ひっこしむし(2)
「こんにちはー」
「ん? あら、こんにちは」
「ええ、こんにちは」
図書館に入ってすぐ、右側のカウンターに座っていたのは、眼鏡をかけた若い女性だった。
第一印象からは“知的でクール”という言葉がしっくりくる。
「あなたは、もしかして昨日引っ越してきたという――うっかりさん?」
「あ、はい」
どうやらもう、僕のニックネームは村に浸透してしまっているらしい。
「やはりそうでしたか。はじめまして。私はこの図書館の司書をしています」
そう言って、にこりと笑いかけてくれる。
「あ、はい。ええと、はじめまして。よろしくお願いします」
綺麗な女性だったので、少しドギマギしてしまった。
「引っ越してきたばかりで、よく分からないことも多いでしょう。そうですね、どうでしょう、これから少しお茶を飲みながらお話しませんか? 挨拶がてら、この村のことも紹介できますし。それに、この奥にお茶するにはちょうどいい司書室がありましてね」
司書さんはニコニコと嬉しそうにしながら、そんな提案をしてくれた。
クールな印象とは若干異なる性格なのかもしれなかった。
美人の司書さんのお誘いは普段なら嬉しいものだったけれど、僕はそれどころではなかった。
「すいません、少し調べることがあるので……」
「あっ……そうですか。すみません、いきなり」
しょぼんと分かりやすく落ち込んだ表情をするので、少し悪いことをした気分になってしまう。
「いえ、全然。お誘い自体は嬉しかったですし。えっと、それより、そうだ。司書さんにお尋ねしたいことがあるんですが」
ごまかすために引き合いに出したが、案外正解だったかもしれない。
司書をしている人なら、博識だろう。こいつのことも知っているかもしれない。
そう思って聞いてみたのだが……。
「“ひっこしむし”、ですか? ふむ……いえ、すみません、やっぱり聞いたことがありません」
何かを思い出すようにしばらく視線を斜め上にやり、司書さんはその言葉が確実に記憶にないことを確認してくれただけだった。
そして――
「そうですか。じゃあ、ちょっと調べてみますね」
「お力になれずすみません」
「いえ、たぶん普通は誰も知らないことなんだと思います。図書館の本を当たってみますが、それでもダメで元々と思っているぐらいですから」
「そうですか。――ところでうっかりさん」
「はい?」
「お腹に、ひっこしむしがついていますよ?」
ひっこしむしなど知らない。
そう言ったはずの彼女は、そのわずか数秒後に、その言葉を使った。
彼女はおばさんや農家のおじさんの時と同様、その言葉と、何かをつかみ取る仕草の直後には、もう自分の行動を忘れてしまったかのようだった。
僕は思った。
彼らはきっと、僕を騙しているわけじゃない。
つまりこれは、“ナニカ”なのだ。
僕の知らない、誰も知らない、“ナニカ”が起こっている。
この村で、僕に、隣のおばさんに、農家のおじさんに、司書さんに、ナニカが起こっている。
この怪しげな現象をなんと呼ぶのか。
さしずめこれは、“怪奇現象”という奴だろう。
これまでの人生でこれほどまでに図書館で本を探し回ったのは初めてだった。
なにしろ、何を探せばいいのかすら明確ではない。
検索機能のあるコンピューターなどこの図書館には置いてないけれど、たとえ置いてあったとしてもあまり意味はないだろう。
僕はまず、辞書や広辞苑、百科事典などをあさり、ひたすらにその『は行』を指と目で追う作業を行った。
分厚い辞典は十冊以上に及んだが、そのすべてにおいて、『ひっこしむし』などという言葉は存在しなかった。
次に、僕は引っ越し関係の本を探して、片っ端から流し読みをしてその単語を探した。
しかしやはり、『ひっこしむし』についての記述は見つけることができなかった。
今度は、妖怪などの本や怪談を当たってみた。
