第五話 忘れん坊(1)
「あれ? ……なんだっけ?」
呟いて、さながら石像のように固まったのが今から一時間前のこと。
その後、うんうん唸りながら部屋をぐるぐると歩き回ったのだけれど、どうしても思い出せない。
絶対に忘れてはいけないことほど、きっと忘れないと勘違いして何の対策もせず、結局は忘れてしまうというのは、人の習性を利用した、あまりにも酷い罠だと思う。
いや、僕の習性か……。
こういうことが起こるから、僕はパスワードというものが大嫌いだ。
パスワード、暗証番号、PIN……。
その単語が出てきた途端、蕁麻疹がでそうなほどに。
会社勤めの時から、パスワードは僕の強敵だった。
情報セキュリティの問題から、パスワード用の手帳を作って、電子データではなく紙でパスワードを保管していたけれど、その手帳を盗まれたらおしまいなので、小さなロック付の箱に入れていた(今どきそんな人いるの?と思うかもしれない。いる。僕だ)。
問題はその箱のロックが、4ケタの暗証番号を入力する様式だったことだ。
当然、会社に勤めていた時はこの番号を忘れたことはなかったし、しばしば使うものだから、忘れるわけがないと思っていた。
けれど呂方村に来てから、箱を開ける機会は減っていた。
銀行口座の暗証番号や、クレジットカードの暗証番号も手帳に書いてあるから、無くすわけにはいかない大事なものだけれど、お金を使う機会の少ない呂方村では出番が少なかった。
だからだろうか?
もしそうだとしても、僕が一番大切なあの4ケタの番号を忘れるなんて考えられないのだけれど。
久しぶりにパスワードが必要になって、箱のロックを開けようとした僕は、4ケタの暗証番号を、きれいさっぱり忘れていた。
「……どうしよう」
まさか、一時間頑張っても思い出せないとは思わなかった。
一時的にド忘れしていても、少し考えれば思い出せるはずだと考えていた。
僕は自分の迂闊さを甘く見ていたようだ。
いつまでたっても思い出せない暗証番号とは反対に、箱が開かなければどんな問題が起こるか、という悩み事の方は次から次へと浮かんでは積み上がっていく。
ダメだ。
箱が開かないと人生詰む。
とまでは言わないけれど、全財産消滅ぐらいの危機は覚悟しておいた方がいいかもしれない。
最悪、箱を壊してでも手帳を取り出さないといけない。
けれど、金属でできた箱は無駄にロックが硬く、クワを振り下ろしたとしても、そう簡単に壊れそうには思えない。
呂方村には手帳を盗むような人はいないし、もう今度から箱には入れないようにしよう……。
それにしても、どうやったら思い出せるのだろう。
結局、僕は一日に渡って思い出すために全力を尽くした。
紙に数字を書きだしたり、壁に向かって逆立ちして考えたりするのは序の口だ。
図書館に行って司書さんに相談し、図書館の本で思い出す方法を調べた。
思い出せなかった。
何も成果は得られず、疲労とストレスだけが溜まった一日だった。
「明日になったら思い出していますように――」
他力本願。神様に祈って寝た。
◇
翌朝。
「××××だ!」
僕はベッドから跳ね起きた。
箱の暗証番号を思い出したのである。
急いで箱を取り出し、暗証番号を入れて見ると、箱は難なく開いた。
「良かった~」
思わず安堵のため息が出る。
「昨日はどんなに考えても思い出せなかったのに……」
記憶とは本当に不思議なものだ。
箱が開いたことでパスワードが分かり、用は済んだ。
それだけでなく、この日の僕はなんだか冴えていた。
いつもより頭がすっきりしている。
この時に比べると、いつもは頭に靄がかかっているようなものだ。
とても気分が良かった。
今ならどんなことでも思い出せると、そんな風に思った。
「そういえば……」
この間、水筒を無くしてしまって以降見つかっていない。
今ならひょっとして……。
数日前の記憶を掘り起こす。
最後に水筒を使ったのは、山歩きに行った時だ。
あの日の帰り、農作物を見て回って、木陰に座ってお茶を飲んで……そうだ!
