不思議なスローライフ

@ofomascoil

第一話 ひっこしむし(1)

「お前は首だ。明日から来なくていい」

 突然、そう言われた。

 最初は何を言われているのかよく分からなかった。言葉の意味は分かったけれど、あまりに唐突すぎて頭の方がついていかなかったのだ。

「え、あの、理由をうかがってもよろしいでしょうか?」

 そう尋ねて答えが返る前に、僕はうろたえて、矢継ぎ早に言葉を続けた。

「もしかして、うっかり重要な書類をゴミと間違えてシュレッダーにかけた件でしょうか? ひょっとしてうっかり○○の発注数を桁一つ間違えた件でしょうか? それとも、うっかり重要な商談の予定時刻を AM と PM を間違えて覚えていて遅刻した件でしょうか?」

『うっかりしている』と昔からよく言われる。

 そのせいで、学校でも職場でも、『うっかりさん』なんてニックネームのように呼ばれていた。

「そのどれもが首にするだけの理由になるだろうな」

 呆れたようなため息。

 それは無理もないと自分でも思うけれど。

 しかし、なぜ今なのだろう?

 先に列挙した目を覆いたくなるような『大うっかり』は、どれも新人の時のもので、最近そのようなミスはしていない。

 それらのミスを理由に首にするには、やはりあまりに唐突な宣告に思えた。

「とにかく、これはもう決まったことだ。話は終わりだ」

 突き放すように話を切られた。

 26 歳。四年間務めた会社を退職し、僕は無職になった。


 ◇


「まあ、そう落ち込むな。良い機会じゃないか。前にも、この仕事は自分には向いていない気がすると言っていただろう? ファイアでもして、気楽なスローライフが送りたいって言っていたじゃないか」

 入社以来よく面倒を見てくれた上司は、ことの深刻さを感じさせない笑顔で僕の肩を叩く。

「それは確かに、言いましたけど」

 今の仕事が、というか、現代日本のほとんどの仕事がそうなのだけれど、どうにもうっかり気質の僕に向いているように思えないとは、前から思っていた。

 たった一回のうっかりが、たくさんの人に多大な迷惑を、時には、人生を台無しにしてしまうほどの迷惑をかけるなんて、あまりにも厳しい世界じゃないだろうか?

 だから、大きな責任を負うことのない、自給自足に近いスローライフのような生活に憧れを抱いていた。

 僕は欲というものがあまりなく、仕事で稼いだお金も、使い道が分からず貯め続けている。

 お金も地位も、名誉もいらないから、静かで気楽な生活が送りたいと、確かにそんな話をした覚えはある。

「けど、何の用意もないんですよ? そんな状態でいきなり放り出されて、さあスローライフだ! というわけにもいきませんよ」

 自嘲気味に大げさな身振りとともに言った僕に、上司はニヤリとどこか胡乱な笑みを浮かべた。

「それが実は、ちょっとお前さんに良い話があってな?」

 上司が始めた話は、耳を疑うほどに都合がよく、僕にとっては、(まるで狙ったように)渡りに船な話だった。


 東北の山間、町はずれに『呂方村』という村がある。

 そこでは 100~200 人くらいの人が住んでいて、自分が食べる分と少しの作物を育てたり、狩猟をしたり、それらを村の人間で分け合うことで、自給自足に近い生活をしているらしい。

