すべてはつながっている


そう迷わずに未来の入院している病院へたどり着けた。とても大きな、きれいな病院だった。

ホテルのような美しいエントランスの前には、行き交う人々とは別の雰囲気を醸し出す、老婆と見紛うほどやつれきった女性が、一人立っていた。

下を向いて、不安げな様子が傍目からもわかる。この人が西野さん…未来の母親だと確信した。

隣に立つ藤代にそのことを告げると、迷いなく女性に近づいていき、顔を上げた女性と2、3言葉を交わしていた。

やがて手招きされて近づき、女性に会釈する。女性も会釈を返し、改めて互いの顔を確認する。

女性は私に穴を開けるつもりなのではないかというほど、強い意思のこもった瞳で見つめてきた。

戸惑って後ずさりかけた時、背中をポンと藤代の手が叩いた。ハッとして藤代を振り仰ぐと、ショートメッセージの履歴を、と言われた。

やりとりをした証拠を示すためだ、とわかり、慌ててバッグに手を突っ込む。スマホを取り出し、震える手でメッセージの履歴をたどり、女性とのやりとりを見つけた。

女性にそれを示すと、女性は口元に両手を当てて震えだし、その場に泣き崩れてしまった。

どうしたらいいかわからず、わたわたとジェスチャーもどきを繰り出していると、藤代が自然な動作で女性を支え起こした。

バッグからティッシュを出すと、女性に差し出している。女性は何度も頭を下げると、受け取ったティッシュを取り出し、目元を拭っていた。

私はその光景をただ眺めていただけだったが、目を真っ赤にした女性がこちらに振り返り、再び私を見つめてきた。

緊張で言葉が発せずにいると、女性は涙声で一言「ありがとう」と言った。

私はまだ何もしていないので、その言葉をうまく受け取ることができず、変な顔をしてしまったと思う。すると女性は語り始めた。


「…あの日、あなたが未来に連絡をくれた。それが私を、大いに救ったんです」

「救った…?」

「はい。あなたとのやり取りで、図らずも私は、自分の中にため込んでいた不安を吐き出すことができました。

それだけで、本当に、本当に…、救われた気がしたんです」

「そんな、私はまだ何も…」


背中にそっと何かが添えられる感触。いつの間にか隣に来ていた藤代が、私の言葉を遮るように背中に手を当てていた。

彼を見ると、小さく頷かれた。女性の言葉を受け入れろ、と言われた気がした。


女性は涙を拭き終わると、私たちに改めて大きくお辞儀をし、名前を名乗った。

私たちもそれに倣い、お辞儀をしてから互いに名前を名乗る。

女性はそれを聞いて頷くと、現状の再説明を始めた。

端的な短い説明のあと、「こちらです」と促され、私たちは病院内へ足を踏み入れた。




未来の病室へ続く道を、3人でゆっくり歩くさなか、未来の母親は静かな、でも意思のある通る声で私たちに語り掛けた。


「あなた方が到着する前に、娘には全て話しました。

暴れるかもしれないと思いましたが、娘は無言で、何も話してくれませんでした。

…あの子が何を考えているか、恥ずかしながら、私には何もわかりません…。

もしかしたら、娘はあなた方にとても失礼なことを言ってしまうかもしれません…。

つらい思いをさせるかもしれません…。

ごめんなさい、それでも私は…、それがどんなに小さな望みでも、私は…」


言葉に詰まった未来の母親は、それから無言で歩き続けた。

私たちも何も言わず、後をついて行く。

これまで苦しんだであろう、未来の母親の小さな背中を見つめながら、私は自分の母親のことを思い出していた。

今日のことに反対せず送り出してくれた母も、いろんな葛藤を抱え、苦しんでいるかもしれない。

それでも、ただ子供のために。自分にできることがしたい。

きっとそれは、今まで私が感じることもせずに当然のように受け取ってきた、大きな愛があるからなのだろう。