僕は玄関を出て、家の裏へと歩いていく。
畑と家の間に、腰かけるのに丁度いい切り株が見える。
半ば確信を持って切り株まで歩いた。
そこには、なくしていた水筒があった。
「今日の僕は、一味違うかもしれない……」
意識せず口角が上がった。
朝食に目玉焼きを作ると、一つの卵から二つの卵黄が出てくる。
双子だった。
頭が冴えるだけでなく、この日は運も良いようだ。
鼻歌交じりに農作業を済ませると、コーヒーを飲んで優雅な休憩。
「今日は素敵な日だ」
昼ご飯は何にしよう?
この前、ゴーヤチャンプルーの美味しい作り方を隣のおばさんに教えてもらったっけ?
ただ、どういう作り方だったか……。
いや、今の僕ならきっと、その気になればすぐ思い出せるはず。
それよりもゴーヤが必要だ。
ゴーヤは八百屋さんのところに行けばいいけれど、まだ余っているだろうか?
この間はゴーヤがいくらでもあるからタダでもらえるという話だった。
「あれ? でも……」
そうだ。
僕もゴーヤが欲しいからできれば取っておいてほしいと八百屋さんにお願いしたのだった。
八百屋さんのことだから、きっと僕の分のゴーヤを残しておいてくれていることだろう。
それなら、善は急げ。
今からゴーヤをもらいに行こう。
全てのことがくるくると、僕に都合よく回っているような気がした。
そんな日が、たまにはあっても罰は当たらないだろう。
意気揚々と家を出ると、隣のおばさんが家の前に水を撒いているのが見えた。
これはちょうどいい。
僕は上機嫌でおばさんの方に歩いて行った。
「こんにちは」
「あら、こんにちは」
「ええ、こんにちは」
にこにこ笑みの絶えない僕を見て、おばさんが怪訝そうな顔をする。
「どうしたんだい? にやにやして」
「いえ、今日は良い日だなぁ、と。それより、この間美味しいゴーヤチャンプルーの作り方を教えていただいたんですが、少し細かい所を忘れてしまいまして、もう一度教えてもらえませんか?」
今の僕なら自力で思い出すこともできるだろうけれど、おばさんに聞けば確実だ。
ちょうどいいタイミングで会うあたり、今日は一味違う。
「は? なんだいそれ?」
しかしおばさんは、驚いたようにきょとんとした。
「私、そんなこと言ってないわよ」
パシャリと冷や水を浴びせられたように、僕は固まった。
「え……。え?」
困惑せざるを得ない。
僕は確かに、おばさんからゴーヤチャンプルーの美味しい作り方を聞いたのだ。
あれは双子の件の直後、ゴーヤが村で飽和状態にあったあの日からすぐあとのことだった。
それは自信ありげに美味しく作るコツを教えてくれたはずだ。
料理の工程よりも、話の間に入る脱線話の割合が多かった。
「そうそう○○と言えば、この間ね……」と「えーと、どこまで話したっけ?」の連続によって料理工程が刻み刻みになって覚えられなかったことを、よく覚えている。
あれほど自信ありげに語った内容を、忘れてしまうことがあるのだろうか?
あり得ない話では……ないか。
美味しく作る方法と言っても、おばさんは元からその方法を知っていたのではなかったと思う。
たまたまタダで手に入ったゴーヤでゴーヤチャンプルーを作るときに、いつもと違う工程を踏んだらいつもより美味しくなったから自慢しに来たとか、たぶんそんなところだろう。
そのため、その美味しく作るコツ自体、一週間もあれば忘れてしまうことはおかしくない。
美味しく作るコツを忘れてしまった以上、それを自慢した話を忘れることは特に変でもない。
「ああー、そうですか。忘れてしまったのなら、仕方ないですね」
「んー? そんな話はしてないと思うけどね」
「分かりました。それではまた」
まあ、このことでおばさんを責めるのは酷だろう。
それに、美味しい作り方と言っても、多少大げさに言っていた節がある。
普通に作っても美味しいのだから、奇をてらう必要もないだろう。
おばさんと別れ、八百屋さんのところに向かった。
◇
「こんにちはー」
「こんにちは! うっかりさん、今日は機嫌が良さそうやなあ! 何か良いことでもあったと?」
「あはは、分かりますか? 実は今日は良いことばかり起こる日なんですよ」
「そりゃよかねぇ。その運、ちょっと分けて?」
両手を合わせて小首を傾げる八百屋さん。
いつも明るくて楽しそうな人だ。
「ではどうぞ。代わりに、ゴーヤを分けてもらえますか?」
運を手渡すようにジェスチャーをする。
「ありがとう。ゴーヤは一本50円やね」
安い。
けれど、タダではないようだ。
この間、取っておいてほしいと言ったのだけれど。
忘れてしまったのだろうか?