しかし、引っ越しをした人物の身体に引っ付くハエのような化け物(しかも基本的に何もしてこない)なんていう奇妙ではあるが怖いのかどうかもよく分からないような化け物は、あまり読者受けしないと見え、そんな物語はどこにも載っていなかった。
いずれも、かすりもしなかった。
最後は、もうデタラメにそれっぽい本を取り出しては開いて流し読みをするという、途方もない作業を行っていた。
昼食も食べずに、その作業は何時間にも及んだ。
当然、というべきだろう。
成果は無かった。
気づけば、外は暗くなっていた。
もうすぐ、図書館も閉館するだろう。
というか、僕がいるから司書さんは閉館しないでいてくれているのかもしれなかった。
これ以上ここにいるわけにはいかない。
明日もう一度ここに来るかどうかは置いておいて、少なくとも今日はもう終わりにしなければならない。
そう思いながらも、諦めきれず視線を本棚で彷徨わせて歩いていた。
「ん?」
その時、妙に目を引く本があった。
大きくて通常の本棚には入らない本がまとめて置かれている場所。
写真集や『○○の歴史』『○○民族の生活』といった本が雑多に置かれている。
そこに、ボロボロで、背表紙に書いてある文字がかすれて読めない本があった。
分厚く、しかし大きさは普通の本棚に入る程度で、置く場所に困ってこの場所につっこまれたような、そんな経緯が想像された。
その本を手に取り、ほこりを払って表紙を見た。
えんじ色のハードカバーに、金字で題名が彫ってある。
『怪奇現象百科事典』。
僕はすぐに本の後ろの方を開いた。
索引のページだ。
そして、その『は行』を指と目で追っていく。
通常の百科事典よりも一回り分厚いその本の索引には、聞いたこともない奇怪な単語ばかりが並んでいた。
は行といっても、その『は』だけで大分長い。
ようやく『ひ』に突入。
僕の指は上から下に。さらに上に戻って下に。
それを繰り返す。
そしてある所で、僕の指はぴたりと止まった。
そこには、確かにこう書いてあった。
『ひっこしむし』
と。
◇
“ひっこしむし”
性質:悪性
推定被害:軽度
概要:引っ越しの挨拶をしない失礼な者に罰を与える怪奇現象。外見は対象者の最も嫌悪する見た目を反映する。その大きさは発現者の感じた負の感情の強さを反映する。なお、ひっこしむしは対象者以外には見えない。
詳細:引っ越してきた者が引っ越しの挨拶をしなかったことで不満を覚えた者から生じる。
その心のもやもやが具現化した形がひっこしむしである。ひっこしむしを生み出す心のもやもやを感じた者を発現者、その原因である引っ越してきた者を対象者とする。引っ越しの挨拶がないことで心がもやもやした時、発現者は無意識のうちに対象者の身体から何かをつかみ取る仕草をしながら「ひっこしむしがついている」と言う。その一連の行動自体がひっこしむしという怪奇現象であり、発現者にその時の記憶は残らない。その翌日以降、対象者は発現者に触られた部分にひっこしむしが見えるようになる。見えるだけで触れることはできない。対象者以外には発現者にも見ることはできない。対象者が発現者にひっこしむしについて尋ねると、ひっこしむしが引っ越しの挨拶が無かった時の心のもやもやを思い出し、対象者に痛みの錯覚を与える。
解決法:ひっこしむしは引っ越しの挨拶がないことを咎める怪奇現象であり、引っ越しの挨拶がなかったことへの心のもやもやから生まれ出たものである。よって、対象者が発現者に対し、改めて引っ越しの挨拶を行うことで、ひっこしむしは消える。
「ああ、また、うっかりしていたなぁ」
どうやらまた、僕はうっかりやらかしてしまったらしい。
図書館で『怪奇現象百科事典』を借りた僕は、司書さんに本を借りる旨を伝え、家に戻ってひっこしむしのページを読んでいた。
『怪奇現象百科事典』には、古めかしい絵と共にひっこしむしについての説明がついていた。
ちなみにその本の絵はグロテスクなナメクジのような見た目で、正直ハエの化け物よりもよほど気持ち悪かった。
