忘れなど、そもそも発生していない。
次に、八百屋さんの件。
僕は八百屋さんにゴーヤを取っておいてほしいと頼んで、八百屋さんはそれを了承したと記憶しているけれど、それも僕の記憶違いで存在しない出来事だったとすると――
――考えるまでもない。
やはり、八百屋さんの反応は正常だ。
当たり前だ。
僕が勝手になかった約束を持ち出しているだけなのだから。
花屋さんの花の予約も、司書さんの貸した本も、それが存在しないものだったとしたら、僕の記憶違いだったとしたら、何の不思議もない当たり前の反応になる。
誰一人、物忘れなんてしていなかったことになる。
そう、僕以外は。
けれど、そんなことって、そんな残酷なことって、あるのだろうか?
僕だけが覚えている、嘘の記憶。
僕がいくらうっかりしているからって、それはさすがにおかしいんじゃないだろうか?
確かに客観的にはこれで説明がつくけれど、今度は僕が異常すぎる。
ハリセンでみんなの頭を叩いて回るなんてやさしいものだ。
もしもこんなにもたくさんの記憶違いを、現実にあったことのように覚えているというのなら、覚えているつもりになっているというのなら。
そんなの。
僕は本物の狂人じゃないか。
そんなはず、ない。
僕は自分の記憶を信じる。
だって、こんなに鮮明に覚えているんだ。
何もかも。
だいたい、そうだ。
“忘れん坊”で説明がつくじゃないか、みんなの物忘れは。
でも、僕の記憶違いはあまりにも不自然じゃないか。
僕の記憶違いに、説明はつかない。
僕が、本物の狂人でない限り。
「さ、さすがに、それはおかしいですよ。司書さん、本気で、言っているわけじゃないですよね?」
司書さんは、黙って、否定も肯定もせずに僕を見ていた。
しかしその態度は、雄弁に僕の希望を否定していた。
「うっかりさん。お茶を飲んで、落ち着いてください」
言われた通りに、僕は心を落ち着ける効果があるという、ハーブティーを一口飲んだ。
司書さんは、こうなることが分かっていたのか。
少しだけ、落ち着いた気がした。
「うっかりさん」
司書さんは僕の名前を呼んで、その先が言いにくいように、話すのが心苦しいかのように、ためを作った。
あるいはそれは、僕を刺激しないようにする配慮だったのかもしれない。
でも実際には、僕の緊張を高めることになった。
「“忘れん坊”、でしたよね?」
僕のことを、最大限気遣うような声だった。
司書さんは、怪奇現象百科事典をテーブルの上で滑らせて、僕に渡した。
僕はその本に、希望を見る。
「そ、そうです! はっきり覚えているんです! その内容も。それを見れば、司書さんだって――」
その手があった。
百科事典に“忘れん坊”が載っていれば、僕の記憶が正しいことの証明になる。
僕は怪奇現象百科事典の一番後ろ、索引のページをどんどんめくり、『わ』行に到達してから注意深く探した。
『忘れん坊』の四文字を、紙に穴が開くほど見つめて探した。
僕の指が、一行しかない『わ』から始まる怪奇現象の行を上から下に――
――それから下から上に。
何度も往復した。
そう、何度も。
何度往復しても、そこに僕の求める四文字は、なかった。
「どう、して……?」
あり得ないことだった、それは。
信じられない。
訳が分からない。
だって、それじゃあ。まるで――
混乱して、バクバクと鳴る心臓の音がうるさい。
その上から重ねるように、司書さんの声が降りてくる。
「うっかりさん。……“忘れん坊”なんていう怪奇現象は、その本には載っていないんですよ」
頭が真っ白になった。
そんな馬鹿なことがあるはずない。
だとしたら、僕が思い出した、あの詳細な“忘れん坊”に関する記述は何だったというのだろう?
全てデタラメだったというのだろうか?
全て僕の――記憶違い、だったなんて。
そんなこと。
――あり得ない!
「い、いや、きっと索引から漏れてしまっただけです。そうですよ! 僕は索引ではなく、ページを直接めくって分類してましたから、こっちになくても……」
「うっかりさん……」
司書さんは目を伏せて、それから立ち上がって司書室から出て行った。
僕はその間、一心不乱にページをめくり、あるはずの“忘れん坊”を探していた。
あるはずなのだ、きっと。
載っているはずなのだ。だって、僕は見たのだから。
確かに見て、読んで、だから――覚えている。
そうでないと、こんなに鮮明に覚えているはずがないじゃないか。
そうだろう?