「あー……余ってる分は、もうないですか?」
ちょっと婉曲的に聞いてみた。
「そやね。ちょっと前までたくさんあったばってん、みんな取りに来たけん」
八百屋さんはさっぱりした様子だ。
忘れてしまったのだろう。
と言っても、もとより図々しく主張できる立場ではないのだし、ここであのことを引っ張り出すのはやめておこう。
誰にだって忘れてしまうことはあるしね。
「そうですか。じゃあ、一本買います」
「はーい。ゴーヤ一本」
正式に予約していたわけでもないから……予約?
予約と言えば、何かを予約していたような気がする。
なんだったかな?
僕はゴーヤを受け取り、家に帰った。
◇
ゴーヤチャンプルーは、ゴーヤ、卵、豆腐、豚肉で作るのが基本だ。
けれど、この村ではどうしても豚肉や牛肉は手に入りにくい。
鶏を育てている人はいるから卵は手に入るものの、動物の肉に関しては猟師をしている人が狩った猪や鹿の肉が基本となる。
あとは、魚屋さんが釣ってくる魚だ。
それらだって、多くはない。
雑多に食料品を売ってくれる店もあるけれど、あまりお金を使わない村で利益を出すのは難しいから、保存食以外は頼まれた時や行事の前にしか仕入れないらしい。
この村において、肉は稀少なのだ。
逆に、ベジタリアンの人なら暮らしやすいと思う。
実際にベジタリアンもいるけれど、野菜の質が良くてタダみたいなものだから、食事に関しては文句なしだそうだ。
ともあれ、そういう事情があるから、ゴーヤチャンプルーも肉無しだ。
代わりに卵を多めにして、チーズを入れてみよう。
………
……
…
出来上がったゴーヤチャンプルーは予想以上に美味しかった。
豚肉の強い旨味と塩味はないのだけれど、その分ゴーヤの味が引き立つ。
ゴーヤの苦味をフワフワ卵のほのかな甘みとチーズのコクが包み込み、癖になる味わいだ。
塩と胡椒を強めに振ると、また味が変わって美味しい。
肉がない生活は、最初は辛いものがあるけれど、慣れてくれば野菜の良さにはまっていく。
それでも、たまに食べる肉はやっぱり美味しいけれど。
「美味しかった。ごちそうさまでした」
合わせた手を解いて、食後の満足感に浸りながらぼーっとする。
すると広いダイニングが、少し寂しく思えた。
前から思ってはいたけれど、その気になれば七つの椅子を並べられるこのダイニングテーブルは、一人で使うには大きすぎる。
広すぎるテーブルは寂しくて……。
「あ!」
思い出した。
前もこんな風に思って、ダイニングテーブルに花を置こうと思ったのだ。
簡単に育てられて、テーブルを華やかにするような花を探してほしいと、花屋さんに頼んでいた。
八百屋さんのところで引っかかった予約とは、このことだったのだ。
◇
「え? そんな話したかしら?」
まったく身に覚えがないとばかりに、花屋さんは眉根を寄せた。
昼食後、花屋さんに僕が探している花は見つかったかと尋ねた。
しかし、返ってきたのは思いもよらない反応だった。
「ええと……はい。確かにお願いしたはずですけれど」
「ごめんなさい。うっかりさん、それはいつの話か覚えている?」
「はい。先週の……金曜日、だったと思います。ええ。間違いありません」
花屋さんはいつも浮かべている微笑みを困惑に変えて、記憶を確認している。
チラリ、と僕の表情をうかがう。
まったく記憶にないのだろう。
僕の記憶違いではないかと思っているのかもしれない。
けれど、僕の記憶には鮮明にその時の光景が残っている。
記憶違いということはない。
「ごめんなさい。思い出せないわ。でも、ダイニングに飾る世話が簡単な花なら、こんなのはどうかしら?」
そう言って、花屋さんはいくつかの花を勧めてくれた。
中にはサボテンなどもあって、花よりも世話が楽で長く生きてくれるらしい。
結局、進めてもらった花とサボテンを一つずつ買うことにした。