未来の母親も、どんな形であれ、愛しているのだ。娘を。

何とかこの親子の力になりたい、そう思った時、病院の廊下の雰囲気が変わった。

照明は同じ、明るい廊下なのだが、人がいない。そして人がいないのに、大きな気配を感じる。

この、寒気を感じるような気配の正体はいったい…


考えるより先に、私は藤代の服の袖口を掴んでいた。恐怖が体を支配していた。

藤代は、服を掴んでいた私の指をそっと外すと、そのまま手を繋いできた。

繋いだことで伝わるぬくもり。生きた人間の体温。それを感じたからこそ気づいてしまった。

ここに満ちている気配。それは生きていない気配----死に近いもの、なのではないかと。

意識した途端に怖くなり、藤代の手を強く握りしめてしまう。

藤代は決して手を放さず、ただ険しい顔つきで前だけを見つめて、歩みを進めていた。




一つの病室の前で、未来の母親が立ち止まる。

彼女はドアを軽くノックすると、中にいる人物に声をかけた。だが声が返ってくることはない。

数秒待ってから、彼女がドアをゆっくりスライドさせた。一歩室内に踏み込んでから、顔だけ私たちに振り返り、「どうぞ」と声をかけてきた。

繋いでいた手を解き、促されるまま病室に入った私たちは、ベッドの上に上半身だけ起こした人物と、距離を取った場所で立ち止まる。

未来の母親が歩み寄り、ベッドの上の人物----未来に何か語り掛けた。未来からは何の反応もない。

長い髪で顔を隠すように伏せ、だらりと両手をベッドの上に投げ出していた未来には、シエスタの面影は微塵も感じられない。

ぼさぼさの長い黒髪は、艶が全くなく、先のほうだけがかろうじて染められていた形跡があった。

顔は髪に、体はふわふわのパジャマに覆われ、痩せているのかどうかもわからなかった。

唯一見える素肌、手のひらを上にして投げ出されている手首に、自然と注目してしまう。袖口から管が一本出ていて、それが点滴であることはすぐにわかったが、ギョッとしたのはそこではなかった。

まだ若いはずの未来の手首は、老婆のようなやせ細り方をしていて、色も肌色というよりは、白というか黄色というか、そんな色をしているように見えた。

それに、じっくり見て気づいたのだが、手首から肘にかけて、袖で見えなくなるところまでしか確認はできないが、何か皮膚に不自然な盛り上がりがある。

盛り上がりといってもほんの少しで、それが規則正しくびっしりついていた。それが何なのかわからず、よく見ようと目を凝らした時だった。

バッと未来が動いた。私の見ていた左手首を隠すように、右手で左の袖を思いきり引っ張った。


「非常識!!!!!!!!!!」


未来が初めて声を上げた。掠れ切った金切り声が私たちを責め立てる。


「非常識よ!!!

人のリアル情報を勝手にやり取りするのが非常識!!!!

オンラインでしか会ったことのない人間に、私の承諾もなしにリアルで会いに来るなんて非常識!!!!

私の母親とのやり取りだけで来ることを決めたのも非常識!!!!

そもそも娘のスマホを勝手に使う母親も非常識だし、それで誰かと連絡とって呼び寄せるなんてありえない!!!!

ここにいる全員何考えてるの?!非常識よ、全員非常識!!!!

帰って!!!今すぐ帰れっ…!!!!」


そこまで一気にしゃべると、未来は大きく咳き込み、えづいた。慌てて背をさすろうとした母親を手を振り回して退ける。

ひとしきり咳き込むと、ぜいぜいと息をしながら、下半身を覆っていたシーツごと膝を引き寄せ、抱え込むようにして背を丸めた。


「…何しに来たの?

私がいなくなったからって、普通会いに来ないでしょ…?

こんなみじめな姿見られて、私が喜ぶとでも思ったの…?

完璧なシエスタじゃなくてがっかりした…?本体はみじめな小娘でがっかりした…?

