壁に耳あり、障子に目あり、天井裏には口もある(2)

 図書館を最後に訪れてから、一週間が経った日。

 ピンポーン。

 朝早く、来客があった。

 誰だろうと思いながら玄関へ向かい、扉を開ける。

 そこにいたのは、少し息を切らせて顔を手で仰いでいる、司書さんだった。

「うっかりさん、また出ました!」

 出た? 出たって何が? というほど、僕も鈍くはない。

 最近なりを潜めていた例の怪奇現象が、再びやってきたのだ。

「声が、聞こえたんですね?」

「はい」

 僕は司書さんを家の中に招いた。

 どうやら、今回の怪奇現象はまだ終わっていないらしい。


 司書さんを家に招くのは初めてだ。というか、お客さんを招くこと自体初めてになる。

「へぇ、石造りの、なんだかお洒落な家ですね」

「そうですか?」

 僕も借りている立場だけれど、褒められると悪い気はしない。

 実際、この家には最初に建てた人のこだわりがあちこちに見られて、雰囲気はとてもいい。

「すみません。ちょっと散らかっているかもしれませんが」

「いえいえ、全然綺麗じゃないですか」

 とりあえずリビングに案内して、ソファに座ってもらう。

 コーヒーは僕も司書さんもブラックだ。

 甘い物が好きな司書さんだが、コーヒーはブラックが好き。

 ただし甘い物と一緒にでないと飲まない。

 特に珍しくもないパッケージされたクッキーぐらいしかないが、木の器に盛ればそれなりに見える。

「お待たせしました」

「おお、美味しそうです。ありがとうございます」

 二人分の木のコースター、その上にコーヒーカップを置く。

 お菓子の器はその間だ。

 コの字型に並んだ三つのソファのうち、司書さんの斜めに僕は座った。

 コーヒーを一口飲む。

 数秒の静かな時間をおいてから、口を開いた。

「それで、声が聞こえたんですか?」

 尋ねると、司書さんの表情が神妙なものに切り替わる。

「ええ、そうです。昨晩のことです」

 僕が最後に図書館を訪ねたあの日から一週間、司書さんは天井を見れば耳を澄ませていたらしい。

 天井裏を開けて中を調べたり、図書館の本やネットの情報から怪奇現象について調べたりもしたらしい。

 しかし手がかりはなく、声も聞こえなくなった。

 声が聞こえなくなったのは良いことである反面、解決したという実感を得られず、悶々と悩む日々が続いたそうだ。

 そして昨晩、とうとう天井から声が聞こえた。

「それで、昨晩はどんな話をしていたんですか?」

「えっ?」

「噂話をするんですよね、その声は」

「ああ、はい。そうですね……」

「それで話の内容は……」

 司書さんは思い出すように視線を斜め上に向けた。

 そのまま数秒が過ぎる。

「……すみません。よく、思い出せません」

 司書さんは首を横に振って答えた。

「えっ、あー。そう、ですか。それは、仕方ないですね」

「本当にすみません。でも、前までと変わらない他愛ない村の噂話だったと思います」

 前までと変わらない村の噂話か。

 村の噂話、というところに、ヒントがあるのだろうか。

 けれど、それだけでは何も分からないような気もする。

 どうすればいいのだろうか?

 分からない。

 分からないことだらけだ。

「一体どうして、一週間も空けてまた起こったんでしょうね?」

「確かに……どうしてでしょう?」

 それも分からないことの一つだ。

 その後も二人で考えてはみたのだが、特に手がかりらしきものは得られなかった。

 得体のしれない怪奇現象相手に、『考える』こと自体が、あまり意味のない行為なのかもしれなかった。

 結局、お菓子をつまみながらお茶を楽しんで、司書さんは帰っていった。


 それでも、僕の心は晴れやかだった。

 ここ最近の心の天気は、雨ではなくとも曇りが続いていたような気がする。

 それが晴れたのは、やっぱり司書さんが元気そうだったからかもしれない。

 なんとなく気まずくて図書館には行けなかったけれど、心のどこかで、司書さんのことは気がかりだった。

 けれど今日会った司書さんは元気そうで、本当に良かった。

「久しぶりに司書さんと話せて、楽しかったし……」

 そうだな。

 むしろ本音はそっちかもしれない。

 司書さんに会いに行くのが気まずくなってしばらく会えなかった所に、向こうから訪ねてきてくれて、いつも通りお茶ができたから。

 それが嬉しくて晴れやかな気持ちになっているのかも。

 怪奇現象の相談に来てもらったのに、こんな風に思うのは不謹慎かもしれないけれど。

「まあ、司書さんも楽しそうだったし」

 別にいいか。


 ――――と、思った。

 思った瞬間、何かがおかしいような気がした。


 あれ? ……何か変じゃないか?