「ありがとうございました」
「いえ、忘れてしまっていてごめんなさい。また、季節が変わったら飾る花を変えてみてね」
結果的にはとても満足のいく買い物だった。
けれど、なんだか忘れん坊が多い日だ。
隣のおばさんから始まり、八百屋さんに花屋さん。
思い返してみれば、会って話をした人みんなが何かしらのことを忘れている。
いや、そうじゃない。
僕もだ。
正確には今日じゃないけれど、僕だって昨日、暗証番号を忘れていた。
忘れん坊が続出している。
まるで、流行り病のように。
「……まさかね」
少々不思議な事が続いたからと言って、なんでもかんでも怪奇現象のせいにするのは違うと思う。
まあでも、司書さんとの話の種ぐらいにはなるかな。
◇
「……とまあこんなふうに、今この村には忘れん坊が続出しているわけです」
いつものように司書室で、ゆったりまったりしながら司書さんに、ここ最近の忘れん坊連続事件について語って聞かせた。
いつものように。
『壁に耳あり~』のことがあってから、僕はほとんど三日に一度くらいの頻度で司書室を訪れるようになっていた。
だからといって僕と司書さんの関係に大きな変化があったわけではなく、ただ紅茶やコーヒーを飲みながら、たまには手作りのお菓子や買ってきたお菓子を食べ、会話を楽しむというだけ。
小さな部屋に男女で二人という状況は、普通なら緊張を強いられる場面かもしれないけれど、もう僕と司書さんは慣れたものである。
家のリビングでダラダラしているのとそう変わらないような気安さで、紅茶、あるいはコーヒーの香り立ち込める空間で、ゆったりとした時間の流れを楽しんでいる。
特に会話もせず、お互いに勧め合った本をここで静かに読んでいることもある。
同じ部屋に二人でいるからといって、二人で会話をして楽し気な雰囲気を維持しなければ気まずいというような、ちょっと僕が苦手な空気も、ない。
ただ、基本的に司書さんはおしゃべり好きなので、二人で静かに本を読む時も、それが終わった後の読後感想会が本番、とばかりに盛り上がる。
家で暇をするよりは、とりあえず司書室を訪れた方が何かしら楽しい時間を送ることができるくらいに、気安くて過ごしやすい空間となっていた。
司書さんの仕事の方は、利用者が少ないこともあって、僕とのお茶で支障が出るほどではないそうだ。
たまにカウンターの呼び鈴が鳴らされると、司書さんは利用者の対応に出る。
それ以外の仕事は、僕がいない時にしているようだ。
司書室は素晴らしい休憩スペースなのである。
「……なるほど。忘れん坊、ですか」
神妙な顔をして、司書さんは頷いた。
「いやまあ、ただの偶然でしょうけどね」
僕が忘れん坊連続事件などと少し大げさに話したからだろうか?
司書さんはなにやらシリアスに考えてしまったようだ。
僕としては、ちょっと不思議な面白体験を、大げさに表現して楽しい話にしようとしただけなのだけれど。
誤魔化すように笑った僕を見て、司書さんもまた取り繕うように笑った。
「そうですね。ところで、その忘れん坊が流行り病のようなものだとすれば、私も何か忘れているかもしれませんね」
忘れん坊が流行り病だという冗談を、司書さんはあえて続けるらしい。
確かに面白い仮定ではある。
「なるほど。そうなりますね。何か心当たりはありますか?」
「いえまったく。もっとも、忘れていること自体を忘れていれば、心当たりなんてあるはずもないですが。むしろ、うっかりさんは私が何か忘れていると気づいたことはありませんか?」
「えぇ? そうですね……」
忘れていることを忘れているなんてそう珍しいことではない。
司書さんが何かを覚えていないとして、それに最初に気づくのが周りの人間、この場合は僕か、というのも、よくあることではある。
とはいえ、僕に何か思い当たることはあるだろうか?