もう十分でしょ…。何も言わずに帰ってよ…。私はあなたたちに会いたくなんか、なかった…」


涙声でそう言い終わると、未来は抱え込んだ膝に顔を埋めて動かなくなった。

未来の母親は、口元を両手で覆い、青ざめている。目の端に涙を溜めてはいたが、じっと娘を見つめて目を離さなかった。

私にはもう、どうしたらいいのか何もわからなかった。

未来を思って、連絡を取ってしまったことを後悔していた。

未来を思う母親と、連絡を取り合ってしまったことを後悔していた。

未来に相談することなく、会いに行くことを勝手に決めたことを後悔していた。

自分の行動のすべてを後悔し、反省していた。許してもらえるはずもないほど、大きな傷を未来に与えてしまったことを、実感していた。

会えたら…会えたらきっと、何かが変わる、何かを変えられるような気でいた。

これは自分に与えられた使命だと、完遂できる使命だと、思い違いをしていた。

未来に会うことが、自分の望む先のビジョンに繋がると、勝手に思い込んでいた。


みんなでまた仲良く、ゲームがしたかった。


たったそれだけだったのに。どうしてこんなにも、こんなにもみんなの人生が、ねじれ曲がってしまったのだろう。

絶望に飲まれかけて冷え切った私の背中に、あたたかくてしっかりした重みのあるものが触れた。

横にいた彼と目が合った。彼は何物にも飲まれない静かな瞳で、私を見降ろしていた。

彼は自分のバッグから、きれいにラッピングされた包みを二つ取り出すと、二つとも私の手の中に押し付けてきた。

どうしていいかわからず、受け取ったものと彼の顔の間で視線を行ったり来たりさせていると、彼が小さく頷くのが見えた。


迷ったら、背を押してほしい----


電車の中で言った自分の言葉がよみがえり、それが一気に感覚を現実まで引き上げた。耳に病院の雑音が戻ってくる。

そうだ。ここで迷っただけだったら、何の意味もない。

飲まれるだけだったら、来た意味がない。

私は目に力を込めて藤代を見つめ返し、小さく頷き返して見せた。手の中のものをしっかり握りなおす。それが合図だった。


そのまま力強く、ベッドの足元の方へ背を押された。押されるままに歩みを進め、中ほどで止まる。あとの距離は、自分の意志で一歩ずつ、歩み始めた。

ベッドの足元には、食事を取るときにテーブルとして使える移動式の板が備え付けられている。

私はその前で止まり、板の上に包みを二つ、丁寧に置いた。

膝を抱える未来の方へ向き直り、言葉を発しようと息を吸い込んだ。だが途中で言葉を失う。

膝を抱えてうずくまる未来の左腕が、さっきよりはっきり見えたからだ。

でこぼこと不自然に、規則正しく盛り上がる跡。手首から服に隠れるところまでびっしりとついたそれは。

傷跡だ。

切って治った傷跡が、盛り上がっていたのだ。それが規則正しくびっしりと----自然についた傷ではないだろう。

自分で切ったのだ。それに気づいたとき、私の喉は声を発することができなくなった。

喉が渇いて張り付く感覚。唾もうまく飲み込めない。私は未来から視線を逸らし、下を向いた。滴が自然に零れ落ちていった。




「…あの日のあなたの心遣いへのお返しを、お受け取りください」


凛とした静かな声が病室に響く。藤代の声だった。

低い、穏やかで柔らかい声に、流れていた涙が止まる。私は藤代に目を向けた。


「あの日、あなたは俺の話を聞かずに、カットアウトしてしまうこともできた。

わざわざシエラさんを探す手伝いも、シエラさんの話を聞くことも、しなくてもよかった。

でも、あなたは俺の話を聞いてくれた。シエラさんの話を聞いてくれた。俺たちのピンチを救ってくれた。

あの時、あなたが俺たちに出してくれたティーセットのことを、二人ともよく覚えていた。

これが飲めたらいいのに、そう思ったことを覚えていた。

俺たちを緊張させまいと、あなたが気遣ってくれた、何気ない思いやりの証。

それがあったから、今までがあり、今があるんです。

