もう一人いる(2)
図書館を出ると、空は綺麗なオレンジ色に染まっていた。
もうそんな時間か。
思ったよりも長い間、ページをめくっていたらしい。
家に着いて、お風呂を沸かそうと思っていた時だった。
庭に続くガラス扉の前に、見慣れない物が置いてあるのを見つけた。
「なんだろあれ?」
近づいて拾ってみると、巾着袋のようだ。
赤色の、可愛らしい巾着袋。
とてもじゃないが、僕には似合わないし、当然僕のものではなかった。
司書さん……は違うか。
前に一度司書さんがこの家を訪ねてきたことがあったけれど、あの時司書さんは何も持っていなかったはず。
それにこんなに目立つ赤色の巾着袋を持っていたらさすがに気づくだろう。
だとすると……。
「あ」
農家の息子さんだ。
そういえば、この間ここに腰かけてスイカを食べたのだった。
その時に忘れて行ったのだろう。
男の子には少し可愛すぎる気もするが、あり得なくはないだろう。
返しに行こうと思って巾着袋を手に玄関から出ると、ちょうど歩いている農家のおじさんを見つけた。
小走りで近づいていく。
おじさんの向かう先では、八百屋さんの所に、小さな人だかりができていた。
「こんにちは」
「ん? おお、あんちゃんもゴーヤか?」
「はい? ゴーヤ?」
「なんだ違うのか。なんでも今村にはゴーヤが集まってるみたいでな。八百屋さんのとこにいけばタダでもらえるってんで行く所よ」
「ああ、だから人だかりができているんですね」
前のトマトみたいな感じか。
それにしても、もう少し村の人で作る野菜の情報を共有すればこういうことにもならなそうなものだけれど。
もちろん、僕は嬉しいから文句はない。
「じゃあ、僕も行きます。ただ、その前にこれを返しておきますね」
「ん? 赤い……巾着か、これ」
「はい。この前息子さんにスイカを食べさせるために家に招いたんですが、その時に忘れてしまったようで」
「おお、そいつはありがとよ。だが、こんな巾着は家にはなかったはずだ。それに、こんな可愛らしいのは嫌だって言って絶対持たないと思うぞ?」
「え……。それは確かですか?」
「ああ。まずあいつのではないな。その時はあいつ一人だったのか?」
「いえ、もう一人いましたが――」
そう言いかけて、違う、と思い直す。
あれは影坊主だったのだ。
それはつまり、一人でいたのと変わらない。
だがそれならこの巾着袋は誰が忘れていったというのだろう?
「おお、じゃあ村の他の子供か。この巾着を持つのは女の子だろうな――って、あそこにいるじゃねえか」
「え? いるって誰がです?」
「この村の子供で女の子は二人だけだ。で、その二人が今八百屋の前にいるぞ。おつかいだろうな」
おじさんの指さす先には、確かに二人の女の子がいた。
どちらも、初めて見る顔だった。
断言できる。あの二人とは会ったことがない。
この巾着袋を忘れていったのは、おじさんの息子さんのはずだ。
しかし、おじさんはあり得ないと言う。
そこまで言うからには、息子さんの持ち物ではないのだろう。
だとすると、この巾着袋を忘れたのは、誰になるのだろうか?
僕の家に来てあの場所でスイカを食べたのは息子さんとその影坊主だ。
つまりそれは息子さん一人分の持ち物しか、忘れ物になるはずがないということだ。
だったら息子さんの持ち物ではない巾着袋は、どうしてあの場所にあったのか?
……何か変だ。
何か、とんでもない勘違いをしているような。
そんな不安が胸の中に広がっていく。
なんだろう?
僕は何を勘違いしている?
考えろ。考えろ。
思い出せ。あの日、何があった?
あの日は――
「――あ」
そして、僕は気づいた。
自分が、とんでもない勘違いをしていたことに。
そしてその勘違いの内容に危機感を覚える。
まずい。これは、まずいかもしれない。
僕はあの日、二人の子供にスイカを食べさせた日、農家の息子さんと、もう一人いたはずの子供の顔をまったく覚えていなかった。
僕はこれを、二人の顔が、姿形が同じだったからだと結論した。
同じだったから、もう一人の顔など元々なかったからだと。
これはおかしい。
普通なら、同じ顔をした二人がいたら、そのことは何よりも強く記憶に残るはずだ。
双子だったからもう一人の顔が思い出せなかった、なんていうのは、普通の人ならまず起こりえない事態である。
けれど、僕はうっかりしている。
うっかり者の自覚がある。
だから、あの峠の上で、スイカは美味しかったかと同じ顔をした二人に聞いて、二人から答えが返ってきた時点で、やはりこの二人だったのだと断定した。
今回も僕のうっかりが引き起こした出来事だと、結論した。
だからこのことは僕にとってはもう終わったことで、あの時一緒にスイカを食べたのは息子さんとその影坊主だということは、既に頭の中で事実となっていた。
けれど、怪奇現象百科事典の内容をよくよく思い返してみると、僕の判断は間違っていたことが分かる。
影坊主という怪奇現象は、第三者を前にした時、鏡映しのように影の持ち主と同じ動作をするのだ。
だとすれば、話す言葉も同じでないとおかしい。
すると、僕の質問に二人両方が答えたという事実は、途端にその意味をなくす。
影坊主は単に、影の持ち主である農家の息子さんの真似をしたにすぎないのだ。
だから、あの日スイカを食べた二人は、農家の息子さんと、影坊主ではない誰かでもよかったことになる。
そして、それはやはり影坊主ではなかったのだ。
その証拠に、ここに赤い巾着袋が残っている。
これの持ち主は誰?