いつもなら何も思いつかないだろうけれど、今日の僕は一味違う。
少し考えれば何か思い出すかも……。
「あ、そういえば……」
「おっ、何か思い出しましたか?」
楽しげに司書さんが問う。
「ええ。思い出しました。司書さん、前に僕が貸した本『陰陽師よもやま』を返し忘れていますね」
僕が指を鉄砲のようにして司書さんに突きつけると、司書さんは一瞬目を丸くして、すぐにおどけたように両手を挙げた。
「すっかり忘れていました! どうか許してください~」
チリンチリン。
と、僕が指の鉄砲を司書さんに向け、司書さんが両手を挙げた、冗談空間に、呼び鈴の音が響いた。
「あ、私出てきますね」
司書さんは若干照れながら言う。
「ええ、どうぞ」
僕も子供のような仕草に少し恥ずかしくなって、すぐに手を下ろした。
呼び鈴を鳴らした利用者さんの対応を終え、司書さんは司書室に戻ってきた。
「お待たせしました」
「いえいえ。紅茶のおかわりをいれておきました」
「ありがとうございます」
その後もしばらく閑談を続けたのだが、ふと思い出して言った。
「そういえばさっきの本、今は司書さんの家ですか?」
「さっきの本? なんでしたっけ?」
「ほら、僕が前に貸した本です。『陰陽師よもやま』」
「え?」
司書さんは、口を開けたままピシリと固まった。
何かに驚いたように。前に僕が言われた仕返しではないけれど、石像のように。
ほんの数秒の間だけれど、不自然に動きが停止した。
「え? って、さっき話したばかりじゃないですか。まさかもう忘れちゃったんですか?」
だとしたら、本気で忘れん坊の流行り病仮説を検討するところだけれど。
しかして、そうではなかった。
「いえ。もちろん覚えています。覚えていますけれど、あれは冗談ですよね?」
「んん? えっと、何か食い違いがあるみたいですね。確かに指を突き付けて子供っぽくふざけはしましたけれど、本を貸したこと自体は本当ですよ?」
司書さんは目に見えて動揺した。
「え? でも……」
視線を斜めに向ける。
司書さんが記憶を確認したり、念入りに考えたりする時の癖だった。
数秒、静かすぎるほど静かな時間がすぎた。
その後、司書さんは僕に疑いの眼差しを向けた。
「それ、本当ですか? いや、そうじゃないですね。それ、本気で言っていますか?」
本当ですかも、本気で言っていますかも、変わらないと思うけれど、司書さんはわざわざ言い直した。
その目が何よりも雄弁に語っている。
司書さんは、僕が本を貸したことをまったく覚えていなかった。
貸した本がなかなか返ってこないということは珍しくない。
あまり面白くなくて読み進められず、かと言って相手が面白いと思って勧めてくれたお気に入りの本を、読まずに返して感想が言えないのも、正直につまらないと言うのも、心苦しいものがある。
反対に、面白くて早々に読んでしまった本を、もう一度読みたくてなかなか返せない場合もあるだろう。
さらには、そうして借りたまま、読めずに放置しているうちに借りていること自体を忘れてしまうことも。
それは、珍しいことではない。
けれど、借りた相手が返してくれと言っているのに、それでもなお借りたこと自体を思い出せないというのは、なかなかあることではない。
珍しい、と間違いなく言える。
それが何年も貸したままだった、などの年季の入った貸し借りならともかく、僕が司書さんにその本を貸したのはせいぜい数か月前、いや一か月前ぐらいか。
たった一か月で借りた本のことを都合よく記憶から完全に抹消できるような人がいたら、それは一種の特殊能力だ。
もちろん、司書さんにそんな能力はないはずである。
「はい。本当です。本気で言っています。僕は確かに、一か月前に司書さんに『陰陽師よもやま』という本を貸しました」
僕は司書さんの目を真っ直ぐ見て言った。
「そうですか……。すみません。まったく思い出せません。ちなみにうっかりさん、その本は大切なものだったりしますか?」
「ええーと、そうですね……」
たしかあの本は――そう。
最初に読んだのは僕が高校2年生の時だ。
学校の図書室にあったその本が気に入って、僕は二度、三度と読み返した。
高校では図書室に行けばそれを読むことができたけれど、卒業後はそうはいかない。
けれど大学に入ってから、本屋でたまたま同じ本を見つけて、購入したのだ。
そのため、ある意味思い出の本ではある。
しかし一方で、それは本の内容が思い出の対象であって、物体としての本に思い出があるわけではない。
たぶん街に降りて本屋で探せばもう一度買うことはできるし、大切なもの、というほどではない。
という話を、司書さんにも話した。
「ごめんなさい。万が一無くしてしまっていたら、買ってきますね」
「あー、じゃあ、その時はお願いします」
と言っても、借りたことを忘れているだけで、本自体を無くしてしまったわけではないだろう。
探せば見つかるはずだ。
それよりも問題なのは、司書さん自身の方だ。
僕が体験してきたちょっと不思議な出来事は、事ここに至って、明らかに不自然な出来事へと変貌を遂げた。
これはもう、ナニカが関わっているとしか思えない。
「あの、司書さん。僕、そろそろ帰りますね」
「そうですか。分かりました。何か用事でも?」
「あー、はい。まあ」
双子の時は司書さんも第三者だったけれど、今回は違う。
司書さんもコレの内側に入ってしまっている以上、僕一人で何とかしないといけない。
忘れん坊の流行り病なんて、冗談めかして言っていたけれど、案外的外れでもないかもしれない。
もしも村の人の記憶がどんどん抜け落ちていくような怪奇現象であれば、それはとんでもない事態になる。
取り返しがつかなくなる前に、どうにかしないといけない。
一刻も、早く。
僕は司書室を出て、いつもの通り、怪奇現象百科事典の置いてある棚へと向かった。
しかし――
「うっかりさん。もしも怪奇現象百科事典をお探しなら、ここにはありませんよ」
「――え?」
「さっき図書館に来た人が、借りていってしまいました」
さっきの――呼び鈴の人か!
