第33話 記念日

 マルスの姿を見た瞬間、フィルレインの心は跳ねた。乾ききった心に、潤いが満ちてゆく。この世界に来た直後のフィルレインなら間違いなく飛びついて抱きついていただろう。


 だが今のフィルレインは極度の人間不信に陥っていた。だから、マルスのことも素直に信用する事ができなかった。


 けど、フィルレインはマルスを信用したかった。マルスだけは信用したかった。そうでなければ、もう人間という種自体を永遠に信用できなくなりそうだったからだ。


 だから、フィルレインはマルスを試すことにした。


「ねぇ。マルスたま。私とエッチなことしよ」


 マルスの顔が強張る。フィルレインはその表情の変化を失望を抱きながら眺めた。


(あぁ、やっぱりマルスたまも私とエッチなことしたいんだ。穢らわしい目で私を見て、穢らわしい心を私に向けて、穢らわしい手で私に触れて、私を穢したいんだ――やっぱりマルスたまも所詮穢らわしい人間男なんだ)


 マルスがフィルレインに接近する。フィルレイ前で立ち止まる。地面にうずくまるフィルレインに合わせて己も地面に片膝立ちになり、そしてフィルレインに手を伸ばす。


(私にいやらしい手付きで触れた瞬間マルスたまを殺すの。そして私も死ぬの。神界に戻ったらこの世界を永遠にぐっちゃぐっちゃの血みどろにしてやるの。終わらない戦争に人々を放り込んで永遠に苦しませてやるの。そして私はその様を外から見て楽しむの。こんな穢れた生物が住む世界にはそんな地獄のような有り様が相応しいの。苦しんで苦しんで苦しませてやるの。私を苦しませた罰に永遠の地獄を与えてやるの。そして私を惑わせたマルスたまは特に苦しませてやるの。永遠に魂を削られる痛みを味わわせてやるの。……だって全部、マルスたまのせいなんだもの)


 諦めきった心は既にマルスがフィルレインを陵辱することを決定事項として思考を回す。マルスがフィルレインに頬に手を伸ばす。キスでもしたいのかな? と思って一瞬だけフィルレインの心はときめいた。そしてすぐそんな浅ましい期待を抱いた自分への嫌悪感に心が萎んだ。もうどうでもいい。自分に触れた瞬間マルスを殺そう。


 そう考えたフィルレインの頰をマルスの平手が打ち据えた。パシッと軽い音がなって、フィルレインは目を見開いた。触れたら殺そうなんて思考も忘れて、ただただ驚きマルスを見返す。マルスは厳しい目つきでフィルレインを見ている。その目に邪な感情は一切ない。マルスが口を開いた。


「二度と俺の前でそんなことを言うな。誰に言わされたか知らないが君がそんなことをする必要はない。もし誰かに言わされたのなら――俺がそいつをぶち殺してお前を自由にしてやるよ」


 フィルレインの胸がとくんと脈打つ。何て厳しくて、何て、優しい言葉。それに、叩いてまで己の過ちを正されるなんて経験、親たる大神の元で育てられていた赤子時代以来の経験だ。大神以来の誰も、そこまでしてフィルレインを叱ってくれる存在はいなかった。そう神界にさえも。


 けどマルスたまはぶってまでフィルレインを叱ってくれた。本気で、フィルレインを叱ってくれた。


 フィルレインの心臓がバクバクと脈打つ。大好きだった人が、本気でフィルレインを叱ってくれた。本気でフィルレインのことを思いやってくれた。気付けば先程までの辛い気持ちは霧消していた。そして、この世界に来る前の何倍ものマルスへの愛しさが胸に溢れていた。


(まるで、お父さまみたい。いや、お父さまより格好いいから――マルスたまがフィルレインの本当のお父さん)


「お父さまって、呼んでいい? お父さまとずっと一緒にいたいの」


 気付いたらそう口に出していた。マルスたまは何故か目元を拭って、それからフィルレインの手を強く握って頷いた。


「っ! ああ、好きなように呼べ。今日から俺がお前のお父さんだ。必ずお前を幸せにしてやる。お前を縛った醜悪な輩から俺がお前を永遠に守ってやる」


 そして、私の心の全てを見透かしたかのように、まさに今私が求めていた言葉をかけてくれた。


 ――私は、その日、本当の意味で恋に落ちた。

 一人の神から、ただの恋する乙女へと、堕とされた。

 それは、とても幸せな堕落だった。

 その日は、永遠に忘れ得ぬ、私が私の生涯の伴侶と出会った記念日。


 ――マルスたまと私が出会った、記念日……。


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