第7話 天皇の行幸と運転免許
昭和29年(1954年)の夏、北海道で国体が開かれるのに先立って、天皇が道内を巡幸されることになっていた。天皇が戦後すぐに始められた「ご巡幸」の最後の訪問地が北海道だったのである。天皇と皇后は、8月上旬に、青函連絡船で北海道入りされると、すぐに道内各地を回られ、8月22日に、札幌で国体の開会式に出席される予定であった。そして、翌23日に、飛行機で東京に戻られるため千歳空港に向かう途中、
天皇は、皇太子時代の大正11年(1922年)に
春になって、天皇来場のことが正式に伝えられ、畜牧部内は、その話題でもちきりとなったが、その後しばらく目立った動きもなく、通常の業務に追われたため、研究員や業務科員は、このことを忘れかけていた。しかし、事務方は、準備作業に取りかかっており、6月頃から、慌ただしくなっていった。畜牧部の事務方は人数も少なく、天皇が、戦後初めて北海道の農務省の試験場に来られると言うことで、本場の総務部だけでなく、東京の本省からも応援の職員が訪れ、様々な準備に取りかかっていた。その一つが道路だった。畜牧部内の道路は、まだ舗装されておらず、風が吹くと火山灰が舞い、雨が降ると水たまりとぬかるみに悩まされる状態だった。これは、当時としては普通であったが、あまりよい道ではなかった。畜牧部の前の国道は、すでに舗装され、快適に通行できるようになっているのに、場内に入るとガタガタ道、というわけにもいかないので、舗装されることになった。しかし、全ての道を舗装することはできないので、とりあえず国道から庁舎まで続くカラマツ並木、通称「
畜牧部内のほとんどの者は、天皇の訪問を喜んでいたが、戦争が終わってから十年もたっておらず、従軍した者や、外地からの引揚者の中には、複雑な思いをしている者もいた。このため、何も起こらないよう、場の幹部や農務省も神経を尖らせていた。
訪問日が近づくにつれ、益々慌ただしくなった。警察官もやってきて、天皇一向が通る八間道路や小動物舎などの周辺で、危険物がないかの確認作業が行われた。そのために、下草や藪の刈り払いを行わなければならなかった。また、当日の担当などが決められていった。馬に乗れる職員は、馬に乗って警察官と一緒に警備に付くことになった。寺山も、馬に乗れるので庁舎前の交差点と放牧地の警備を担当することになった。当日の天皇への説明は、主に場次長と部長がすることになっているので、部長は打ち合わせのため、しばしば琴似にある
この年の北海道は、低温続きで、8月になっても気温が30度を超える日はなく、天皇が訪れた日も、札幌の最高気温は23度と、平年より低かった。ちなみに、春先から続く低温に加え、この後9月にやって来た洞爺丸台風と呼ばれた大型台風による水害で、北海道農業は、大打撃を受けることになる。
天皇来訪の日の朝、前日の夜から降っていた雨は、かなり弱まってきていた。畜牧部の馬は、農機具や運搬車を引く馬が多く、乗馬できる馬は少なかった。乗馬用の馬も、調教を続ける必要があり、寺山もこの日、早起きして朝食前に一乗りしていた。彼は、朝食を食べると一番きれいな作業服に着替え、ピカピカに磨いた長靴を履いて厩舎に向かった。厩舎に入ると、彼が乗る
この日の天皇の予定は、小動物舎で狐とヌートリアをご覧になった後、放牧地で牧羊犬による羊群の移動の模様を視察することになっていた。
天皇が来る時間が近づくと、庁舎前には、最初の視察先である小動物舎の前で待機している場長、次長と畜牧部長を除く、試験場の幹部と畜牧部の室長たちが勢揃いした。また、他の職員も、庁舎と道を挟んで反対側にある種羊場時代に建てられた事務所の前などに立って、天皇が来るのを待っていた。
寺山は、八間道路の端の守衛所の近くで、馬に乗って警察官と一緒に待っていた。すでに雨はやんでおり、庁舎の前のポールに日の丸が翻っていた。
天皇一行は、ここに来る前に、月寒の中学校で開かれる豊平町の奉祝式に出られ、その後、畜牧部にやって来られることになっていた。やがて天皇と皇后を乗せた
寺山が、カラマツ並木に囲まれた八間道路を眺めていると、木々の間を走る車列が見えた。そして、白バイが徐々に近づき、並木を抜けて出てきた。それに続いて、先導車、御料車、
この丘は、畜牧部の敷地の北側に位置し、丘の下には、西岡地区のリンゴ畑などが広がり、西の方に下っていくと水源池があった。また、札幌の市街地や藻岩山、手稲山、さらには石狩平野が一望できた。このため、この数年後には、札幌市の観光協会によって展望台が開設されるのであった。