しかし、あんな本を借りていく人が僕以外にいるなんて!
ひょっとして、今の村の状況に気づいている?
「司書さん、その人の名前は分かりますよね? 教えてもらえませんか?」
本を借りる時には、必ず用紙に記入することになっている。
それを見れば誰が借りたのかは分かる。
だが。
「はい。――あれ?」
「どうかしましたか?」
首をかしげる司書さんに恐る恐る僕が尋ねると、司書さんは申し訳なさそうに首を振った。
「ごめんなさい。記入を忘れてしまったようです。私がしっかりお伝えするべきだったのですが」
「え! ……その人の顔を覚えていたりはしませんか?」
司書さんは視線を斜め上にあげて考える。
「見たことはあるんですが……名前までは」
「そう、ですか」
「すみません」
「いえ、仕方ありません。分かりました。では僕はこれで」
僕は急ぎ足で図書館を出て、家に戻った。
◇
まずいことになった。
怪奇現象百科事典を借りたのは、村の人だろう。
けれど、名前が分からないとなると探すのは簡単じゃない。
不可能ではないけれど、その間にも、大変な事態が進行しているかもしれない。
仕方ない。ここは、自分の記憶を信じるしかないだろう。
僕は最近、百科事典の怪奇現象を分類して、索引を作っていた。
僕以外にあの本を借りる人がいるとは思えないから、ずっと借り続けてもいいような気もしたけれど、もしも引っ越してきたばかりの僕のように、どうしようもなくなってあの本に頼るような人がいた時に、僕がいつまでも独占している状況はよくない。
だから、僕はあの本を一週間借りて索引づくりをしたら、次の一週間は図書館に戻すことにしていた。
今週は休みの週だったから、あの本は図書館にあったのだけれど、それが禍したようだ。
いや、目的通りとも言えるのだけれど。
ともあれ、索引づくりをしていた。
索引は、『聞こえるはずのない声が聞こえる』『子供の姿をしている』などのように怪奇現象を分類わけして、いざというときにその名前を早く特定するためのものだ。
だから、その過程で怪奇現象の名前と特徴を読むことになる。
それによって僕は今、様々な怪奇現象について覚えている状態にある。
たしかその中に、記憶に関わる怪奇現象もいたはずだ。
いつもの僕ならいざ知らず、今の冴えた頭の僕なら思い出せるかもしれない。
それで思い出せないようなら、仕方がないから村中を回って百科事典を借りた人を探そう。
それにしても、記憶に関する怪奇現象とは厄介だ。
そもそも記憶というもの自体、よく分からないことが多い。
曖昧な記憶が妖怪やお化けの原因と目されていることを考えれば、記憶というのはある意味それ自体が、怪奇現象と似たようなモノと言えるかもしれない。
忘れてしまうということは、自分の中でその出来事がなかったことになるのと同義だ。
たとえば今僕は怪奇現象が起こっていることを認識しているけれど、もしもこの記憶が消去されてしまえば、対応すること自体、できなくなってしまう。
そうなれば解決は絶望的。
おしまいだ。
村の人間の記憶が次第に消えていくような怪奇現象だとしたら、もしもそれが行く所まで行って、村人全員が記憶喪失になったりしたら、どうなってしまうだろう?
