第32話 失楽


 人間界。

 グリモワール王国西区。

 マルスが住む街に無事転生した神――フィルレインは愚痴りに愚痴っていた。


「ポイントが足りなくて思ったようなキャラクリ出来なかったの。結局容姿はそのままだしマルスたま以外に見えなくなるスキルなんてそもそも存在しなかったの。まぁいいの。多分なんとかなるの。うぅ、ただ人間の体は重たくて不快なの。想像してた数十倍低性能なの。こんなボディでよく人間は毎日生きていられるの。劣悪なの。頭が働かないの。体も思ったようにか動かないの。既につらいの。帰りたいの」


 神の体から人間の体に転生したギャップは思った以上に大きかった。鉛が体中に詰まっているかのような不快感に既にフィルレインは人間に転生したことを後悔し始めていた。


「……でも、マルスたまに会うまでは我慢するの。今のフィルレインはマルスたまと同じ人間なの。マルスたまと同じ世界に生きて同じ感覚を味わっているの。……なんだかワクワクしてきたの。早くマルスたまに会うの」


 フィルレインは人間界を歩く。人間に転生したことによりいくらか衰えたとはいえ相変わらず美しい容姿のままで。グリモワール王国で最も治安の悪い西区を。


 それがどういう結果を引き起こすのかフィルレインには全く想像出来なかった。あまりにも想像力と人の悪意に対する理解が今のフィルレインには欠けていた。


「――人気がなくなった。今だ。あの綺麗な嬢ちゃんをさらえ!」


「ん?」


 気付けばフィルレインは成人男性4人に取り囲まれていた。男たちの口元には一様に下卑た笑み。その表情がどのような感情に起因するものかフィルレインはよく知っている。そして、その笑みを向けられたものがどのような感情を抱くのか。それもフィルレインはよく知っている。だが、経験したことはなかった。ただ、世界を観測して知っていただけ。悲劇を眺めて楽しんでいただけ。それが、どんなに不快で、気持ち悪くて、残酷な感情なのか――本当の意味でフィルレインは知らなかった。


「ひっ! い、いや! なんなの! どうしてフィルレインにそんな感情を向けるの! や、やめるの! 不敬なの! る、ルート――あ、い、今はいなかったの。ど、どうしようなの……」


「おいおい不敬だとよ。こいつやっぱり貴族のガキだぜ」


「ルートってのは従者の名前かぁ? 駄目じゃないか嬢ちゃん。ちゃんとお付きの従者の側にいなきゃ。でないと――俺達みたいな悪い大人に捕まっちまう」


「は、はぁ、はぁ。はぁーっ! こ、こんな美しい子見たことないんだな! ま、間近で見ると更にプリティーなんだな。お! 犯す! 売らずにおらたちだけで毎日犯して楽しむんだなあああああ!」


「おい。あんま大声あげんな。だが――ゴクリ。確かにこいつは、売るなんて勿体ねぇ。当初は商品にするつもりだったが、駄目だこりゃ。他人の手に渡るなんて到底我慢できそうにない。こいつが他の男に抱かれるなんて考えただけで嫉妬で狂い死にしちまうや。ブッチャーの言う通り巣に持ち帰って俺たちだけで楽しむとしよう。死なないように徹底管理して出来るだけ長くな」


「へへ、リーダーが感情優先するなんて珍しい。けど、大賛成だ。薬で快楽漬けにしてやるぜ」


「妊娠するまで種漬けしてやるよぉ……」


「お、犯す! とにかく犯すんだな! その目も! 鼻も! 耳も! 口も! 乳首も! 穴という穴を犯すんだな!」


「落ち着けタコが。んなことしたら死ぬだろうが。そしたら一回きりしか遊べねぇぞ」


「あ、そ、そっかぁ。じゃあ、マンコだけで我慢するんだな」


「この体躯でお前の極太に貫かれたらそれだけで死にそうだけどな。まぁ、細かい調教は後々考えるとするか――さて、嬢ちゃん」


 4人の中でリーダー格のずる賢そうな顔をした男が色欲を押し殺した笑みでこちらを見る。「ひっ!」という悲鳴とともに、一筋の涙がフィルレインの星を嵌め込んだような金色の瞳から零れ落ちた。


「いい反応するねぇ……これから嬢ちゃんはおじちゃんたちの家で毎日楽しいことをして遊ぶんだ。大丈夫。怖くないよ。すぐに嬢ちゃんも毎日笑顔を浮かべるようになる。おじちゃんの家に遊びに来た女の子は最期はみんな笑顔になるからね。何も心配することはないよ」