『別にいいか』

 これはおかしくない。もっと前だ。

『司書さんも楽しそうだったし』

 これはおかしくない?

 おかしくはないだろう。

 いつものようにお茶をして、楽しかった。

 でも、そう、何か――さっき自分で思っただろう?――そう、『不謹慎』だ。

 不謹慎も何も、司書さんは被害に遭っている張本人なのだから、そんなことを考える必要はない。

 いや、そんなことを考えるまでもない。

 司書さんは被害者だ。

 楽しそうにしているなんて、『不自然』じゃないだろうか?

 一週間と二日前、司書さんが『座敷童』について打ち明けてくれた時、彼女は深刻な顔をしていた。

 彼女は悩んでいた。

 最初は笑顔で取り繕っていたけれど、悩みを打ち明け始めてからは切実に悩んでいた。

 けれど今日は?

 まず初めに、扉を開けて司書さんを迎え入れた時、司書さんは軽く息を切らせていた。

 急いで来たのだろう。

 表情は深刻そうだった?

 いや――明るかった。

 今日話している間、彼女は悩んでいた?

 いや、悩んでいるようには見えなかった。

 それはどういうことだ? どういうことだろう?

 状況は九日前同じ。

 怪奇現象が出た。

 けれど司書さんの様子は正反対だ。

 司書さんは嘘をついていたのだろうか?

 実際のところ、怪奇現象は起きていない?

 何のために嘘をついた? 同情を誘うためだろうか?

 いや、違う。それはない。

 司書さんはそういう嘘を吐くような人じゃない。

 じゃあ、こうだ。

 、司書さんは嬉しそうだった。

 なぜ? 一体なぜ?

 思い返してみれば、おかしいのはそれだけじゃなかった。

 気にしない振りをしていたけれど、あれはどう考えてもおかしい。

『……すみません。よく、思い出せません』

 司書さんは、声が話していた噂話の内容を覚えていないと言った。

 けれど、そんなことはあり得るだろうか?

 司書さんはこの怪奇現象を解明するため、随分と奔走したようだった。

 天井裏を調べ、情報を本に限らずネットでも集めて、その上で、いつ天井から声が聞こえてきてもいいように、耳を澄ませていた。

 そんな人が、聞こえてきた話の内容を忘れたなんてことがあるのだろうか?

 いや、ないだろう。

 司書さんは、ほぼ間違いなく話の内容を覚えている。

 けれど、忘れていると嘘をついた。

 なぜ?

 簡単だ。

 僕はこの一週間図書館を訪ねなかった理由を、司書さんに話さなかった。

 あの世間話の内容を、司書さんに聞かせたくなかったからだ。

 人の噂話なんて、当人には聞かせたくない内容は珍しくない。

 きっと司書さんは、聞こえた話の内容を僕に聞かせたくなかったのだ。

 だから、嘘を吐いた。

 けれど、たとえどんなに言いにくい内容だったとしても、本気で怪奇現象を解決するつもりなら、正直に話したはずだ。

 正直に話さなかった司書さんは。

 司書さんは、この怪奇現象を解決できなくても、かまわないと思っている。

 だったら。

 だったらなぜ、僕を訪ねてきたのだろう?

 朝早く、息が切れるほど急いで僕の家を訪ねたのだろう?