15分ほどすると、車列が寺山がいる方に向かって走ってくるのが見えた。やがて雲の切れ間から日が差してきた。しかし風が強く、8月というのに気温が20度にも達していなかったため、少し肌寒く感じられた。車列は、寺山の前で曲がると丘を登り切った所で止まった。御料車の扉が開くと天皇と皇后が降りるのが見えた。羊担当の業務科員と牧羊犬が、羊の群れを天皇の近くに集め、部長が説明しているのが見えたが、少し距離があったのと風が強かったこともあり、説明の声は聞こえなかった。寺山は、天皇たちの様子を遠くに見ながら、先導してきたオートバイを見ていた。
白バイとして使われていたオートバイは、大型の陸王というもので、畜牧部の周りや月寒の街を走っている、自転車にエンジンを乗せただけの原付自転車や、スクーターなどとは、明らかに存在感が違っていた。
この頃寺山は、時々下村に連れられて、部の車で酪農家の調査に出かけていた。彼は、まだ運転免許を持っていなかったので、下村が運転していた。いつも下村に運転してもらっているので、寺山も免許は取りたいと思っていたが、就職したばかりで金銭的な余裕がなく躊躇していた。しかし、この日見た白バイが気に入り、とりあえず自動二輪の免許を取ろうと思った。
そんなことを考えてるうちに、天皇による視察は終わり、再び車に乗り込まれた。車が動き出すと、寺山の前を通って、庁舎の方に向かって去って行った。彼は、小さい頃から天皇の写真の前で頭を下げることをたたき込まれていたため、せっかく馬から下りて待っていたのに、天皇の車が通る際、思わず頭を下げてしまい、今度も天皇の顔を間近で拝むことができなかった。
天皇が滞在したのは、30分程度であったが、午後になって、畜牧部全員に
寺山は、それに火を付け吸ってみると、彼がいつも吸っているピースよりきついが、味と香りはよかった。
「戦時中は、軍歌にもあるように、このたばこをもらって死を覚悟した人たちもいたんですよね。」
彼が、窓際で夕日を眺めながら、一緒に吸っていた喜久知に、感慨深げに言うと、
「何黄昏れてるんだよ。おまえらしくない。戦地じゃいつも死と隣り合わせだ。こんなもの吸わなくたって、出征する時に覚悟している。そんなこと思ってないで、これからのことを考えろ。」
いつも穏やかな喜久知が、珍しく強い口調で言った。彼も少しの間だったが、戦争に行っていたので、戦死した戦友などのことを思い、やるせない気持ちが表れたのである。しかし、タバコを吸い終える頃には普段の喜久知に戻った。
「ところで、さっきバイクの免許がどうのとか言っていたが、なんだ。」
「前から自動車の免許を取ろうと思っていたんですが、難しそうなんで、自動二輪の免許にしようかと思って。自動二輪の免許でも軽自動車は運転できるみたいなんで。それに、今日見た白バイが、かっこよかったのもありますが。」
この頃の免許制度では、自動二輪の免許でも軽自動車なら運転できた。ちなみに、当時取得した自動二輪の運転免許は、その後の制度改正で運転できる車両区分が広がり、最終的には普通自動車の運転もできるようになるのである。
「自動二輪にするのはいいが、教習所とか行くのか。この近くにはないぞ。」
「畠さんが自動二輪を持っているので、彼に借りて、ついでに運転も教えてもらおうかと思ってます。」
畠が持っていたのは、ホンダのドリームE型と呼ばれる小型のオートバイだった。彼の実家は裕福だったので、実家に借金して買ったらしい。畜牧部の敷地内は、自動車がほとんど走っておらず、人通りも少ないので、仕事が終わった後や休みの日に、敷地内で練習することにした。
畠は少しミーハーなところがあり、ある映画俳優が、映画で大きなオートバイに乗っているのを見て、オートバイに乗ることを決めたが、その後は、群馬県の浅間山麓で開かれた耐久ロードレースを見に行くなど、すっかり入れ込んでいた。
彼は、明るくてやさしく、いかにも育ちが良さそうな感じであったが、オートバイの教習を始めると、途端に厳しくなった。寺山は、何度も畠に注意されるなど苦労したが、やがてスムーズに運転できるようになった。
一通り運転の仕方を覚えたので、早速受験することにした。畠に運転免許試験場まで乗せていってもらい、そのまま彼のオートバイを持ち込んで試験を受けた。当時、自動車等の持ち込みでの試験はよく行われていた。
寺山は、試験に見事合格したが、勤め始めたばかりの身では、オートバイや軽自動車を買うお金は当然無く、しばらくは人に乗せてもらったり、オートバイを借りたりする日々が続いた。やがて畠が、あこがれだった大きなオートバイに乗り換えることになったので、それまで乗っていたオートバイを格安で、しかも分割払いで譲ってもらった。寺山も、大型の陸王に乗りたいところであったが、給料が安くて買えないので仕方が無かった。その後、休日に二人で支笏湖や小樽など、あちこちへ出かけるようになった。
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