「う、嘘なの。フィルレインにいやらしいことするつもりなの! その薄汚い目でフィルレインを見るななのぉ!」


「無理だよ。嬢ちゃんが可愛すぎるのが悪いんだよ。おいナランチャ。気絶させろ。ブギー、サイレントボックス開いとけ」


「おう!」


「ひひ。任せとけ」


 ナランチャと呼ばれた男がフィルレインに近づき、ブギーと呼ばれた男が背に担いだ長方形の黒い箱を地におろす。ナランチャの手がフィルレインの首元に伸びる。フィルレインは叫んだ。


「い、いや! 気持ち悪いのおおおおおおおおおお! 死ね! 死ね! お前らみたいな穢らわしい存在は全員死ねなのおおおおおおおおおおおおお!」


「はっ、ガキが癇癪を――おぶっ」


「ご、ごはっ」


「ブギッ!」


「お、おぼぼ、おらのフィルレイン、たんが、ぼやけ――ぶちゃ!」


 フィルレインの体から人の領域を超越した膨大な魔力が溢れ、言霊に乗って男たちを襲った。死ねという言葉を実行すべく魔力が現象となって男たちに作用する。結果、男たちは何が何やら分からぬまま次々に血を吐いて死んだ。


 フィルレインを襲おうとした男たちは死んだ。だが、フィルレインの激情は収まらない。混乱した頭で、取り乱した心で、ふらふらとフィルレインは歩く。その弱々しい姿と可憐な容姿に魅了された新たな下衆がフィルレインに声をかけるまでにそう時間はかからなかった。


 その日西区には夥しい数の男の死体が生まれた。その原因となった少女の噂は否応なしに西区に広がる。


 曰く、神のように美しい、だが残虐な、人の死を自在に操る少女の姿を借りた悪魔が西区にいる。その少女の姿を借りた悪魔に出会ったが最期、命を弄ばれて殺されるのみ。

 その噂を聞いたものの悪魔との応対時の反応は大きく2つに分かれた。1つは出会ってすぐ逃げる。

 もう一つは――殺される覚悟で悪魔を襲う。

 もちろんそれは、悪魔と呼ばれる少女がもっとも忌み嫌う下衆な感情に基づく襲撃だった。




 なんでこんなことになったんだろうとフィルレインは思う。

 何もしていないのに、ただ普通に歩いていただけなのに、口にするのもおぞましい穢れた感情を向けられ、その感情を向けるものから身を守っていたら悪魔と呼ばれるようになり、気付いたらフィルレインを襲う人間はさらに増えていた。勿論襲ってきた人間は全員殺す。


「ぐす。うぇえええん。あぁあぁぁぁ……」


 フィルレインはつらかった。心が痛くて苦しくて死にそうだった。人間なんかに転生しなければ良かったと本気で思った。ずっと、遊戯盤の外から観測者として世界を眺めていればよかった。そしたらこんな苦しい気持ち味わわずに住んだのに。


 フィルレインはもうこの世界に来る前の自分に2度と戻れる気がしなかった。この世界に来て味わった恐怖はそれほどフィルレインの心を蝕んでいた。この恐怖と苦しみを永遠に忘れられる気がしない。忘れたくて、なかったことにしたくて仕方ないのに、それが出来ない。何故なら今のフィルレインは人間だから。人間状態の脆弱な肉体と精神に遠慮なくこれでもかと悪意を叩きつけられたから。


 今のフィルレインは発狂寸前だった。


 ザッ、ザッ、と足音が近づいてくる。路地裏の人気のない所に隠れているのに足音は真っ直ぐこちらを目指して歩いてくる。またか、とフィルレインは思った。どうせこの足音の主もフィルレインを襲いに来たに違いない。いやらしい目で、下卑た心で、フィルレインを陵辱しにきたのだ。フィルレインは輝きの失せた金色の瞳を足音のする方へと向けた。また人を殺さなきゃいけない、苦しんで死ぬさまを見届けなきゃいけないという重責に心を苛まれながら。


「――え?」


「――弱々しい人の気配がするかと思ったら、やっぱり人がいたか――大丈夫か? 俺の名はマルス。一応、勇者をやっている。怪しいものじゃない」


 フィルレインが顔を上げた先、そこには会いたくて会いたくて仕方なかった人間。この世界に転生した目的――マルス・ラグナが立っていた。

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