第9話 試験場の近代化
昭和30年代に入り、好景気が続いていた。戦後悪かった食糧事情はすでに改善され、肉や乳製品の需要は高まり、家畜や畜産物の増頭、増産が急がれていた。畜牧部も、これに合わせて、近代化、機械化の波が訪れていた。
畜舎では、以前から話があったミルかーによる機械搾乳が導入されることになり、
寺山は、牛舎にミルカーが入ると聞き、搾乳を行う業務科員や研究員たちと一緒に、説明を聞きに牛舎に来ていた。今回設置されるのは、発売されたばかりの国産ミルカーで、まずは、牛舎の外で、メーカーの担当者から、図入りの説明書をもとに、説明を受けることになった。
「ミルカーというのは、乳頭に装着するティートカップ、真空ポンプ、パルセータ、そしてそれぞれを繋ぐパイプやホースで構成されています。
まずティートカップですが、ティートカップシェルという金属製の外筒とライナーと呼ばれるゴム製の内筒で構成されていて、ライナーの中を搾った牛乳が流れます。四本のティートカップは、ティートカップクローという部分で一つになりバケットという缶に送られます。
このバケットの蓋は、バケットを密閉できるようになっていて、パルセータという装置が付いています。パルセータは、真空ポンプとティートカップに繋がっていて、真空ポンプでバケットの中の空気を吸い出すと、ライナーから空気が吸い込まれます。ライナーの中に乳頭を入れると、乳頭に吸い付き、乳を吸い出します。四本のティートカップを取り付けたら、後は見いるだけです。」
「ミルカーというのは、乳をむりくり吸い出すのかい。」
と、業務科員の誰かが大声で尋ねると、すかさずメーカーの担当者が言った。
「ただ強引に乳を搾り出すのではありません。そこで働くのがパルセータです。パルセータは、ティートカップの外筒とホースで繋がっていて、この陰圧と常圧との切り替えを一定間隔で行う装置です。
ティートカップの外筒とライナーの間には隙間があるのですが、この隙間を陰圧にしたり戻したりすると、ライナーが膨らんだり萎んだりして、人の手で搾る時に、乳頭を握ったり放したりするのと同じような感じで乳を搾り出します。」
「真空ポンプを牛の近くに持って行かないといけねえのか。」
「いきなり、ティ、ティートカップとかいうのを付けてもいいんけ。」
「乳が出なくなっても、その、ティートカップってやつは、乳頭にひっついてるんか。」
と、業務科員から、矢継ぎ早に質問が出た。
「はいはい。一つずつお答えします。真空ポンプを動かす必要はありません。後で見てもらえれば分かりますが、スタンチョンの少し上、ちょうど牛の首の上あたりに、真空ポンプとつながったパイプを配管しています。一頭毎にホースをつなげるバルブとコックがあるので、搾乳する時に、こことパルセータをホースで繋ぎ、コックを開くとバケットの空気が抜かれる仕組みになっています。搾乳が終わったらコックを閉めてホースを取り外し、次の牛に移って下さい。
次に、ティートカップの付け方ですが、いきなり付けるのではなく、乳頭をよく洗って、きれいにしてから、乳房炎になっていないか、よく確認してから装着してください。
乳が出なくなると、乳頭が萎んでライナーとの間に隙間ができます。そうすると、乳房に吸い付いた状態が維持できなくなってティートカップがはずれます。外れると空気を吸うので、他のティートカップの陰圧が下がってしまいます。最悪の場合、全てのティートカップが、搾り終わる前に落ちてしまうので、早く搾り終わったティートカップには専用の蓋をします。こうすることで、陰圧が維持され、ティートカップが落ちるのを防ぐことができます。なので、終わりそうになったら、注意してください。それでは、だいたいの説明はこれくらいにして、牛舎に入って、実物を見ながら説明させていただきます。」
そう言うと、担当者は、業務科員や研究員を引き連れて牛舎に入っていった。
寺山は、その様子を後ろの方で見ながら坂井に言った。
「前に部長が言っていた機械搾乳というのは、このことだったんだな。どんな大きな機械かと思っていたけど、機械と言えるのは真空ポンプくらいで、あとは小さな機具ばかりだな。」
「ばかだな。どれだけ大がかりな機械だと思ってたんだ。でも、一つ一つは小さくても、牛舎全体に配管することを考えれば、大きな機械と言えるかもな。それより、これを考えた人はすごいな。空気圧を使って人の手と同じような働きができるなんて素晴らしいじゃないか。それに、この原理は、大正時代にはできていて、欧米では戦争が始まる前には、広く使われてたって言うぜ。日本はやっと国産品ができたばかりで、まだまだ遅れているぜ。」
「なるほど、まったくだ。でもこれが普及すれば、農家も楽になるし、牛も増やせるようになるな。」
「早くそうなるといいな。」
二人は、業者の説明を聞きながら、そんな話をかわしていた。
戦後、ミルカーの情報は、ちらほらと入っていたが、まだ国産品がなく、輸入品が主流で高価だったため、なかなか普及しなかった。しかし、昭和32年(1957年)に初の国産ミルカーが発売されたことと、政府の様々な酪農振興策が講じられたことにより、昭和30年代半ばから、急速に普及していった。ミルカーによる搾乳作業が順調に行われるようになると、畜牧部にミルカーが入ったと言うことを聞きつけて、近隣の酪農家が見学に訪れるようになり、しばらくの間、業務科長は対応に追われることになった。