「うっかりさん、こっちに来てください」
ページをめくる手は、外から聞こえた声に止められる。
まだ探し足りなかったけれど、無視するわけにもいかないので司書室を出ると、そこで司書さんはカウンターに置いてあるパソコンを操作していた。
「『陰陽師よもやま』。うっかりさんが私に貸してくれたという本を調べてみました。たしかに、一件ヒットしました。これで間違いありませんか?」
そう尋ねられ、パソコンの画面をのぞき込む。
画面には、和服を着た男性の周りにどこかコミカルな妖怪が描かれた表紙の本があった。
そうそう、確かこんな表紙だった。
そうだよ。間違いない。
やっぱり僕の記憶に間違いなんてなかった。
これを司書さんに手渡したはずだ。
「そうです! これですよ! 間違いありません!」
やった! 証拠だ!
証拠があった。
そうだ。何も証拠は、“忘れん坊”だけじゃない。
“忘れん坊”が百科事典の中に見つからなかったとしても、それはきっと何かの間違いで。
この『陰陽寺よもやま』が、僕の記憶を、その正しさを、保証してくれる。
そうに違いない。
喜びと期待に満ちた顔を、僕は司書さんに向けた。
すると司書さんは、悲しそうな目で僕を見ると、すぐに視線をパソコンに戻した。
なんだ?
どうしてそんな顔をするのだろう?
そして、画面を拡大してある部分を見えやすくする。
「うっかりさん。この本の初版発行年は、3年前です」
「え? そんなはず……」
拡大された画面には、確かに3年前の初版発行年が書かれていた。
それはおかしい。
誤字じゃないだろうか?
僕はパソコンの前に割り込んだ。
司書さんがカラカラとタイヤ付きの椅子で後ろに下がる。
改めてウェブサイトで、『陰陽師よもやま』の初版発行年を調べる。
しかし。
どのサイトも初版発行年は3年前となっていた。
想定外の事態に動きを固めた僕。
それを、もう僕が満足したと見たのか、司書さんが話し始める。
「うっかりさんがこの本を初めて読んだのは、たしか高校二年生の時でしたよね」
……そうだ。
僕がこの本を読んだのは、高校二年の時、つまり――
――10年前、ということになる。
その時、この本は発行すらされていなかった。
この世に存在しなかった。
当然、僕の高校の図書室に、あるはずがないのだ。
僕が高校二年生だったあの日、図書館でこの本を見つけて読みふけったという鮮明な記憶は、懐かしい思い出は、偽物だった、ことになる。
なぜなら思い出に登場するその本は、そこにはないのだから。
まだ書かれてもいない、未来の本。
言い逃れは許されない。
それは明らかな、僕の記憶違いだった。
「そん、な」
それを理解した時、僕は崩れ落ちるようにしゃがみこんだ。
「うっかりさん!?」
怖かった。
自分が鮮明に記憶していたはずのことが、すべて嘘だったと、自分の作り話だったというのだ。
それが間違いないと突きつけられた。
理解させられてしまった。
理解できてしまった。
それはあまりにも、残酷な事実だった。
僕の記憶が――思い出が。
風化した土壁のように、ぼろぼろと崩壊していく。
脱線話がちょっとくどいけれど、嬉しそうにゴーヤチャンプルーの美味しい作り方を教えてくれた隣のおばさん。
余ったゴーヤを僕のために取っておいてくれると、快く了承してくれた八百屋さん。
ダイニングテーブルを飾るための、綺麗で初心者にも育てやすい花を、店にはちょうどいいのがないから探してみると言ってくれた花屋さん。
僕の思い出の本と、その本を是非読みたいと言ってくれた司書さん。
それらは全部。
全部僕の、記憶違いだった。
僕の頭の中にだけ存在していた出来事。
現実には存在しなかった出来事。
それを人は、“妄想”と呼ぶ。
考えてみれば、記憶の改竄、捏造――あるいは構築――は、僕の都合の良いように行われていた。
僕は今日、朝から調子が良いような気がしていた。
いつもなら思い出せないことも、思い出せる気がした。
けれどそれは、正確には思い出していたのではなく、自分に都合の良い記憶を作り出していたのだ。
ゴーヤチャンプルーが食べたくなったから、その美味しい作り方をおばさんから聞いた、ということにした。
ゴーヤが欲しかったから、それをタダでもらい受ける約束をしていた、ということにした。
ダイニングテーブルを飾る花が欲しくなったから、それを予約していた、ということにした。
司書さんは――そう。司書さんが何か物忘れをしていないか思い出そうという話になって、やっぱりここでも司書さんが借りた本を返し忘れている、ということにして。
辻褄(・・)合わせ(・・・)の(・)ため(・・)だけ(・・)に(・)、高校(・・)時代(・・)の(・)思い出(・・・)まで(・・)作り出した(・・・・・)。
僕は、自分に都合の良い記憶を作り出していただけだった。
なんて、どうしようもない奴なんだろう、僕は。
これからもそうやって、自分に都合の良い記憶を作りながら生きていくのだろうか?