 暗くなったら眠り、明るくなったら目覚める生活で、電気はあまり使わない。

 火はガスではなく薪を使う。

 そのためお金を使う機会はあまりなく、たまに村に依頼される仕事をこなすぐらいで、決まった仕事に就かずに生活していけるらしい。

 贅沢な生活を望むことはできないけれど、少ない作物を育てながらゆったりとした生活を送ることができる。

 半分趣味で本屋や電気屋、花屋、ケーキ屋などを開いている人も住んでいるらしく、町からはかなり離れている村だが、村の中だけでも娯楽に困ることもないのだとか。

 僕の理想を体現したかのようなその村に、僕は今、車で向かっている。

 しかし山に入って、同じ車線も対向車線も、他の車をほとんど見かけなくなってからしばらく経つけれど、まだ村は見えてこない。

 街から外れて 3 時間、舗装道路はボロボロに砕け、道かどうかも怪しくなり、ひょっとして上司にからかわれたのだろうかと疑い始めた頃、果たして、その村はあった。

 村の前にはひどく古く分厚い木の板に、かすれた文字の上から太い筆で書き足したように、こうあった。

『呂方村』


 ◇


 村の外に駐車場らしきスペースがあったのでそこで車を停めて、歩いて村に入った。

 村は想像以上に広く、活気があった。

 古めかしい和風の家、洋風の家が立ち並び、なるほど、いくつか店のようなものも見える。

 村の人はフレンドリーで、余所者の僕を見かけると「こんにちは」と笑いかけてくれた。

 とりあえず上司に言われた通り、『集会所』と呼ばれる建物を目指す。

 村の中心にある背の高い建物で、正面に大きな時計がついているらしい集会所は、すぐに見つかった。

 建物に入ってすぐ、受付らしい場所に、60 歳ほどの男性が眠そうに座っていた。

「こんにちは!」

「ん、おお、こんにちは」

「ええ、こんにちは」

 僕の二回目の挨拶に彼は首をかしげた。

 僕は相手がうっかり一度目の挨拶を聞き逃していた時のために、挨拶を二回繰り返す癖がある。

 そのたびに不思議そうな顔をされるのだが、もし一回目を相手が聞き逃していた場合、僕は挨拶を返さない失礼なやつと思われてしまうので、それよりはいいと思って続けている。

「○○に紹介されてきたのですが…」

「…………」

 しばらく沈黙して首をかしげるおじさんに、僕は非常に不安になる。

 本当に上司は話を通してくれたのだろうか?

「……ああ! あんたが『うっかりさん』ね」

 少しして思い出したようにポンと手を打ったおじさんの口から出てきたのは、かつての僕のニックネーム。

 僕はここでもそう呼ばれるのだろうか……?

「話は聞いてるよ。この村に住みたいんだって? ちょうど北の端に空いてる家があったから、そこに住むといい。あ、何なら今から見に行こうか。ああ、それがいい。こっちだ」

 おじさんは受付台の向こうから回ってこちらに来ると、そのまま僕の返事を待たずに建物を出ていく。

 案内してくれるらしい。

 あまりに速い展開に若干戸惑いながら、僕はおじさんの後を追った。

「あら! あんた! もしかしてここに引っ越してくるのかい?」

 家に向かう途中で僕を呼び止めたのは、僕が案内される家の隣に一人で住んでいるというおばさんだった。

「ここは良い村だよ。空気は綺麗で静かで、食べ物は美味しいし、お野菜も自分が食べたいものを食べたい分だけ作ればいいの。ないものは村の人と交換すればいいからね。外の忙しい生活に疲れた人にはぴったり! あらあんた! 疲れた顔をしているわ。え? 山道を運転してきたから? 違うわそう言うことじゃなくて。ほら、心の方が。わたし、そういうのわかるのよ。ふふふ。ああ! そういえば今朝とれたきゅうりが――」

 こちらが黙っていれば日が暮れるまでしゃべり続けるのではないかという勢いの、いかにもおばさんらしいおばさんの話を、なんとか途中で抜け出して、僕はおじさんを追いかけた。

 なんだか、人が親しみやすい村だ。

「はい、ここが空いている家ね」

 そう言っておじさんが見る先には、古めかしい、けれどとても立派な石造りの家があった。

「ちょっと古いけど、掃除すればちゃんと使えるはずだから」

 おじさんについていき、中に入る。

 広いリビングには、薪で火を起こす暖炉を囲むように、数人がけのソファが二つと一人がけのソファが一つ、立派な絨毯が広げられ、ほこりが積もっている。

 キッチンは薪の火を利用できるようになっていて、ご飯を炊く釜もおいてある。

 昔話に出てくるような形の立派な釜で、あれで炊いたご飯はさぞ美味しいことだろう。

 友人を 5 人呼んでちょうどよさそうな広さのダイニング。

 薪で沸かして入るお風呂は足を広げられる広いものと、ツボのようになっている小さいものの二つ。

 寝室には大きめのベッドとクローゼット。

 他にも三つの部屋と屋根裏部屋があった。

 広くて快適そうなとても良い家だ。

 それ故に、僕はずっと気になっていたことをおじさんに尋ねた。

「あの、本当にこれ、タダで使っていいんですか?」

 上司の話では、僕をこの呂方村に紹介してくれ、家もタダで住めるとのことだった。

 しかし、そんなうまい話があり得るのだろうか?