そのことに深く、感謝しています」


藤代の声が、身に染みわたる。

未来に向けて言っている言葉なのに、私の中の何かが底上げされる感覚がしていた。

喉に潤いが戻る。声が出せそうだ。

私は息を吸い込んだ。


「…出会えてよかった」


気を抜けば裏返りそうになる声を必死に制して、できるだけ穏やかに聞こえるよう、喉を保った。


「私は、ライルさんに出会えてよかったし、アリスに出会えてよかったし、マスター…レヴォルグさんも、出会えてよかった。

…もちろん、シエスタさんにも、出会えて本当によかった」


顔を上げない未来には見えていないのはわかっていたが、それでも懸命に笑顔を作り、思いを込めて告げた。


「…未来さんが、いてくれてよかった」


笑んだ目の端から涙が伝い落ちた。



「もちろん、あなたの意思を何も伺うことなくここまで来てしまったこと、お母様に呼ばれたからとはいえ、許されることではないと思います。

申し訳ありませんでした。心より非礼をお詫びいたします」


藤代が丁寧な謝罪の後、模範的なお辞儀をして見せたことで、泣いている場合じゃないことに気付く。

急いで目元を拭うと、私も未来に向かって精一杯の思いを込めて頭を下げた。





どのくらいの時間が経っただろう。そろそろいいだろうか、とそっと頭を上げてみると、藤代はすでに頭を上げ、姿勢を正していた。

病室に静寂が戻る。未来が顔を上げることはなかった。何の反応もないことに、少し気落ちする。

どうしたらいいかわからず、藤代を見やると、彼は小さく頷いて見せた。

藤代は未来の母親の方を向いて話し始める。


「未来さんに心的負担をかけてしまったことも事実ですし、今日はもう、おいとましようと思います。

お母様もどうか、ご自身の心身を休めることをお忘れにならないようにお過ごしください。

…ご期待に沿えず、申し訳ありません」


藤代が未来の母親に向かって深くお辞儀をするのに習って、私も彼女に向き直り、深く頭を下げた。


「いえ…、いえ、いいんです、本当に。

お二人には感謝しかありません。本当に、遠いところまでありがとうございました」


未来の母親も、語尾を涙声で震わせながら、私たちに深くお辞儀をしてくれた。

私と藤代は、何度も未来の母親に頭を下げつつ、病室を後にした。

最後にちらりと振り返ってベッドの上の未来を見た。未来は時が止まったかのように動かないままだった。


こうして、何の意味があったのか、何の意味もなかったのかよくわからないまま、未来との面会は終わった。






私たちは互いに無言のまま病院を出た。

予定していた面会時間よりずいぶん早く終わってしまったため、藤代の帰りの新幹線の時間まで、まだ時間が余っていた。

藤代にはここの土地勘はない。私にもあるとは言い難い。何より何かして遊ぶ気分でもない。

私たちはぽつりぽつりと話し合うと、上野に戻ることに決めた。

周りに邪魔されずにゆっくりできて、ぼーっと陰鬱にしていても怪しまれない場所、上野公園に行くために。



上野公園はほどほどに賑わっていたが、ベンチが空いていないほどではなかった。

あまり人目につかない木陰のベンチを見つけて座る。雨が降っていなくてよかった。

待ってて、と言って少し席を外した藤代が、近くの自販機から飲み物を買って帰ってきてくれた。ありがたく温かい飲み物を受け取る。

二人でベンチに腰掛け、2、3口飲み物をすする。二人同時に、深く長いため息を吐き出した。


「………おつかれさまです、生島さん…」

「………おつかれさまです、藤代さん…」


お互いにねぎらいの言葉をかけ合い、前を向くと、もう一度深くため息をつき、ベンチの背もたれに体を預けた。

上を向くと、風を受ける木の葉の揺らめきが見えた。深呼吸し、目を閉じてみる。

瞼に浮かぶのは、背を丸め、うずくまった未来。


「…配慮が足りなかったよね…」


未来の「非常識!」を思い出しながら、私はぼそりと呟いた。