一方、トラクターの方は、すでに国産化されていたが、クローラ型と言うブルドーザーのようなキャタピラで動く形式で、欧米ではゴムタイヤをはいたホイール型トラクターが主流となっており、旧式化していた。そのため新型トラクターの開発が急がれていた。そして畜牧部にも、待望の新型トラクターが導入され、以後毎年導入される予定であった。しかし、畜牧部の業務科には、トラクターを運転できる者が少なかった。そこで、馬を使っていた科員たちを数人ずつ何年かに分けて、大型特殊車両の運転講習を受けさせ、免許を取らせることになった。寺山も当然受講を希望したが、業務科優先のため、なかなか受けることができなかった。ただ、運転免許を取得しても、トラクターでの作業は簡単ではなかった。
畜牧部の圃場は、その一辺が数百メートルもあり、目印となるものが無かったり、起伏があって途中で見えなくなったりするため、まっすぐに走らせるのが難しかった。このため免許取得者を集めて何度も講習が行われた。
当初は、乗り手によって出来上がった畝やウィンドロー(牧草を集めて帯状に積み上げたもの)が、途中で大きく曲がったりもしていたが、徐々に上達し、きれいに畝立てやウィンドロー作りができるようになっていった。
トラクターを操作できる科員の数が増えると、トラクターを使った作業が増えていく一方、馬の使用頻度が低くなっていき、年々飼養頭数も減っていった。若い業務科員は、馬の飼い付け作業が減って楽になるので喜んだが、年配の科員は、さみしく感じていた。そんな中、喜久知は、畜牧部の敷地の外れにある官舎から、馬での通勤を続けていた。
喜久知が乗る道産子は「マサル」といい、非常に利口で、毎晩酔っ払った喜久知を無事に送り届けてくれていた。寺山や坂井など、若手の研究員が、喜久知に招かれて彼の家を訪れた際も、彼の妻淑子から、雪が降っていて、外で寝てしまったら凍死しかねないような夜に、酔っ払ってマサルの上で寝てしまった喜久知を、落とすことなく家まで乗せてきて、玄関先で一鳴きして、帰ってきたことを知らせたこともあったという話を聞き、寺山たちは、喜久知の豪胆さにあきれるとともに、この馬の賢さに驚きを隠せなかった。
しかし、そんな賢い馬も、寄る年波には勝てず、日に日に元気がなくなっているのが、寺山の目にも感じられていた。そんなある朝、喜久知が朝の運動に連れ出そうと、自宅の馬小屋に行くと、マサルは馬房の奥で、冷たくなっていた。それを見た喜久知は,呆然として、しばらく動けなかった。
喜久知の妻淑子は、喜久知とマサルが、朝の運動に行った気配が感じられなかったので、心配して馬小屋に様子を見に行った。すると、マサルの頭を膝の上にのせて座り、涙を流すのを堪えながらマサルの顔を撫でている喜久知の姿があった。淑子の姿に気づくと、
「もういい歳だったからな。大往生だよ。こいつには、本当にお世話になった。」
と、顔を伏せたまま言った。
「ほんと、いい子でしたね。何度もこの子には助けられましたものね。」
「ああ、こいつのおかげで何度も命拾いした。」
「これから、どうするんですか。」
「うちにきている
「それはいいけど、新しい馬を飼うの。」
「いや。もう馬はやめだ。さぶろく線(国道36号線)も車が増えて危ないし、それにこんな賢い馬、もう出会えないよ。」
「そうね。それがいいわ。」
喜久知の馬が亡くなったことは、すぐに畜牧部内に知れ渡った。喜久知には、部長をはじめ多くの職員から慰めの声が掛けられた。寺山も急いで喜久知の所に行き、マサルの死を悼んだ。マサルの亡骸は、部に出入りしている近くの醍醐畜産の社長がと場で燃やしてくれることになり、積み出し作業に寺山も駆けつけた。
寺山は、その時初めて馬房に横たわるマサルを見た。その穏やかな表情を見て、在りし日に、マサルに乗った喜久知と一緒に焼山に登ったこと、そこでアメリカ兵に会ったことなどが思い出され、思わず涙が出そうになったが、それを堪えてマサルの運び出しに取りかかった。
マサルは道産子なので、馬としては小さいが、それでも数百キロはあるので、トラックに乗せるのは数人が掛かりだった。寺山は、マサルを乗せたトラックに喜久知も乗っていったので、残った俶子とともに見送った。
翌々日、醍醐社長が来て、マサルの骨が入った壺を喜久知に手渡していった。壺が喜久知の机の上に置かれると、研究室の人々が代わる代わるやってきて、壺に手を合わせ、声をかけていった。彼は、その様子を傍らで黙って眺めていた。やがて顔を上げると、
「みんな。いろいろとありがとう。みんなからこんなに声を掛けられ、マサルも幸せ者だと思う。マサルに代わってお礼を言うよ。ありがとう。」
と、感謝の言葉を述べた。それを聞き、寺山の目から一筋の涙が流れた。ちょうどその時、庁舎の鐘が鳴った。いつも通りの鐘の音だったが、皆の耳には、マサルの魂を送る鐘として、少し寂しく聞こえるのだった。
この後、畜牧部の馬も、機械化が進むに従って減り続け、昭和40年代前半には、全てトラクターやトラックに置き換わった。また、研究に使用する家畜が、牛、豚、羊に絞り込まれたこともあって、天皇と皇后が視察した、狐や兎などの小動物はすでにいなくなり、羊を集め宇作業を見せた牧羊犬も、羊の頭数も減ったことでいなくなっていた。
こうして畜牧部も徐々に変わっていくのであった。
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