 それはきっと――


 ◇


「あら? うっかりさんじゃないですか。どうしたんですか?」

 急いで来たせいで少し荒くなった息を整える。

「……ふぅ。ちょっと司書さんに、聞きたいことがあって」

 図書館を、図書館にいる司書さんを訪ねた。

 さっきぶりだ。

 司書さんも驚いている。

「聞きたいこと、ですか?」

「はい。怪奇現象の件、解決できるかもしれません」

「え……?」

 司書さんの驚きがさらに大きくなった。

「ほ、本当ですか?」

「ええ。ですが――」

 司書さんの目を真っ直ぐ見る。

「そのためには、司書さんの協力が不可欠です」


 とりあえず司書室に移動したが、すぐに終わる話だ。お茶は断った。

 それにこれから話す内容を考えると、とても和やかにお茶を飲む気分にはなれなかった。

 司書さんも、自分の分をいれずに席に着く。

 少し困惑した様子だった。

「その、私にできることなら、もちろん協力しますけれど、一体どうやって解決するんですか?」

「いつも通り、怪奇現象百科事典を頼ります」

「でもあの本は、分厚すぎて逆引きは出来ないんじゃないですか?」

 そういう話だった。

「確かに、『知らない声が聞こえる』という情報だけではそうでしょう。そんな怪奇現象は、あの本にたくさん載っています」

「ですよね……。それに、怪奇現象の解明については何一つ進展していません」

 そう。一週間前も、そして今日の話し合いでも、何一つ進展はなかった。

 何一つ進展はなかったのに、僕らは何か有意義な時間を過ごしたかのような気分になって、晴れやかな気持ちで別れた。

 なぜなら、僕も司書さんも、怪奇現象を解明しようとしている振りをしながら、実際は本気ではなかったから。

『ひっこしむし』や『小人』の時のような差し迫った危機感がないことも原因だけれど、本気で問題解決に取り組んでいるとは、言い難かった。

「大丈夫です。今ここで、解決の糸口を得ます」

「解決の糸口、ですか……」

 僕の真剣な様子に、司書さんは少し気圧されるように視線を横に動かす。

「司書さん」

 呼びかけて、彼女を真っ直ぐ見た。

「この怪奇現象の一件が、解決されようと、どう終わろうと、悪いことにはなりません」

「えっと……」

 司書さんは何かを言おうとしたが、口をつぐむ。

「大丈夫です。何も悪い方には向かいません。むしろ、良い方に向かうでしょう。この一件が終わったら、きっと今までよりも、毎日が少し楽しくなります」

 たぶん、何を言われているのかよく分からないと思うのだけれど、それとも、分かっているのだろうか、司書さんは僕の目を見ていた。

「だから司書さん、これから僕がする質問に、正直に答えてください」

「分かりました。うっかりさん、何のことかは分かりませんけれど、何でも聞いてください」

 司書さんは真剣に僕の言葉を聞いてくれていた。

 これならきっと、大丈夫だ。

 テーブルの下で拳をぎゅっと握って、内心の緊張を抑える。

「司書さん、昨晩聞こえた声の話を覚えていないというのは、嘘ですね?」

 一瞬目を見開いて、司書さんは答えた。

「はい」

「その内容を、教えてくれませんか?」

「分かりました。隠してしまって、ごめんなさい」

「いえ、いいんですよ。僕だって、隠したと思います」

 司書さんはそれを聞いて小さく笑って、話し始めた。

 話の内容は、以下のようなものだった。


 この村に最近引っ越してきた若い男がいる。

 彼は『うっかりさん』と呼ばれているらしい。

 彼が最近毎日図書館に通っているのだが、その理由は勉強のためではない。

 なんと、図書館の司書をしている女性と楽しくお茶をするためだった。

 彼はきっと、司書のことを恋愛対象として狙っているのだ。

 一方、司書の女性は大人しそうに見えて、実は男を手玉に取るのが上手いらしい。

『うっかりさん』なる男は、実は司書の思う通りに手玉に取られ、惚れてしまったのかもしれない。

 そういえば司書は、以前この村の男に交際を迫られて断ったことがあるらしい。

 男は意気消沈して、しばらく家から出てこなかったとか。

 ひょっとすると今回も、惚れさせるだけ惚れさせて、最後にはこっぴどく振るつもりなのかもしれない。


「まあ、要約すると、こんな感じです」

 司書さんは一息に話しきると、曖昧に微笑んだ。

「そ、そうですか。ありがとうございました」

 僕の知らない内容が付け足されていた。

 ていうか、あのおばさんたちが話していた内容だったのか!