――どれが正しい記憶かも、分からないまま。
「……っかりさん! うっかりさん! しっかりしてください!」
「ぇあ? 司書、さん?」
気が付くと僕は、潰れたプリンのように、床に足を崩して座り込んでいた。
顔を上げると、司書さんの顔が見える。
「しっかりしてください! 大丈夫ですか?」
こんなふうになった僕を、心配してくれるなんて。
司書さんは良い人だ。
なんて、分かりきったことを、他人事のように思った。
「司書さん、僕はもうダメです。これからどうやって生きていけば――」
「ちょ、何言ってるんですか! もう――」
司書さんは、くずおれた僕の正面に、しゃがみこんだ。
そして僕の肩を両手でつかみ、意外なほど強い力で自分の方に向けると、強い眼差しで僕を見つめた。
その気迫に僕が動揺していると、力強い目を緩めて、優しく微笑んだ。
「大丈夫ですよ。もう、うっかりさんをおかしくした怪奇現象は解決しましたから」
……怪奇現象?
僕をおかしくした怪奇現象?
「――へ?」
間抜けな声が出た。
怪奇現象って…………え?
そう、なのか?
そうだったのかこれは?
確かに、僕の今の状態は、異常だ。奇々怪々と言ってもいい。
考えてみれば、ここまで鮮明な記憶違い、怪奇現象のせいだという可能性は十分にあった。
どうしてそれに気づかなかったんだろう?
というか、今司書さんは何と言った?
もう、解決した?
解決したと、そう言ったのか?
一体いつの間に?
そんなことをする暇があっただろうか?
呆然と司書さんを見上げる。
「もう! 何の意味もなく私がうっかりさんを追いつめるようなことをするわけがないじゃないですか」
「じゃ、じゃあ本当に……?」
「ええ。もう解決しましたよ」
笑顔でそう言われ、僕は、包み込むような安堵感に全身の力を抜いた。
結果、本当に崩れたプリンのように、肩と首が落ちる。
「うっかりさん!?」
「大丈夫です。安心したら、力が抜けて……」
良かった。
司書さんの様子を見る限り、本当に、僕はもう、勝手に記憶の改竄をすることはないのだろう。
それにしても、いつの間に解決したのだろうか?
時間なんてほとんどなかったような……。
あ。
そうだ。
司書さんは、怪奇現象百科事典を借りたくて、僕に嘘を吐いたと言っていた。
ということは、あの嘘は。
「まさか、百科事典が必要だったというのは――」
目を見開いて、見上げる。
司書さんは何でもないように答えた。
「もちろん、うっかりさんを助けるためです」
呆然とする僕の横で立ち上がり、「それ以外にありますか?」と小首を傾げて手を差し伸べてくれる。
僕が手を取ると、引き上げようとしてくれるのだが、さっきと違って、その力は華奢な腕相応に弱く、僕は自分の足で立ち上がった。
「まったく、最初に解決篇って言ったじゃないですか。もう少し私を信頼してください」
「いや、面目ないです。本当に」
司書室に戻って、もう一度ハーブティーを飲んでいた。
恥ずかしい所を見せてしまったな。
「とりあえず、うっかりさんをおかしくしていた怪奇現象を見ますか?」
司書さんは怪奇現象百科事典を開いて、僕の方に向けた。
“思いだ草”
性質:中性
推定被害:一人
概要:どうしても思い出したいことを思い出させてくれるもの。雑草のように生命力が強く、一度生み出すと厄介。
詳細:忘れてしまったことをどうしても思い出したいという願いによって生まれる怪奇現象。その性質は雑草のように強かで、一度生まれると願い主が思い出したい事柄をどんどん思い出させる。しかし、最初は思い出したい事柄を正しく思い出すだけだが、思いだ草が頭の中に繁茂するように広がると、思い出したい事柄を思い出したいように思い出すようになる。つまり、都合の良い記憶の改竄が行われる。存在しない記憶をまるで事実のように思い出すようになる。その記憶は鮮明に思い出されるため、本当にあったことだと誤認してしまう。
解決法:思いだ草によって思い出した記憶が偽物であることを本人が自覚できれば、思いだ草は消える。
なるほど。
たしかに辻褄があう。
僕が暗証番号を忘れたのは、怪奇現象のせいでなくいつものうっかりだったわけだ。
それを思い出すために、この“思いだ草”を生み出してしまったらしい。
そして、さっき司書さんが僕に記憶が間違っていることを認識させてくれたから、僕の頭の中に繁茂する思いだ草は、消えたのだ。
それにしても厄介な怪奇現象だ。
誰かが助けてくれないと、一人で対処することは不可能じゃないだろうか?
