第13話 新しい官舎での暮らし

 琴似から、職員とその家族が移転してくると、羊ヶ丘の人口は急増した。庁舎前から札幌行きのバスが場内を通るようになったが、近くに商店街もスーパーマーケットもないので、買い物は、ツキサップ(月寒)の街に行くしかなかった。そこで、職員が出資して設立した農牧試生協(北海道農牧試験場職員生活協同組合)は、場と交渉して、場内に売店を開設することにした。その結果、カラマツ並木の脇にある、使われなくなった大きな倉庫を借りることができた。ここは、散在する官舎群の中心からは外れているものの、国道に近く、仕入れなどの面で便利であった。

 生協売店の建物は、切り妻型の大屋根を備えた建物で、入口がある妻側からの奥行きが30メートル位あり、幅は10メートル位だった。売店への改装にあたり、屋根は赤に、壁は白に塗り直され、ひと目で生協の売店と分かるよう、入口の壁に、「赤い屋根の農牧試生協」と、赤字と黒字で、二段に大書された。

 開業時には、職員やその家族が詰めかけ大賑わいであった。この時生協の理事を務めていた寺山は、。詰めかけたお客に、

「こんな立派な売店ができたんだから、ドンドン利用してくれや。」

と、呼びかけた。

 生協の理事は、職員が交替で勤めることになっていて、毎月の理事会や年に一回の総会に向けての仕事は大変だったが、仕入れや売り上げ確認など、普段と違う仕事に、寺山は、楽しさと緊張を感じていた。

 売店では、場内で生産された牛乳が職員還元用として常時売られており、試験の後や収穫調査が行われた後は、払い下げられた肉や果実、野菜なども売られていた。また、生協は庁舎の地下で、食堂も運営しており、昼休みは、庁舎にいる職員や来場した外部の人たちなどで賑わっていた。


 一方、新しくできた官舎は、いくつかの規格に分かれていて、基本的に職位によって入れる官舎が決まっていた。間取りは、多くの官舎が3LDKであったが、規格によって各部屋のサイズが異なっていた。このため、狭い方の規格では、3LDKというよりちょっと広めの3DKという感じだった。ほとんどの官舎が、東西方向に長い二軒長屋だったので、玄関は、東西どちら側かにあった。南側に小さな庭、北側に物置小屋があり、小屋の一部が風呂や暖房用の石炭庫になっていた。


 寺山は、ヒラの研究員だったので、下から2番目の規格の官舎に入った。カラマツ並木からは離れていたが、仕事現場である牧野センターの作業室には近かった。

 初めて新しい官舎に入ると、真新しい畳の匂いが香った。琴似から移ってきた人たちの引越作業はすでに終わり、寺山たちのように、場内で古い官舎から引っ越す者たちの引越が行われようとしていた。引越には、同じ部内の研究員や業務科員が手伝いに来た。

 寺山が、官舎の中で新築の匂いに浸っていると、一木いちのきがやってきた。彼は部屋に入るなり、

「さすがに新築だからきれいだっけなぁ。物も入ってないから広く見えっけど、すぐに狭くなるっしょ。そしたら、やっぱ、俺が言ったとおり、家を建てれば良かったって感じるようになるべさ。」

と、自分が家を買う時に誘った時のことを引き合いに出して寺山をからかった。さらに、

「俺の買ったところなんか、今度、国道が拡張されるのが決まったから、地価がどんどん上がってるべさ。あぁ、もう二、三ヶ所買っときゃ良かった。そうすりゃ、あんたに格安で譲ることもできたのに。」

と、笑って言った。


 一木の家は、試験場の南側の国道36号線の近くにあった。この国道は、かつて弾丸道路と呼ばれ、諸説ある名前の由来のような弾丸ほどではない、速く走れる道路だった。しかし、年々交通量が増え、昭和30年代の後半にもなると、渋滞も頻繁に起こるようになり、弾丸道路とは呼べない状況になっていた。このため、片側一車線の道路を片側二車線に拡幅するとともに、カーブが多く、上り下りも多い試験場から千歳方面にかけて区間整理を行い、真っ直ぐな新しい道路に付け替えることが計画された。これは、単に渋滞緩和を目的とするだけでなく、札幌での冬季オリンピック開催が決まったことも影響していた。北海道の空の玄関口である千歳空港から、選手や観光客を札幌に運ぶため、高速道路が建設されており、当面札幌の入口となる北広島インターチェンジから、素早く移動できるようするためのもので、道路の拡幅や新しい道の建設工事が始まろうとしていた。これに伴って、これまで水田や原野だった、新しい道が通る所や、道路周辺の地価が上昇することが予想されていた。