 でもそういうことなら、もう一つ仮説がたつ。

 情報は多い方がいいから、ラッキーだったかもしれない。

 それにしてもこれは……ちょっと想像以上だった。

 司書さんも隠すわけだ。

 そしてもう一つ、今ここで、確認しておかなければならないことがある。

 こちらの方が重要だ。

 答えにくいことなのは重々承知している。

 それでも、必要なことだ。

「司書さん、もう一つの質問です」

「はい」

「昨晩、天井から怪奇現象の声が聞こえた時――」

 こんなことを、聞くべきではない。

 本当なら、曖昧に濁して終わるべきだ。

 それでも、聞かなければならない。

 僕の仮説が正しいかどうか、確かめるために。


「――嬉しかったですか?」


 司書さんは大きく目を見開いた。

 その後、困惑したように目を泳がせる。

「それは――」

 開いた口を、司書さんはつぐんだ。

 居心地が悪そうに、目を伏せる。

 ――沈黙。

「司書さん」

 僕は司書さんに、落ち着くように呼び掛けた。

 そしてこんなことを言ってみた。

「僕の小説の好みを知っていますか?」

「はい?」

 再び困惑した司書さんに、答える。

「僕はですね。ハッピーエンドしか、読めないんですよ」

 きょとんとした司書さんは、何かを思い出したのか、ハッとした。そして次第に表情をやわらげて、クスクス笑った。

「そうですか。ふふっ、ハッピーエンドしか読めないんですね?」

「はい」

「だったら、小説をおすすめする時は、ハッピーエンドのものを選ぶようにします」

「是非、そうしてください」

「それと、さっきの質問の答えですが」

「はい」

「答えは、YES、です」

 司書さんは、少し目を伏せて、そう答えた。

「答えてくれて、ありがとうございました」

 僕は席を立って、司書室の扉に向かった。

 聞きたいことは聞けたのだ。

 情報は足りているはず。

 あとは、怪奇現象百科事典を借りて、家で途方もない逆引きをするだけだ。

 扉を開けて、部屋を出る直前、僕は司書さんに呼びかけた。

「僕もです」

「え?」

「司書さんが来て、また出たと、怪奇現象の再発を伝えられた時、僕も、嬉しかったんですよ。不謹慎ですよね?」

 それだけ言って、振り向かずに司書室を出た。


 ◇


“壁に耳あり、障子に目あり、天井裏には口もある”

 性質:中性

 推定被害:軽度

 概要:古い和式の家で寂しく暮らす人をからかう怪奇現象。心に抱えた寂しさから生まれ出る。その声は、ただからかっているのか、それとも、寂しさを和らげようとしているのか。どちらともとれない。

 詳細:和式の家でのみ起こる。心に寂しさを抱え、話し相手を求める人物が生み出す怪奇現象。家の壁から、家の内外の音を拾って記憶する。家の障子から家の内外で起こったことを観察して記憶する。家の中で寂しさを抱えている人物が一人でいる時に、天井から記憶した内容を声に出す。声色は様々で、幼い子供の声から老人の声まで。どのようにして決まるのかは不明だが、同じ人物には同じ声で聞こえる。


 百科事典を逆引きするのは大変だったけれど、情報がそろっていたおかげでほぼ間違いなく怪奇現象を特定できた。

 もっとも、今回の場合は特定する必要もなかったかもしれない。

 解決方法は、読まなくても想像がつくからだ。

 それでも一応確認の意味合いもあって、探し出したけれど。

 内容は、思った通りだった。

 司書さんはなぜ、昨晩の怪奇現象が嬉しかったのか?

 なぜ朝早く、急いで僕の家を訪ねたのか?

 これは、僕の口からは非常に言いにくいことだ。

 同じ理由で、司書さんに嬉しかったかと質問するのも、言い出しにくかった。

 でもこれは、僕にも言えることだから、司書さん程ではないにしろ、僕にも似たような気持ちはあったから、答えを言うと――

 ――寂しかったから。

 ということになる。


 司書さんは、両親を早いうちに亡くしている。

 その後は、たった一人の親族であるお祖母さんと二人で暮らしてきたそうだ。

 しかし司書さんが26歳の時、つまり一年前、お祖母さんが亡くなった。

 老衰だ。

 お祖母さんは安らかに逝ったらしい。

 残された司書さんは、この村にやってきた。

 そうして、お祖母さんと暮らしていた和風の家と少し似ている、あの家に移り住んだそうだ。

 お屋敷のように広い、あの家に。

 寂しくないわけが、ないだろう。

 あのおしゃべり好きの司書さんが、お祖母さんと暮らした場所と似た、広い家で、たった一人で暮らすのは。

 お祖母さんに話しかけることはできず、お祖母さんの声は、そこにはないのだ。

 それは、寂しかったに違いない。

 司書さんは引っ越してすぐに、司書の仕事を引き継いだらしい。

 前任の人は司書の仕事に疲れていたそうで、簡単に業務内容を説明してさっさと引継ぎをして、来なくなったそうだ。

 広い家に一人でいるよりも、図書館のカウンターで読書をしている方が、気は紛れただろうか?