記憶をすべて失うということは、人格を失うことにもつながる。
自分が自分であるという確信さえ、消えてしまいかねない。
そう考えると、記憶喪失とはある意味で、死ぬことにとても近いのかもしれない。
フィクションでは多用され、実際それが面白いドラマを生むのだけれど、現実には、特に自分の周りでは起こってほしくないことの好例だろう。
特にこの村は色々な部分で特殊だ。
完全ではないけれど、外の世界から隔離されている。
それは距離的にも、社会的にも。
この村の社会的な立場はどうなっているのか、財政はどうなっているのか。
考えてみればこの村には不思議な点が多い。
公務員試験も司書の資格もおそらく取っていない司書さんが、当たり前のように図書館で働いて、それで生活できるだけの食べ物や少ないお金を分けてもらっていることも疑問に思ったことはあるけれど。
それに限らず、どこか治外法権が認められているかのような節が、この村にはある。
冷静に考えてみれば、異質なのだ。ここは。
誰も気にしないし、気にしても得がないから、僕もあまり気にしないようにはしているけれど、おそらくその仕組みを理解しているであろう集会所のおじさんなどが、そのことを忘れてしまえば、この村は危機に陥るのではないだろうか。
社会の一部として組み込まれた人間の記憶喪失も、人生を180度変えるくらいの大事だろうけれど、特殊な村に生きている僕らにとっても、記憶喪失は致命的な出来事足りうる。
どうにかしないといけない。
いつも頼ってきた怪奇現象百科事典がここにはないけれど、僕の頭の中には、きっとあるはずだ。
起こった出来事を整理してみよう。
○月×日 僕が箱の暗証番号を忘れた(翌日思い出した)
翌日 隣のおばさんがゴーヤチャンプルーの作り方を僕に教えた話を忘れていた
八百屋さんがゴーヤを僕に取っておくことを忘れていた
花屋さんが七日前に僕が予約した花について忘れていた
司書さんが一か月前に僕が貸した本について忘れていた
こう並べて見ると、共通点らしきものは見えてこない。
忘れていたことが分かった日はほとんど同じだけれど、実際に記憶をなくしたのがいつだったのかは定かではない。
それに、この全てが怪奇現象による物忘れとも限らないだろう。
花屋さんと司書さんの物忘れについては、忘れているのが不自然に感じるものではある。
予約した花を忘れていることも、貸した本を忘れていることも、それ自体はうっかりしていた、で済む話だ。
しかし、こちらが話を持ち出しても思い出さないというのは、ちょっと普通じゃない。
けれど、僕の暗証番号はともかく、隣のおばさんのゴーヤチャンプルー、八百屋さんのゴーヤについては、日常的に珍しくない物忘れだと思う。
まあ、これだって僕の主観であって、明確な基準があるわけではないのだけれど。
「……ダメだ。何も分からない」
もう少し条件を絞れればと思ったけれど、こうなったら仕方ない。
『物忘れを誘発する怪奇現象』という条件で、頑張って思い出してみよう。
そんな怪奇現象がいくつかあったような気がする。
それから僕が行った一時間の努力については、前日の暗証番号の時と同様、見ている人がいれば奇行としか思えなかったことだろう。
部屋を歩き回っては、逆立ち、頭に手を当てて上下左右に揺らしてみたり、扇風機に声を送り震える声を聞いて閃きを促したり、ベッドに横になってバッと起き上がり、暗証番号を思い出した時の動作を繰り返してみたり。
真顔で。
大変見苦しい有様だったのは間違いない。
けれど、その一見何の意味もない奇行(僕だって分かってはいた)に反して、なんと、僕は目的の怪奇現象を思い出すことに成功していた。
それも、かなり鮮明に。
その内容のほとんどを思い出し、紙に書きだし終えた時には、あまりに冴えた頭に自分で驚いて、僕が本当に僕なのか疑ってしまったほどだ。
ひょっとして村のみんなの記憶が抜け落ちた分、僕の記憶力が著しく向上しているのではないか、みんなの記憶力を僕が奪ってしまったのではないか、なんてことを大真面目に考えたものだけれど、思い出した怪奇現象の内容に、そんなことは書いていなかった。
果たして、そんな僕の一時間の集大成が、以下の内容だ。
“忘れん坊”
性質:中性
推定被害:小規模~大災害
概要:忘れたい記憶を忘れさせてくれる怪奇現象。ただし、忘れたくない記憶も忘れさせてしまう所が難点。