その人物が最も嫌悪する見た目を反映する、という説明からして、僕が想像もできないほど気持ち悪い見た目は、反映することすらできないのだろう。
想像力が乏しくて本当に良かった。
それにしても、うっかりしていた。
この村に移住できるということが嬉しくて、これからの未来に思いをはせるのが楽しくて、引っ越しの挨拶、つまり菓子折りを持っていくことをすっかり忘れていた。
普通、隣の家のおばさんとおじさんには、何かしら挨拶の品を持っていくべきだったろう。
それが常識――いや、礼儀というものだ。
彼らは優しかったので、挨拶の品も持ってこない失礼な僕を直接咎めることはなかった。
けれど、やはり心のもやもやは感じていたということだろう。
その結果、ひっこしむしが生じた。
生まれ出た。
彼らが僕を騙している、なんて、彼らがひっこしむしを僕にくっつけた、なんて、見当違いも甚だしい。
ひっこしむしを生み出した原因は、他でもない、僕だったのだ。
◇
翌日。
「おはようございます!」
「あら、おはよう」
「ええ、おはようございます」
「? あんた、この村には慣れてきたかい?」
「ええ、少しずつ。それよりこれ、遅れてしまってすみません。つまらないものですが、引っ越しの挨拶として、受け取ってもらえませんか?」
僕は昨日、大急ぎで村を出て、街で美味しいお菓子を探した。
夜遅かったせいでしまっている店が多かったけれど、サービスエリアなら空いているかと思って行ってみると、美味しそうなお土産のお菓子がたくさん売っていた。
見たことのある有名なお菓子から、知らないものまで。
その中で特別目を引いたのは、こぶし大の大きさを持つ『イチゴ大福の王様』というお菓子だった。
一つ試しに買って食べてみた。
酸味の強いイチゴを上品な甘みを持つ白あんが包み、さらにその上を口当たりやわらかな甘い餅が包み込んでいる。
サラサラの白い粉で表面はべたつかない。
一口噛むと餅の柔らかさが既に美味しい。
さらに餅と白あんの甘味が舌に広がり、その中で酸っぱいイチゴのみずみずしさが弾けた。
「こ、これは……!」
僕は迷わず購入して、村に戻ってきたのだった。
「いやいや、気を遣わなくていいんだけどねえ! え? イチゴ大福? あらやだ! 美
味しそうじゃない! でも、別に無理しなくてよかったのよ? まあでも、ありがたくいただいておくわ」
おばさんは少々念入りに別に必要なかった旨を教えてくれたが、その顔には満面の笑みが浮かんでいた。
おばさんにイチゴ大福を渡し終えた後、気がつくと左腕のひっこしむしは消えていた。
「ん? おお、あんちゃんか」
「はい。すみません。遅れてしまったんですが、引っ越しの挨拶の時に何も渡せなかったので、受け取ってください」
「ん? 菓子か? 別に気にする必要は無かったんだが……おお! イチゴ大福か! 分
かってるじゃねえか! おっと、こりゃあもしかして家族全員の分があるのか?」
「ええ。どうぞご家族で召し上がってください」
「いやあ、なんかわりいな! でもありがたくもらっとくぜ」
農家のおじさんも喜んでくれた。
このイチゴ大福、正直言って、つまらないものではない。
きっとご家族もみんな喜んでくれることだろう。
農家のおじさんと話し終えた後、一度家に帰って姿見を見ると、背中のひっこしむしは消えていた。
「で、最後はこいつか」
最後の一匹。
僕は、今朝からお腹についている、左腕や背中のものより一回り小さなひっこしむしをみやった。
僕は最後の一つのイチゴ大福を持って、図書館へと向かった。
◇
「こんにちは」
「あら、うっかりさん。こんにちは」
「ええ、こんにちは。この前はろくな挨拶もできずにすみません。これ、よかったらどうぞ」
そう言って僕は自信満々に『イチゴ大福の王様』を取り出した。
しかし、司書さんは僕の行動に驚き、少し戸惑っているようだ。
「ええっ? いいんですか、こんなもの。挨拶なんて、私はただの司書ですし……」
どういうことだろう?