本当に、司書さんには感謝してもしきれない。
「本当にありがとうございます、司書さん」
「前はうっかりさんに助けてもらいましたし。お互い様ですよ」
司書さんは、照れたように笑った。
「そういえば司書さんは、僕が忘れん坊連続事件について話した時点で、怪奇現象を疑っていたんですか?」
「いえ、確かに変だなーとは思いましたけれど、確信したのはうっかりさんが私が借りた本を返していない、と言い出した時ですね」
司書さんの声が少し刺々しくなった。
あれ? 怒ってる?
「まったく、司書である私に向かってよくあんなことが言えたものです。私が借りた本を返し忘れるわけないじゃないですか」
「ご、ごめんなさい」
そうか。
たしかに、司書をしている人に言うことではなかった。
それよりも先に自分を疑えという話だ。
実際、今回は僕が間違っていたわけだし。
「それで私もさすがにこれはおかしいと思いまして。その後うっかりさんが間違った方向で怪奇現象を探そうとしているのは予想できましたから、それを止めて、うっかりさんが出て行った後、私が怪奇現象特定に動いたというわけです」
「なるほど。大変でした、よね?」
僕もやったことがあるから分かる。
怪奇現象百科事典の逆引きは重労働だ。
「ええ。それはもう。しかも、まだ見つかっていないのにうっかりさんは外で変な行動に出て騒ぎを起こしてますし。あの時は本当にどうしようかと思いました。まあ、その後すぐに見つかりましたから何とかなりましたけれど」
結構ギリギリだったんだな。
などと他人事のように思っていると、ジトッとした目を向けられる。
「何事かと思いましたよ、あの奇行には」
「ご、ごめんなさい」
思わず目を伏せて謝った僕が覗き込むように司書さんの表情をうかがうと、司書さんはくすくす笑っていて、僕もそんな自分に堪えきれなくなって笑った。
本当に、司書さんがいて助かった。
「この村に司書さんがいてくれて、本当に良かったです」
「どうしたんですか? いきなり」
「今回のこともありますけれど、司書さんがいなかったら、今みたいに楽しい毎日を過ごせていないだろうなって」
「こんな大変なことがあった後に、よくそんなポジティブでいられますね」
「でもそれだって、司書さんが助けてくれたじゃないですか」
司書さんは目をパチパチと瞬かせる。
「それを言ったら、私だって同じですよ。うっかりさんがこの村に来てくれて、感謝しています。まあ、そういえばその頃から怪奇現象によく遭うような……」
「え? 僕、疫病神ですか?」
「いえいえ。そんなことは思っていません。それに例えそうだとしても、うっかりさんがこの村に来てくれたのは良いことです。少なくとも、私にとっては。『月雪花は一度に眺められない』とも言いますし」
「どういう意味です?」
「月と雪と花はどれも美しいですけれど、一度に眺めることはできないように、一度に良いことがやってくることはない、ということです」
「なるほど。そうかもしれません。僕にとっては、司書さんがいてくれたことが、月、雪、花に当たるのでしょうね」
自然と出た言葉だったけれど、司書さんが照れたように目を泳がせたので、僕も少し恥ずかしくなった。
「ま、まあそれはともかく、良い事ばかりではないのは確かでしょうね。だって――」
「だって?」
何の気なしに聞き返した僕。
司書さんはいたずらっぽく笑って言った。
「だってうっかりさん。これからあの、ハリセン一喝のことを謝って回らないといけないでしょう?」
「あ。……あー!」
思わず頭を抱えた僕とそれを楽しそうに見る司書さん。
視線が合うとなぜか僕もおかしくなって、二人で笑った。
第五話 忘れん坊 完
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