 それでも誰かと会話が、おしゃべりがしたくて、せっせと司書室をお茶スペースに変えたのだろう。

 そのお茶スペースが僕以外に使用されている所を、僕は見たことがないけれど、僕が来る前、あのスペースは使われていたのだろうか?

 司書さんは言っていた。

『引っ越してくる人がいると聞いて、どうにかこの、いつもひとりぼっちで本を読んでいるだけの毎日を打破しようと!』

 冗談めかして言っていたけれど、寂しかったのは本当だろう。

 そして、僕が来た。

 もちろん、僕にとっても司書さんは他にはいない大切なお茶の相手だったけれど、司書さんにとって僕は、一年ぶりの親しい話し相手だった。

 初めにお茶をしてから、僕は大体一週間に一度くらいのペースで図書館に行った。

 普通に本を借りに行くこともあって、その度にお茶に招かれた。

 けれど、小人の一件以来、野菜を育て始めたこともあって少し忙しくなった僕は、図書館から足が遠のいていた。

 きっと司書さんは、一週間に一度くらいでやってくる僕とのお茶の時間を、楽しみにしてくれていたのだろう。

 だから、それがなくなった時――

 ――寂しさが、再燃した。

 いつもならそろそろ来ると思って待っていても、来ない。

 ひょっとしたら、もう飽きてしまって、図書館には来ないのかもしれない。

 そんなふうに、思わせてしまったかもしれない。

 だから、怪奇現象が起こった。

 心の寂しさから、それは生まれ出た。

 僕がまた図書館に行った時、司書さんはそんな寂しさはおくびにも出さなかったけれど、安心したのだろう、きっと。

 だから、その晩、怪奇現象は起こらなかった。

 その翌日も、翌々日も。

 僕が図書館に行ったから、怪奇現象は起こらなかった。

 声は、聞こえなくなったのだ。

 けれど。

 僕はまた、来なくなった。

 どうして。

 どうして来なくなったのか。

 それは、怪奇現象が落ち着きを見せたからだ。

 だから、司書さんは調べた。

 怪奇現象がまた起こらないかと、耳を澄ませた。

 もう一度起こらないかと、期待した。

 怪奇現象が起これば、また話ができるから。

 でも、来る日も来る日も、怪奇現象は起こらなかった。

 そしてまた、どうしようもなく寂しくなった。

 そのおかげで、再び声がやってきた。

 嬉しかっただろう。

 それは、嬉しかったことだろう。

 寂しいから怪奇現象が起こる。

 怪奇現象が起こることで、僕と話す口実ができるから、寂しさは消えるのだ。

 だから司書さんは、怪奇現象について話すことには積極的でも、怪奇現象を解決することには、積極的ではなかった。

 これが、今回の一件の全容だ。


 僕は、こんな風に中途半端な対応をした司書さんを糾弾したいわけじゃない。

 司書さんの心の内側を暴いて、恥をかかせたいわけでもない。

 なぜなら、僕だって同じなのだ。

 聞きたくもない世間話を耳にして、図書館には行きづらくなったけれど、本当はずっと、司書さんと話がしたかった。

 怪奇現象関連で、数日連続して司書さんと話して、それがとても楽しかったから。

 しばらく司書さんと会わない日が続いて、なんとなく満たされない日々を過ごした。

 だから司書さんが息を切らしてやってきた時、僕は嬉しかった。

 嬉しくないわけがなかった。

 僕は別に、少なくとも今のところは、司書さんに恋愛感情を抱いているわけじゃない。

 司書さんも、きっと僕にそういう感情を抱いているわけではないだろう。

 ただ僕は、僕らは、二人で話すのが楽しかった。

 それだけのこと。

 それだけのことが、大切だった。

 だからこの一件を解決することは、とても簡単なことだ。

 何も難しいことなんてない。

 何も悩む必要なんてない。

 結局は怪奇現象百科事典の内容も、解決にはあまり必要なかった。


 解決法:『壁に耳あり~』は寂しさから生まれ出る怪奇現象である。そのため、寂しさがなくなれば、この怪奇現象は消える。


 僕がやるべきこと。

 それは、ほんの少しだけ素直になること。