 一木が自慢話をしていると、一緒に来ていた迫田が、

「あれ、一木君よ、家の土地以外にも広い土地を買ったって聞いてっぞ。」

と、口を挟んできた。

「なんも。そんなのは、ただの噂だって。」

一木は、笑いながら否定した。すると寺山の妻が、寺山を見ながら言った。

「この人は、飲んでばかりで甲斐性がないから、家なんて、建てられませんよ。」

それを聞いた寺山は、頭をかくばかりだったので、来ていた者は皆、それを見て爆笑していた。しかし、外にいた業務科員から、

「おおい。荷物を入れてもいいんかい。」

と、声が掛かったので、みんな早速外に出て、運んできた荷物を官舎に入れていった。荷物が入ると、あっという間に部屋が埋まってしまった。搬入が終わると、手伝った人にお茶を出して寛いでもらった。


「やっぱ狭いっしょ。これから子供が大きくなれば、もっと狭くなるぞ。」

「そだな。したっけ、家を買う金はないし、借金するのもいやだから、ここで頑張るしかないよ。」

一木の言葉に、寺山はため息をつきながら言った。手伝いに来てくれた人の多くは、同じような境遇だったので、同情の念を抱いていた。


 宿舎は、木々に囲まれ、小鳥やキジの鳴き声が聞こえ、子供を育てるのには良い環境であった。その反面、昆虫やヘビなどが多く、子供たちは喜んだが、母親たちを驚かせたりすることも多かった。

 寺山の子供が小学生に入学した頃は、月寒の町中まちなかにある学校に,カラマツ並木の外にあるバス停からバスで通っていたが、試験場内に住む子供たちが増えたことや、試験場周辺の宅地開発も進んだため、月寒の小学校が分校し、試験場の近くに新しい小学校が開校した。しかし、場内も広いので、場内を走るようになったバスで通学する子も少なくなかった。寺山は、試験場に入った頃、冬に馬そりで子供たちを送るのを手伝ったこともあったのを考えると、便利になったものだと思った。


 職員が畜牧部と牧野開発部だけだった頃は、戸数も少なく顔見知りばかりであったが、琴似から移ってきた職員たちは、研究部や研究室も様々で、同じ棟の官舎でも、玄関が反対側にあるので、なかなか顔を合わせることはなかった。奥方たちは、生協の売店の前でよく井戸端会議を開いていた。このため、いろいろな情報が飛び交い、ある研究員は、当時、3月にも期末手当(ボーナス)があることを、ずっと奥さんに隠してヘソクリにしていたのが露見し、こっぴどく怒られ、高級なバッグを買わされたらしい、とか、外から入ってきた、見知らぬご婦人が、庭先に生えていたアイヌネギ(行者ニンニク)を摘み取ろうとしたのを見かけたので、声をかけると、

「ここは国有地だから、ここに生えているのは国民共有のものでしょ。」

と言って、手に持った袋に詰め込んでいたので、慌てて外へ出てみると、逃げ足が速く、姿が見えなくなっていて、悔しい思いをした。といった話で花を咲かせていた。

 ちなみに、試験場にも守衛はいたが、カラマツ並木の奥の旧畜牧部庁舎の近くにいたため、その手前にある官舎群には、外から自由に出入りできた。このため、このようなことや、奥にあるトド山にまで入って山菜を採る行為が頻繁に起きた。ひどい時は、牧柵のバラ線を切ったりしたので、放牧している牛が逃げたこともあった。


 こんなのどかな毎日が続いたある晩、寺山の官舎の隣の棟から、大きな叫び声と、物が割れる音が聞こえてきた。隣に住んでいるのは、栽培第一部の野口主任研究官であった。野口は、この4月に関東にある中央農事試験場から転勤してきた稲の研究者だった。寺山は、部が違うことや稲の研究室の人々は、試験場内に水田がないため、冬以外は試験場外の試験地で作業を行っているので、彼にほとんど会ったことがなかったが、口数が少なくおとなしそうな性格に見えた。その野口が、庭に出て大声で叫んでいた。酔っているようであった。