詳細:何かどうしても忘れたい記憶がある人が生み出す怪奇現象。忘れたい記憶を忘れさせてくれる。ただし、忘れたい記憶を消した後も、様々な記憶を消してしまう。さらには、忘れん坊の異常状態になった人に近づいた人にも忘れん坊は伝染し、その人も忘れたい記憶から、次第に忘れたくない記憶までどんどん忘れていく。忘れる順番は、忘れたい記憶から、忘れてもかまわない記憶、忘れてはいけない記憶へと推移する。一度忘れん坊の異常状態になり、それから回復した者は耐性がついて二度と忘れん坊にはならない。
解決法①:忘れん坊は忘れたい記憶を消し去る怪奇現象である。記憶がどんどん消えていく異常状態を治すためには、一度忘れた記憶を懸命に思い出す努力をすること。忘れん坊に消された記憶は努力によって思い出すことができ、一度でも思い出すことができれば、それまで忘れた記憶は全て返ってきて、忘れん坊の異常状態はなくなる。
解決法②:忘れん坊の影響が大人数に広がってしまった場合、事態を収拾することは困難である。この場合、忘れん坊から一度回復した者が治療役となり、忘れん坊の異常状態にかかった者を治す方法が効率的である。方法は、ハリセンで頭を叩いて「この忘れん坊!」と一喝することである。
我ながらよく思い出すことができたものだ。
でも、記憶に違いはない。
怪奇現象百科事典で忘れん坊のページに書いてあった珍妙な絵も鮮明に覚えているし、一言一句間違いないとは言えないけれど、説明の内容も確信をもって合っていると言える。
これで、解決は可能だ。
忘れん坊が流行り病だという仮説は、どうにも当たっていたようだ。
危険な怪奇現象であるのは間違いないが、解決法が二つある。
一つは自力で解決する方法。
僕はこれによって早期に忘れん坊を解除することができたのだろう。
そして、それによってこれまで忘れん坊のせいで消されていた記憶が次々と戻ってきたのだ。
僕の頭が冴えているように感じたのは、一部はこれのおかげだろう。
記憶が返ってくると言っても、どうやら一気に頭に流入してくるわけではないようだ。
消された記憶が戻ってくると、記憶が消される前の状態に戻る。
だから、思い出そうとすれば思い出せるというだけ。
水筒を切り株に置いてきたことも、思い出そうとしたから思い出せたのだ。
“忘れん坊”は現在の状況とも一致している。
あとは解決法を実行に移すだけだ。
しかし……。
「これはちょっと、大変だな……」
解決法①の方は、やっていられない。
小さな村だし、既に多くの人が忘れん坊の被害に遭っているだろう。
その上、花屋さんや司書さんを見るに、忘れるべきでない記憶も忘れてしまっているから、進行度も著しい。
一人一人に努力して記憶を掘り起こしてもらうのは大変過ぎる。
僕だって、最初の記憶を思い出すのに一日かかったのだ。
となると、残るはもう一つの解決法。
つまり、ハリセンで叩いて一喝する方だ。
これはちょっとやりにくい。
村の人はほとんど僕より年上だし、何よりたとえ怪奇現象が解決したとしても、どうして僕がそんな奇行に走ったのかは分からないのだ。
なにしろ、忘れん坊から回復したという事実は非常に分かりにくい。
僕は村人の頭をハリセンで叩いて回る変人、いや狂人?の汚名を受けることになる。
嫌だなあ。それは嫌だ。
しかし、そうは言っていられない所まで、事態は進行している。
この村のみんなが記憶喪失になるよりかは、僕が変人扱いされた方がまだマシだ。
僕のことは病気だと思ってほしい。
病気は治ったと後で言ったらみんな信じてくれるだろうか?
そう、やるしかない。
僕にしかできない。
僕がこの村の救世主になるしかないのだ。
ハリセン片手に奇行に走る救世主……。
絵面は一見コミカルだけれど、実情は非常にシリアスだ。
トラジカルと言ってもいい。
僕は画用紙でハリセンを作り、自分の頭を叩いてみた。
パシィン!
うん。音は大きいけど、あんまり痛くはないかな。
間違っても目に当てたりしなければ、傷になることはないはず。
そのまま、玄関まで歩き、深呼吸。
すぅー、はぁー 。すぅー、はぁー。
これから僕は、呂方村の救世主になる。
それと同時に、客観的には狂人になる。
「よし。行くか」
気合十分。僕はまず隣のおばさんの元へ向かった。
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