 それだけなのだから。


 ◇


「こんにちは」

「あ、うっかりさん。こんにちは」

「ええ、こんにちは」

 昨日は気づくといつもの就寝時間を過ぎていたから、さっさと寝て、翌日の今日、図書館にやってきた。

「司書さん、お茶しませんか? 村のケーキ屋で、抹茶のロールケーキを買ってきました」

「やった! ぜひぜひ。あの……昨日の件は――」

「その件も、これから話しましょう」

 司書室に移動した。

 甘いロールケーキには、コーヒーがよく合うことだろう。

 司書さんが淹れてくれたコーヒーを一口飲む。

 コクと苦みが強く、酸味が弱い僕好みのコーヒーだ。

 コーヒーの余韻が口に残っているうちに、ロールケーキにフォークを入刀する。

 フワフワ系ではなく、どっしり系の少し重たいロールケーキだ。

 ああ、口の中に甘味が広がる。

 同時に、抹茶のしぶみがクリームと絡んで濃厚な幸せが口の中にやってくる。

 そして、コーヒーをもう一杯。

 世界一素敵なサイクルだった。

 さて。

「怪奇現象の正体ですけど、分かりました」

「本当ですか!」

「はい。でもその前に、司書さんに言っておきたいことがあります」

「はあ、なんでしょう?」

「司書さん、今まで、すみませんでした」

 僕は深く頭を下げた。

「えっ、ちょっとうっかりさん! どうしたんですかいきなり?」

 頭を上げて、説明する。

「僕は、今まで都合の良い時だけふらっと図書館を訪れて、司書さんとお茶をしていました。でも、それってちょっと勝手ですよね。なんというか、僕の方だけ、好きな時に行って、行かない時は何も言わずにしばらく行かなくなって」

「いや、いいんですよ! 好きな時に来ていただければ。私が勝手に、うっかりさんとお茶をしたくて毎回誘ってしまっただけで……」

 司書さんは、不安そうに、そして申し訳なさそうに言った。

「いえ、司書さん、僕も楽しかったんです。僕も、司書さんとお茶をするのが楽しみだったんですよ。それを忘れないでください」

「え……でも、だったら。だったら今まで通りでも……」

 司書さんは不安そうに目を伏せて、呟くように声を出す。

 あんまり司書さんを、不安にさせるものでもない。

 だからさっさと、この一件は解決してしまおう。

 安心させるように、僕は今回の一件の解決方法を提案した。

 単に僕が、そうしたいというだけの話だけれど。

「いえ。これからは、もう少し、頻繁に来るようにします。あと、携帯電話の番号を交換しましょう。もっと気軽に、司書さんからも、お茶に誘ってください」

 僕の言葉を聞いて、司書さんは目を丸くした。

 しばらく、そのまま動かない。

 あれ? 返答がない。

 少し不安になって、付け足す。

「という、提案なんですが……どうでしょう?」

 だんだんと司書さんの表情に喜びが広がって、最後に、花咲くように弾けた。

「はいっ!」


 それから抹茶のロールケーキとコーヒーを楽しみながら、他愛ない話や、怪奇現象百科事典を開いていつものように話した。

 それはやっぱりとても幸せな時間で、一週間に一度なんていうのは、もったいないと思った。

 これからはもっと頻繁に来ることになる。

 もうこれで、司書さんが寂しさに苛まれることも、それによって怪奇現象が起こることもなくなるだろう。

 そう。少しだけ素直になって、好きな時にお茶をすればいい。

 たった、それだけのこと。

 それは、今までよりも少し楽しい毎日となることだろう。

 今回の一件、司書さんの内面に、土足で踏み入ることになってしまったけれど。

「気にしないでください。『終わり良ければ総て良し』です」

 司書さんもこう言っているし、これで良かったのだろう。

 本当に丸く収まって良かった。

 僕は、ハッピーエンドしか読めないから。



         第三話 壁に耳あり、障子に目あり、天井裏には口もある 完

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