「バカヤロー。なんで俺がこんな所に来なきゃならないんだ。」

「野口さん、わかりましたから、やめてください。」

「やめてください、あなた。ご近所に迷惑ですよ。」

野口の声とともに、一緒に酒を飲んでいるらしい同僚と妻が止める声も聞こえてきた。寺山が、様子を見に行ってみると、周りの官舎からも何人も来ていた。妻が、集まってきた人々に対して謝っていたが、同僚に抱えられて居間に引き釣り込まれた野口は、

「うるせー。俺は、こいつらとは違うんだ。こんな所にいる人間じゃないんだ。」

と、叫び続けていた。

「何だと、こんな所とは何だ。おめえ、何様のつもりだ。」

駆けつけてきた者の一人が、野口の胸ぐらをつかみ、殴りかかりそうになったので、寺山や周りにいた連中が慌てて止めに入った。野口はさらに、

「こんな米の味も分からねえ奴らと一緒に、うまい米なんか作くれるか。」

と、叫んだ。同僚たちは、ちょっとイラッとした顔をしたが、とりあえず「まあまあ」と言って取りなしていた。

 寺山は、野口がなぜ荒れているのかを知りたくて、居間に上げてもらって話を聞くことにした。野口の話では、彼は稲の育種家で、前任地で食味に優れた、いい品種を開発したが、その品種は、関東のほとんどの都県で奨励品種にならなかった。彼にとっては、これまでで最も食味に自信のある品種だったので、悔しかった。それに加え、ある県の担当者から、

「これならコシヒカリの方がおいしいよ。」

と言われたことがショックだったらしい。その直後に異動の話が上がったため、異動後も悶々とした日々を送っていたようであった。野口は泣きながら、

「俺はもうダメだ。俺のやり方ではうまい米ができないから、こんなまずい米しか作れない所に飛ばされたんだ。」

と、言った。寺山は、酒のせいかもしれないが、彼は、思った以上に感情の起伏が激しく、熱い人間だと思った。その時、庭の方から、

「それは違うよ、野口君。」

と言う声が聞こえてきた。栽培第一部長だった。野口の研究室の室長は、場外に住んでいたので、場内の部長官舎に住んでいる部長に、誰かが連絡したのである。

「みんな、騒がせてすまなかったね。あとは僕が引き受けるから、引き取ってくれてかまわないよ。」

と言ったので、寺山たちは、野口の妻が謝罪とお礼の言葉を伝える中、各自の家に帰っていった。


 野口の官舎の居間の扉が閉まると、辺りは静けさを取り戻した。寺山は、居間で話す野口の姿を外からチラッと見て、月明かりの下、家に向かった。途中で彼は、野口の自分が開発した品種への思いやプライドの高さに畏敬の念を抱いたが、これまで自分の周りに、異動のことでこんなに荒れまくる人はいなかったので、気難しい人だなと思った。


 野口の作った品種が奨励品種にならなかったのは、食味以外の理由によるものだった。北海道の稲は、明治に入ってから本格的な栽培が始まったが、冷涼なため、しばしば冷害に見舞われ、寒さに強い品種の開発が求められてきた。北海道農牧試験場や道立の試験場では、改良を重ねて多くの品種を出してきたが、栽培は安定していなかった。しかし、この数年前に奨励品種になった「ユーカラ」という寒さに強い品種ができたことで、稲の栽培が安定してきたため、次の目標として食味の向上を目指すことになった。そこで、この分野の研究で豊富な経験と卓越した勘を持つ野口に来てもらうことになったのである。部長の説明に納得したのか、翌日から野口は、晴れ晴れとした顔で水田に立っていた。


 後にこのことを聞いた寺山は、野口のことを見直すとともに、他の試験場から請われるような技術を持っていることをうらやましく感じ、自分も人に誇れるような技術を開発したいと思うのだった。ちなみに、北海道で食味のいいお米ができるのは、まだまだ先の話であった。


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