「足りなかったね…。

断られるのがわかっていたとしても、やっぱり本人への確認は必要だったかなと今は思うよ…。

かなり非常識なことしてるって自覚はあったんだから、せめて気をつけなきゃいけないこととかも確認しておくべきだった…。

考えてみれば相手は女性なんだから、入院中の、身だしなみが最悪の時に人に会うって、苦痛だよね…。

そういうこと、何も考えてあげられてなかった…。

ああ…、俺、こういうところが猪突猛進で、よくないところなんだよな…わかってたのになぁ…。…わかってなかったなぁ…」

「私も…その辺のアドバイスができたはずなのに…。

なんか、度重なる非常事態とか緊迫感とかに、常識が麻痺してたっていうか…ああぁ…言い訳…」


上を向いていた頭を思いっきり振り下ろし、手には飲み物を持っていたため、両腕に顔を埋めながら背を丸める。

何とも反省点の多い面会だった。


「…結局、私たちの行動に、何か意味はあったのかなぁ…」

「…伝えたかったことは伝えられた、かな…。かなり短かったけど」

「…なんか、一方的で…、これでよかったのかなぁ…」

「…マスター、レヴォルグが言っていた言葉が、今になって重みを増すね…。

足を突っ込む権利、覚悟、責任…。…俺は、わかってなかったかもなぁ…」

「私も…」


沈黙が流れる。私は姿勢を正し、ベンチに座りなおした。

時折どこからか子供の笑い声や、ジョギングの人の軽快な足音などが聞こえてくる。


「…わかってなかったかもしれないけど」


飲み物をすすりながら、藤代を横目に見る。缶を片手に、ベンチに深く腰掛けた彼は、それでも揺るがない瞳で言い切った。


「行動には誇りと責任を持つって言ったから。後悔はしない。

あとは、未来さんが持ってくる答えを待って、受け止めて、それから考えようと思う」


私はそこで、今日ずっと感じていた違和感の正体に気付いた。

藤代の芯の固さ、揺るがなさだ。特に病院に行ってからは、ずっとそれが発揮されていた。

真っ直ぐとは言っても、今までは動揺したりすれば揺らいではいたし、ここまで「固い」と意識したことはなかった。

今日はその揺るぎなさにずいぶん寄りかかり、もたれかかり、支えてもらいっぱなしだった自分を思い出すと恥ずかしくて仕方ない。

ごまかすように飲み物を一口飲むと、今日の藤代の違和感について話を聞いてみることにした。


「藤代さん、人生2回目?」

「転生者だったらこんなにひどいミスだらけにはならないと思わない?」

「確かに」

「何見てそう思ったの?」

「…病院で、全然揺らいでなかったのあなただけだった」

「ああ…、それは…慣れだよ」

「慣れ?」


私は藤代に小首をかしげて見せた。藤代はそんな私から視線を外すと、飲み物を一口含みながら、視線を遠くへやった。


「…死の匂いのする場所は、初めてじゃない」


その言葉に軽く目を見開く。

「そうなんだ…」という相槌を打つのに、数秒間が開いた。

藤代は視線を手元の缶に落とし、しばらく考えるように缶の表面を親指でなぞっていた。


「…中二の時に、父さんが海の事故で亡くなってね…。漁師だったんだ。だから事故も…そんなに突拍子のないことではなかった。そう思うしかなかった。

漁師仲間と海上保安庁のおかげでね、遺体は回収された。死後数日経ってたから、見た目はひどかった。遺族は俺しか対面してない」


淡々と過去を語る藤代の横顔は、今まで見てきた彼とは別人のように、無感情で無機質だった。

そうしないと語れない、まだつらい記憶なのだろう。何も言わずに話を聞き続けた。


「ああいう場では、人はほんと様々に本性をさらけ出すよ。

泣き叫んで自分のこれからの心配しか口にしなくなる母親、保険金の話をしだす親戚、励ましとは口ばかりの、漁師仲間のおっちゃんたちの「長男のお前が何とかしていくんだぞ」コール、近所のおばちゃんたちの、世話焼き手伝いついでの根掘り葉掘り話…。