 否定の言葉で馬鹿にされるのではないかと、誰から聞いたんだそんなデタラメをと、今にも言われるのではないかと身構えたが、おじさんはあっさりと肯定した。

「ああ、今は誰も使ってないからね。この村の人は大体そうやって移り住んでくるから」

 おじさんの言葉に僕の不安は吹き飛び、

「ありがとうございます!」

 僕はこの村への移住を決めた。

 帰り道、僕が住むことになる家の、おばさんとは反対側の隣に住む農家のおじさんにあった。

 農家、というのは、他の人よりも大規模に農業をしているので、そう呼ばれているらしい。

「おお、あんちゃん、ここに引っ越してくるのか」

「ええ、よろしくお願いします」

「そりゃあいい! 若いもんが来ると、村も活気づくからな。大歓迎だ」

 農家のおじさんは、家族で移住してきて住んでいるらしい。

「農作業で困ることがあったら、俺に聞いてくれよ。力になるからな」

「ありがとうございます」

 人は優しい。家は大きい。そして、ちょっとしたうっかりミスで大きな問題にもならない(きっと)。

 ここでの生活は、まるで僕の理想通りだ。

 僕はこれからの人生に明るい展望を夢想しながら、帰路についた。


 ◇


 一週間後、諸々の準備を終えた僕は、必要なものを車に積みこんで再び呂方村にやってきた。

 今日は引っ越しだ。

 集会所のおじさんに許可をもらって車で家のそばまで行き、荷物を運び入れる。

 三日前に家の掃除は済ませて、家具もある程度買って配置してある。

 あとは車に積んだものを運び入れればとりあえず住めるようになる。

 僕はうきうきしながら引っ越しを進めていった。

 とりあえず荷物を運び込んだ後、腕が疲れたこともあり、気分転換に街を歩き回ることにした。

 そしてすぐに、隣のおばさんに会う。

「あ、こんにちは」

「あらあら、こんにちは!」

「ええ、こんにちは」

「? あんた、引っ越してきたのねえ!」

「ええ、これからよろしくお願いします!」

「……」

 満面の笑みで挨拶した僕を、おばさんは少し黙って見た。

「えっと、どうかしましたか?」

「ん? いや、なんでもないわよ? それより、今朝採れたトマトがね――」

 手を横に振って話し始めたおばさんに、僕は一瞬感じた違和感をすぐに忘れてしまった。

 おばさんの話をさも興味ありげに相槌を打って、適当なところで話を切った。

「それじゃあ、僕はこれで」

 そう言って、僕が歩き出した時である。

「あらあんた、ひっこしむしがついているわよ」

「え――?」

 おばさんは僕の左腕から何かをつかみとるような仕草をした。

「あの、なんですって?」

 僕が聞き返すと、おばさんはとぼけて答えた。

「何って、何がだい?」

「えっ? 今、ひっつきむし……? がどうとか。腕にひっつきむしがついていましたか?」

「はあ? わたしはそんなこと言ってないわよ。変なこと言うのね」

 ……。

 これはどうしたことだろう?

 つい数秒前の出来事を忘れたはずもないだろう。どうしてとぼけているのだろうか?