さっき図らずも農家のおじさんが教えてくれた。
この村の子供で女の子は二人、いずれも僕はさっきまで見たことが無かったから、彼女たちは巾着袋の持ち主ではない。
いくら顔を思い出せないとしても、もう一度見れば見たことがあるかどうかぐらいは分かる。
そもそも、農家の息子さんには友達がいなかったはずだ。
だから、影坊主が出たのだ。
あの日一緒にスイカを食べに来たのは、この村の子供ではない。
では、スイカを食べに来たのは誰?
赤い巾着袋を忘れていったのは誰?
あの日確かに一緒にいて、僕が顔を思い出せなかったのは誰?
それは、友達のいない農家の息子さんの元にやってきた、ナニカ。
怪奇現象の子供は、もう一人いたのだ。
「あの、息子さんって、今どこにいるか分かりますか?」
僕は内心の動揺を抑えながら、農家のおじさんに聞いた。
「ん? そういや山に入ったっきり戻ってないな。そろそろ暗くなってくるってのに」
背筋に寒気が走った。
あの日スイカを食べに来たのが怪奇現象だったとすると、僕がその姿をまったく覚えていなかったことにも説明がつく。
不自然なほどに記憶に残っていない姿。
それは、そういう怪奇現象だったから、という説明で十分だ。
そして僕はたまたま、『そういう怪奇現象』に心当たりがあった。
司書さんと一緒に双子の怪奇現象を特定しようとして探した時、気になった怪奇現象。
善性であるにもかかわらず危険な非存在。
こういうのもいるのかと、興味深く思ったけれど、現実には表れてほしくないタイプの怪奇現象だ。
孤独な子供を向こう側の世界に連れて行ってしまう、ソレの名前は――
「――児招き子」
「あ? なんだって?」
「僕、やっぱりゴーヤはいいです。ちょっと急用ができたので」
息子さんは、空が暗くなり始めるこの時間に帰ってきていない。
ひょっとしたらもう……。
でも、諦めるのはまだ早い。
これから山に入って息子さんを見つけることができれば、間に合うかもしれない。
今おじさんに状況を説明している余裕は無い。
動けるのは、僕だけだ。
僕は前に歩いた山に向かって走った。
山に入る前、僕の家の横を通り抜けた時、山の方から誰かが歩いてくるのが見えた。
「あれは……」
ゆっくりと近づいてくるのは二人の子供だった。
一人は七歳ぐらいの男の子。
眠そうに目をこすりながらこちらに歩いてくる。
農家の息子さんだ。
そしてもう一人は――
「君たち……あー、大丈夫?」
何事もなく僕の目の前まで歩いてきた二人に、何と声をかければいいのか分からない。
特に、農家の息子さんの隣を歩いている、その女の子に。
この村に、女の子は二人しかいない。
その二人と、目の前の子は似ても似つかなかった。
歳は農家の息子さんと同じ七歳くらい。
艶やかな黒髪の、人形のように整った容姿。
そして、いくら田舎であろうと普段から着ている人はいない、綺麗な赤い着物と下駄は、その容姿と合わさって非人間的な美しい雰囲気を醸し出していた。
なるほど、この赤い巾着袋がよく似合いそうだ。
そして、僕は確かにこの子に見覚えがあった。
霞が晴れたように、スイカを食べたあの日の光景が浮かび上がる。
そうだ。あの日息子さんと一緒にいたのは、この子だった。
間違いない。
どうして忘れていたんだろう?
目の前にしてみると、忘れていたことが信じられない程に鮮烈な印象を受ける容姿、そして雰囲気だ。
この子が、児招き子?
隣で歩いている息子さんを見るに、今日のところは向こう側の世界に連れて行かれなかったのだろうか?
しかし、これからも連れて行かれない保証はどこにもない。
頼んでみるべきだろうか?
この子を連れて行かないでくれと。
児招き子は善性の怪奇現象だ。
この子を大事にしている両親がいると伝えれば、連れて行かないでくれるのではないだろうか?
話は通じるのではないだろうか?
しかし、怪奇現象相手に会話することができるのか?