隣のおばさんとおじさんは、これで正解だったはずなのだけれど。
よく分からないまま、半ば押し付けるように司書さんに『イチゴ大福の王様』を渡したのだが、お腹のひっこしむしは消えない。
僕は少し焦った。
「あの、ひょっとしてイチゴ大福、お嫌いでしたか?」
「え? いえいえ、そんなことはないです。甘いものは全般的に好きですよ。ただ、こんなものもらってしまっていいのでしょうか……?」
確かに、お隣さんの二人とは違って、司書さんにまで引っ越しの挨拶に菓子折りを持ってくる必要は、その義理は、ないかもしれない。
けれど、ではどうして、ひっこしむしは生じたのだろうか?
「あ! そうです」
僕が戸惑っていると、司書さんは何か思いついたようにポンと手を打った。
「挨拶というのなら、少しお話をしませんか? 美味しいお茶があるんです。このイチゴ大福は、切り分けて二人でいただきましょう」
「え? それは、僕も嬉しいですけど、いいんですか?」
「ええ。是非!」
司書さんは、花咲くように笑った。
「それでですね、その時のお野菜が――」
司書さんはクールな外見に反して、とてもおしゃべり好きな人だった。
年は 27 で僕より一つ上。
両親を早くに亡くして、唯一の肉親だった祖母が亡くなりこの村に来たらしい。
今はこの図書館の近くの家で一人暮らしをしているそうだ。
村のことやお互いのことを話していると、時間はあっという間に過ぎていく。
「うっかりさんって、聞き上手ですか? とてもお話しやすいです」
「いえ、そんなことはないと思いますけど……」
「ふむ、そうですか。確かに、そうかもしれません。ええ……でも、私は、話しやすいと、感じています。ええ、少しだけ、うっかりさんのことが分かった気がします。『流れを汲みて源を知る』というものですね」
「えっと、なんですかそれは?」
「ことわざです。人の行動や何気ない言葉遣いでその人柄が分かるという意味です」
なるほど。
僕も少しだけ、司書さんのことが分かったような気がする。
クールな外見に反して、おしゃべりが好きで、甘いものも好き。
知的な印象はそのままで、博識なようだ。
静かに座っている時はとても落ち着いた雰囲気だけれど、話し始めると内面は明るく、むしろ活気のある人だと分かる。
『流れを汲みて源を知る』か。
そうやって人を知っていくことは、なんだか素敵なことのように思えた。
「素敵な言葉ですね。博識は読書の賜物ですか?」
「ええ。『読書万巻を破る』つもりです」
目をぱちくりとさせて首をかしげると、司書さんは楽しそうにコロコロと笑う。
「今日はとても楽しかったです。また来てくださいね。ことわざの意味は、その時に」
「ええ、僕も楽しかったです。また来ます。ええと、『書物万巻を破る』でしたっけ?」
とうとうお腹を抱えて笑い始めた司書さんは、「絶対にやめてください!」と言っていた。
何か間違っていただろうか?
ことわざの意味は今度聞くことにしよう。
図書館を出た僕は、うっかり忘れていた、ここに来た理由を思い出し、お腹に目を向けた。
『イチゴ大福の王様』を渡しても消えなかったひっこしむしは、いつのまにやら姿を消していた。
なるほど、引っ越しの挨拶にも、人それぞれ、やり方があるようだ。
第一話 ひっこしむし 完
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