 ひっつきむし――いや、なにか少し違ったような……。

 まあ、別にどうでもいいか。

 僕は考えることをそこでやめ、散歩に戻った。

 結局村を全て回り切ることは出来なかった。

 思った以上に広く、北半分を適当に回って戻ってきた。

 図書館なんかもあったのだ。今度行ってみよう。

 そして帰りに、農家をしているお隣の家の前で、おじさんと会った。

「おう、あんちゃん、ようやく引っ越しかい?」

「ええ、そうなんです。役所の手続きとか大変でしたけど、これでとりあえずは落ち着いて暮らし始められます」

「そりゃあよかった。それで――」

 おじさんは一瞬眉根を寄せて僕を見た、ような気がした。

 けれどそう思った次の瞬間には、その顔はさっぱりしたいつもの笑顔に戻っていたので、僕は気のせいだと思った。

「では、家の整理に戻ります」

「おお、また農作業を始める時は声かけな」

「はい。その時は頼らせていただきます」

 笑顔で言って家に向かって歩き出し――

「おっと、あんちゃん、背中にひっこしむしがついてるぞ」

「――え?」

 おじさんは僕の背中から何かをつかみ取る仕草をした。

「……」

 僕はしばらくそのおじさんを黙って見た。

 僕の背中から何かをつかみとったおじさんの手には、何も握られていない。

「? なんだ?」

 おじさんは僕に見られている意味が分からないとばかりに首を傾げた。

「……あの、それ、何なんです? その、ひっこしむしって」

「はあ? ひっこし……なんだって?」

「いや、今言ったじゃないですか。ひっこしむしがついてるとかなんとか」

「いや? 俺は何も言ってないぞ」

 きっぱりと、おじさんは答えた。

 まるで本当に何も言っていないかのように。

 僕の幻聴? そんなはずはない。

 確かに今、おじさんは言った。

 そう、さっき散歩の前、おばさんが言ったのと同じ言葉を。

 間違いなく言った。

 今まで聞いたこともない言葉を。

『ひっこしむしがついている』

 それは、この村独特の風習か何かだろうか。

 言った本人が本気でそのことを覚えていないかのようにとぼける様子が怪し気で、妖し気で、それはどこか不気味だった。


 ◇


 その、翌朝のことである。

「うわっ、うわああああああああああ!!!!」

 快適な広いベッドで目覚めた僕は、その直後に悲鳴を上げることになった。

 いい大人になってみっともないことこのうえないけれど、しかしこれは仕方がないと言えるだろう。

「うわ! なんだこれ! なんだこれ!」

 僕の視線の先、左腕の二の腕部分。

 そこに、そいつはついていた。

 左腕に、しがみついていた。

 大きさは拳二つ分ほど。

 外見は醜悪そのもの。

 特大のハエのような顔と、毛がもさもさした六本の足。

 羽を失ったハエのような生き物、いや、化け物?

 そいつが、この村で初めて迎えた朝、僕が最初に見たものだった。

「うわあ! どっかいけ! どっかいけ!」

 バタバタと腕を動かし、もう片方の手で化け物を払いのけた。

 払いのけようとした。

 しかし、化け物は微動だにしない。

 いや、手ごたえがない?

 気持ち悪い感触が右手に伝わらないことに違和感を覚え、ほんの少し冷静さを取り戻した僕は、そいつが触れられないことに気づいた。

 そう、そのハエの化け物は、僕が触ろうとしても手がすり抜けてしまい、触ることができないのだった。

 そういえば、左腕にしがみつかれている感覚もない。

「……どういうことだろう?」

 とりあえず姿見の前に立ち、服を脱いだ。

 当然のように化け物は服をすり抜け、僕の左腕に直接しがみついている。

 そのまま鏡の前でぐるぐる回って化け物を見やる。

 すると。

「うわっ!」

 もう一匹、背中にも同じ化け物がついているのだった。

 気持ち悪い。

 本当にやめてほしい。僕はハエが大嫌いなのだ。

 僕は背中と左腕にしがみついているハエの化け物を見て深いため息を吐いた。

 ――ん?

 その時、何かがひっかかった。

「……左腕と、背中?」

 その部位には、少し心当たりがあった。

 そして、一度思いついてしまえばそうとしか思えない。

 このハエのような外見からしても、きっとこれは間違いないのだろう。

 こいつは。

 この化け物の名前は――

「……ひっこしむし」

 僕の口から、昨日初めて聞いた、その奇妙な言葉がこぼれ出た。


 ◇


「あ! あの、すいません!」

「ん? ああ、なんだいあんたかい。そんなにあわててどうしたんだい?」

 僕はこの気味の悪い化け物を僕につけたと思われる、隣のおばさんの所に行った。

「どうしたじゃないですよ! この左腕見てください!」

 僕は気持ち悪いひっこしむしをおばさんに見せつけた。

 しかし。

「うん? 左腕がどうかしたのかい?」

 おばさんはまるでとぼけた様子である。

「ひっこしむしですよ! ひっこしむし! 一体ひっこしむしって何なんで――痛っ!」

 その時、突然左腕に痛みを感じた。

 弾かれたようにそちらを見ると、ひっこしむしが僕の左腕に噛みついている。

「うわっ!」

 しかしすぐに放した。

 噛みつかれた?