僕の目の前で立ち止まった二人。
息子さんは眠そうにして女の子と手をつないでいる。
ここまでも引っ張ってきてもらった感じだった。
女の子の方はその澄んだ目で僕の目をじっと見ている。
僕は何か言おうとして、何も言えないでいた。
そんな時――
くすくす、と女の子が笑った。
「お主、石像のような顔をしておるぞ?」
鈴の音のような透き通った声で、そんなことを言われた。
「は? え? ……石像?」
数時間前も同じことを言われたような……。
って、え?
なんというか、思ったよりフレンドリーだ。
張りつめていた空気が弛緩していく。
「ほれ、坊主。もう暗くなっておる。家に帰るのじゃ」
そう言って女の子は息子さんの手を放すと、息子さんはコクリと頷いて自分の家へと歩いて行った。
帰した。家に。
児招き子は、子供を向こう側の世界に連れて行ってしまう恐ろしい怪奇現象だと思っていたけれど、なんだかイメージとは違う。
善性の怪奇現象だとは書いてあったけれど……。
山からここまでもこの子が息子さんを引っ張ってきたようだし、今も家に帰してくれた。
僕が来たから、というわけでもないのだろう。
息子さんを連れて行かなくていいのか?
それに、当たり前のようにコミュニケーションが取れているのが不思議な感じだ。
自我がはっきりしているような。
呆然として女の子を見ていると、彼女は心外そうに眉をひそめて言う。
「お主、何か勘違いをしているようじゃが、儂はお主の思っているようなモノではない」
「……え?」
勘違い?
どういうことだろう?
僕がこの子を児招き子だと思っていることがバレている?
思っているようなモノではないって、児招き子じゃないってことだろうか?
「まあ、心配せずとも好い、ということじゃ」
それだけ言うと、女の子はつむじ風に姿を変えた。
風が収まるとそこには、赤い着物の布切れを首に巻いた、美しい毛並みの狐がいた。
狐は僕の手から赤い巾着袋をくわえ取ると、山の方へ駆けて行き、やがて見えなくなった。
僕は文字通り、狐につままれたようにいつまでも、その場に立ち尽くしていた。
◇
翌日、僕は村の豆腐屋さんで油揚げを買って山道を歩いていた。
どうしてそんなことをしているのか、というと、思い出したからだ。
そう。
この山道には、狐の神様を祀った石の祠があったのだ。
昨日の狐、農家の息子さんを連れてきてくれた女の子は、ここの神様だったのではないだろうか。
寂しそうな農家の息子さんを見て、子供の姿になって遊んでくれたのではないだろうか。
本当のところは分からない。
でも、そんな気がしたから、お供え物を供えに来たのだ。
相変わらず蝉の合唱が聞こえる山道を歩くと、石の祠があるあたりに誰かがいるのが見えた。
子供ではなく、大人だ。
近づいてみると、農家のおじさんが祠を掃除しているようだった。
「おお! あんちゃんじゃねえか。散歩か?」
「いえ……それより、祠の清掃ですか?」
「ああ。この村の守り神様だ。神社も建てられて、東の方にあるんだが、元々この神様を祀ってたのはこっちの小さい祠なんだそうだ。だから、こうして綺麗にしておかなくっちゃな」
こういっては失礼かもしれないけれど、少し意外だった。
あまり信仰心厚い人には見えなかったから。
けれど、そうか。
前に来た時も、綺麗にしてあるとは思っていたけれど、農家のおじさんが掃除していたからだったのだ。
ああ、だから神様は……。
「あの、僕はこれをお供えに来まして」
油揚げを見せると、おじさんはいつものようにニカッと笑った。
「おお、そりゃあ良いことだ。油揚げって、分かってるじゃねえか、あんちゃん」
「ええ。美味しそうだったので、自分の分も買ったぐらいです」
豆腐屋さんで見る油揚げはどうしてあんなに美味しそうなのだろう?
ともあれ、おじさんの掃除も終わったようだから、お供えしておこう。
作法は分からないので、とりあえず油揚げを供えて手を合わせておいた。
「それでは、僕はこれで」
家に戻ろうと踵を返した時。
『わかっておるではないか』
「――え?」
「ん? どうした? あんちゃん」
「今、何か言いましたか?」
「いや?」
おじさんは何も言っていない。
周囲を見回すも、他に誰もいない。
ということは、そうか。
なんだか嬉しくなって、思わず笑みがこぼれた。
「なんだ? いきなりニヤニヤして、気持ちわりい」
「いえ、なんでもありません」
これまでいくつかの怪奇現象に遭って、だんだんと分かってきたつもりになっていた。
けれど、この世にはまだまだ、僕の知らないナニカがたくさんあるみたいだ。
でもそれはきっと、悪いことではないのだろう。
良いことかはわからないけれど。
ただ、分からないものが分からないままに、複雑怪奇に絡まり合って。
この世界ではたまに、不思議なことが起こる。
呂方村では、特に。
そんな村に住んでいることも、また。
きっと、悪いことではないのだろう。
嬉しそうな声ならぬ声を思い返しながら、僕はそう思った。
第四話 もう一人いる 完
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