あそこで一番学んだのは、その場では揺らいじゃいけないこと。じゃないと、食われるんだ。人に、恐怖に、悲しみに、怒りに…」


話を聞くだけで身震いした。それが横目に見えたのだろう。藤代がハッとしてこちらに振り向く。

ぎこちなく苦笑いすると、視線を外して謝ってきた。


「ごめんね…嫌な話をしてしまった。忘れて」

「…夢に出そう」

「ごめんなさい…」

「だから、夢に出ても怖くならないように、全部聞かせてほしい」

「…いいの?」

「話すあなたが苦しくならない範囲でいいから…聞きたい」


私は目を逸らさずに伝えた。横目でそれを確認した藤代は、視線を外し、ぽつりぽつりと話を再開した。


「その時そこにいた人が、嫌な人ばっかりだったわけじゃないよ。

たいていの普通の人は、普通にお悔やみ言って、普通に去っていった。

そういう人たちと、口だけだったやつらはビックリするくらいとっとと日常に戻っていった。

残った俺たちを、本当に心配して支えてくれたのは、進学のお金は心配するなと言ってくれたじいちゃんや、頻繁に総菜を持ってきては、いっぱい食べろって言ってくれたおばちゃんや、不器用そうに俺に、漁師になるなら面倒見るって言ってくれた、父さんと一番親しかったおっちゃん…。

みんな、行動で俺たちを支えようとしてくれてた」


そこでふと藤代の言葉が切れる。藤代は視線を上げ、空の一点を見つめていた。


「そうか…、俺の原点って、そこなのかもしれない。

親友に嫌われるくらい真っ直ぐで、猪突猛進なくらい行動に出てしまうのも…」


藤代が視線を落とし、横目でちらりと私を見ると、少し寂しそうに笑いながら続ける。


「俺が家族を支えようと思ってたんだ…それなりには。

だから懸命に勉強して、いい高校、いい大学、立派な就職先を目指した。

でもそれを達成して振り返ったときには、誰も俺を必要とはしてなくてさ…。

母さんも弟も、もう自分の人生を見つけて歩み始めてた」


藤代は言い終わると、すでにぬるくなっていた飲み物の残りを、喉を鳴らして一気に飲み干した。

缶から口を離し、ふはっ、と一息つくと、また口元に自嘲気味な笑みを浮かべながら、定まらない視線で言葉を続けた。


「いきなり俺の人生に何もなくなって、本当に何にもなくなって、それでも人生って終わらないんだ。

衝撃のラストで終わってくれればいいのに、終わりの後もだらだら人生って続くんだ。

だからだらだら仕事して、だらだら飯食って、生き延びて…。

でも時が経つと不思議なものでさ、人間のすべての記憶は薄らいで、何のかんの楽しいこと見つけてきて、まただらだら続いていくんだ…」

「それでだらだらゲームやってた、と…」

「うん、そう」

「すごい」

「…何が?」

「藤代さんがだらだらゲームして生き延びてなかったら、私もだらだら日常を嫌いながら生きてるだけだったんだよ?」


藤代が不思議な生き物を見つけたと言わんばかりの丸い目で、私を見つめてきた。ぱちぱちと瞬く様がかわいらしい。


「だってまずゲームで出会ってなければ、今日がないじゃない?

今までも、ぜーんぶなくてさ。

思い出がなかったらシエスタさんにこだわることもなかった、未来さんに会うこともなかった、藤代さんにそういう過去がなかったら、猪突猛進で今日こうして会うこともできなかったわけだし、全部なかったんじゃない?