 こっちからは触れないのに、向こうからは触れるのか。

 ひっこしむしが何なのかは分からないけれど、とにかくこんなものは早く取ってもらわないと困る。

 僕はおばさんに詰め寄った。

「これ、取ってください!」

 しかしおばさんは首をかしげるばかりだ。

「え? 取ってって……。取ってって何をだい?」

「だから、左腕に変な虫がついているのが見えるでしょう!? これを取ってほしいって――」

 僕は必死で、左腕のひっこしむしを右手で指さした。しかし。

「――いや、ちょっとあんた」

 おばさんは、心底戸惑ったように僕を見て、こう言った。

「さっきから何を言ってるのかよく分からないけど、あんたの左腕には、何もついていないよ」

「――――え?」

 最初は、おばさんがとぼけているのだと思った。

 いや、今でも思っている。

 けれど、もしかしたら、本当に見えていないんじゃないかとも思い始めた。

 あの後、おばさんは「変なものでも食べたんじゃないかい?」と言って呆れたように家に戻ってしまった。

 だから村にいる他の人にも聞いてみた。

 しかし、誰一人として、僕の左腕に何かがついているのは見えないらしかった。

 ひょっとしたら、村の皆が口裏を合わせて、僕を騙しているのかもしれないと、そんなことを思った。

 これは村の風習で、引っ越してきた者に対してこうすることが習わしなのではないかと。

 しかしそれだけでは、触ることができない化け物という、非現実的な存在にまでは、説明がつかないのだった。

 この村がおかしいのか。

 それとも、僕がおかしくなってしまったのか。

 僕にはそれすらも、判断がつかなかった。


「あの、すいません」

「おう、あんちゃんか! どうした? もう農作業を始めるのか?」

 引っ越してきたばかりの僕を相手にとても気さくに話してくれる、この隣の農家のおじさんは、とても良い人に見える。

 この人が僕を騙しているなんて、あり得るのだろうか?

 けれど、状況からして“ひっこしむし”を僕につけた人の一人は、このおじさんなのだった。

「いえ、農作業じゃないんですけど、少し聞きたいことがあって」

「ん? まあ、俺に分かることなら、なんでも聞くぞ」

「はい、それじゃ、ひっこしむしって、知って――痛ッ!」

 まただ。

 今度は、背中のひっこしむしが僕の背中に噛みついたらしい。

 痛い。

 でもそれ以上に、怖い。気味が悪い。

「ひっこしむし? なんか昨日もそんなこと言ってたが、聞いたことねえなあ」

「……そうですか。分かりました。すいません、変なこと聞いて」

「いや、こっちこそ力に慣れなくてすまねえな」

「いえ、かまいません。それでは」

 半ば予想していた答えではあったけれど、やっぱり答えは芳しくなかった。

 本当に知らないのか。

 本当は知っているのか。

 それすらも、分からない。

 僕にひっこしむしを付けたと思われる二人からは、どうも良い話を聞けそうもない。

 それどころか、タイミングからして、彼らにひっこしむしのことを聞くと、ひっこしむしが僕に噛みつくのではないだろうか?

 試しにもう一度尋ねてみる気にはならないけれど、たぶんそうだと思う。

 彼らから話は聞けない。

 かと言って、他の人に聞いても、やはり誰もひっこしむしなんて聞いたこともないようだった。

 八方塞がり。

 今のところ、二人にひっこしむしのことを尋ねた時以外で、ひっこしむしが何かをしたことはない。

 けれど、僕はこのひっこしむしの見た目がそれはもう嫌いなのだ。

 こんなのがずっと腕と背中についているなんて、ちょっと耐えられない。

 なんとかしてとりたい。

 でも、方法が分からない。

「どうしようか。……本当に、どうしようか」

 とても素敵な、村に来た。

 立派な家を、借りることができた。

 隣人は、優しかった。

 素晴らしい毎日が、始まるのだと思った。

 けれど今、僕の心は、不安でいっぱいだった。

 この村に来たのは、ひょっとして失敗だったのだろうか?

 僕は来てはいけなかったのだろうか?

 村に拒絶されているのだろうか?

 変なことを考えている。

 村に拒絶されたから化け物に憑かれるなんて、本当に、変な話。

 大体、村の人は僕のことを、受け入れてくれていたじゃないか。

 昨日の散歩を思い返してみた。

 誰一人として、僕が来たことを嫌がるようなそぶりはなかった。

 村全員で僕を騙しているなんて、きっと考えすぎだ。

 一通り村の散歩の様子を思い返して、もう一つだけ、望みがあるのを思い出した。

「そうだ、確かこの村には――」

 そこは、石造りの大きな建物で、小さな村にあるとは思えない程立派な造りだった。

 気になって、暇なときに訪れてみようと思っていた。

「――図書館があった」


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