ということはさ」


藤代はまだぱちぱちと瞬きを繰り返している。

私は前を向き、右の人差し指を真っ直ぐ立てて、結論を口にした。


「すべてはつながってるんじゃない?」


口にしてみて、その通りだと思った。

全てがなければ、こういう今日はなかったのだ。無駄なことなんて一つもない。

我ながら良い結論だと思い、藤代を振り返ってギョッとした。あの藤代が涙を流している。

わんこ属性ではあっても、芯は強く固かったはずの人の涙に、うろたえすぎてジェスチャーもできない。

目元を袖でぐいっと雑に拭った藤代が、押し上げていた眼鏡を正し、真剣な顔つきで私を見つめた。


「…今日は、どうでしたか?」

「はい?」

「いい日でしたか?」

「いい日…うーん…」

「…ダメな日でしたか?」

「いいとかダメとかじゃなくて…なんていうかな、あ、なんで丁寧語?」

「すみません…」

「…すごく、私のためになった一日だったと思った」

「そうですか…?」

「丁寧語」

「すみ…ごめ…うん」

「藤代さんはどうだった?」

「俺は…、あなたに会えた、それが全てのような気がしてきたよ…」

「まだ終わってないよ?未来さんがどう出るか、それを聞いたらまた考えなくちゃだし」

「続いていくものだからね…」

「そう、まだまだ終わりじゃないから」

「…生島 紗耶さん」

「ん?」

「あなたが、好きです」


頬を赤くした藤代と見つめ合った。

言われたことを理解した途端、手の力が抜け、まだ中身の入っていた缶を落とし、盛大に中身をぶちまけた。


「ぎゃーーーーーーっ!!!!!!滴がはねた!!!一番おきにのワンピが!!タイツが!!ブーツがぁぁぁぁぁ!!!!!」

「お、落ち着いて!!暗い色合いの服だから染みにはならないよ!!」

「誰がクラいって?!?!根暗陰キャだって?!?!」

「言ってないから落ち着いて!!!ちょ、殴らないで!!服の染み落とそうよ!!水場探そう!?」

「誰が落ち着かなくなること言ったのよこのバカアホワンコ!!!!!!!」

「ごめんなさいーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!」



最後の最後に、上野公園のにぎやかさに一役買った私たちだった。













上野駅。ロッカーから出した三種の神器の袋に、私が好きだからという理由で、ここでは有名なバターサンド菓子の包みを追加で入れたものを藤代に渡した。

藤代は戸惑いつつもそれを受け取ると、蚊の鳴くような小さな声で聞いてきた。


「あの………返事、は…」

「ん???」

「すみません…なんでもないです…」

「うん」

「………」

「………」

「…やっぱり、聞きたいんですけど…」

「…私も、知りたい」

「え?」

「…なんて答えたらいいかわからないの」

「生島さん…」

「私を誰だと思ってるの?紺か紫かわからないような服を一張羅だと言い張るような陰キャなのよ?髪も染めたことないのよ?」

「似合ってるからそれはいいんじゃ…」

「人生初告白なの」

「…はい」

「照れてんじゃないっ!!!」

「はいっ!!!」

「…とりあえず、少し待って。

何も問題は片付いてないんだから、せめてそれが終わるまでは…時間が欲しい」

「…わかりました」

「………」

「突然すみませんでした。…お返事、待っています」

「丁寧語」

「待ってるぜ」

「待ってろってばよ」


同時に吹き出して笑った。

藤代は名残惜しそうに、何度も振り返りながら新幹線改札をくぐった。

姿が見えなくなるまで見送り、自分も家に帰ろうと踵を返したところでもうダメだった。

へなへなとしゃがみこんで、頭を抱えてうずくまる。ぶんぶん頭を振ったかと思うと、突然立ち上がり、在来線乗り換えホームまでダッシュした。

じっとしていられなかった。人生初めての告白。しかも受ける側。

まだ何も問題は片付いてない、片付いてない、かたづいてないっ----!!!!


言い聞かせながら走る私を、上野駅の優しい乗客たちは、そっと避けて通ってくれた。

全員スマホに夢中でいてくれて、誰も私を気に留めてくれなくて、非常に助かった心地だった。


でもそれでも勢いが収まらなかった私が、新幹線改札と在来線ホームを3往復ダッシュしたのは内緒だ。




告白:本文挿絵

https://kakuyomu.jp/users/wanajona/news/16817330660794570014

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