第4話 火傷騒動と資料作り

 喜久知が雪虫を見てから十日ほどで初雪が降った。

「雪虫」というのは、体長5ミリくらいのアブラムシの一種で、越冬期が近づくと白い綿毛に覆われ、風に舞う姿が雪のようなことから名付けられた虫である。「綿虫」とか「しろばんば」などとも呼ばれているが、北海道では、初雪が降る少し前に現れることからこのように呼ばれている。

国道36号線は、無事改良工事が終了し、きれいな舗装道路が開通したが、走りやすくなった分交通量も増え、のんびり馬車で運搬することは難しくなっていた。


 場外の喧噪をよそに、実験室では、連日下村の指導の下、寺山が飼料成分の分析技術を習得しようと奮闘していた。細かく粉砕された牧草のサンプルや試薬の秤量は時間もかかり、集中しなければならないので、少し苦手な作業だったが、この作業がなければ始まらないので、一生懸命取り組んだ。特に、同じサンプルを、いくつかの分析項目毎に秤量し、薬包紙に包む作業は、根気強く取り組み、最初は上手く包めなかった薬包紙も、薬剤師が包んだように同じ形で作れるようになっていった。しかし、一通りの作業をこなせるようになってくると、徐々に慣れによる慢心や油断が生まれるようになっていった。


 雪が毎日のように降り続き、屋根から落ちた雪が窓枠の下まで積もるようになった冬のある日、寺山は、分析用に決められた濃度の希硫酸を作ろうとしていた。希硫酸は、濃硫酸を希釈して作るのであるが、硫酸は劇物で、取扱には十分に注意する必要がある薬品である。彼は、もうすぐ昼休みという時だったので、その前に希硫酸を作ってしまおうと思い、いつもならゆっくりと数回に分けて濃硫酸を蒸留水に加えて希釈していくところを、一気に入れてしまった。すると、たちまち硫酸が吹き出し、フラスコの上でメスシリンダーを持っていた寺山の手にかかった。

「あちっ。」

彼は、そう叫ぶと思わずメスシリンダーを落としてしまった。ガシャンという音が実験室になり響くと、部屋にいた研究員が寺山に注目した。

「どうした。」

と、誰かが寺山に聞くと、

「硫酸が、手にかかりました。」

と、答えたのを聞いて、すぐに坂井が叫んだ。

「寺山君、すぐに水で硫酸を流すんだ。」

「雪に腕を突っ込んで冷やせ。」

と言って、窓を開ける者もいた。すぐに下村が別の部屋からやってきて、現場を見ると手を洗っている寺山にことの詳細を尋ねた。それを聞いて、

「バカヤロー。何で言われたとおりにやらないんだ。手に少しかかったくらいで済んだからいいが、もし目に入ったら失明することだってあるんだぞ。横着しないでちゃんと手順通りにやれ。わかったか。」

と強い口調で叱りつけた。寺山は、申し訳なさそうに、

「すみませんでした。お昼が近かったので、つい。」

と小さな声で言った。割れたメスシリンダーを片付けている坂井が、

「これ滴定用の硫酸だろ。吹きこぼれちゃったから作り直しだな。」

ちょうどその時、昼を告げる鐘が鳴った。

「昼飯食ったら作り直そう。」

鐘が鳴り響く中、彼はそう付け加えた。それを聞いて下村が、

「坂井君、しばらくは、寺山が試薬を作るときは、君も一緒にいて、間違えないか、ちゃんと見ておいてくれ。いいな、寺山。」

と告げると、「はい」と返事をする寺山の横で坂井が、

「仕事が一つ増えちゃったな。その代わりと言っちゃなんだけど、寮の便所の掃除当番しばらく代わってくれるかな。」

と、提案してきた。寺山は、ちゃっかりしているなと思いつつ、下村にも言われたことなので、提案を受け入れることにした。そこに室長の高木が慌てた様子でやってきて、

「寺山君が硫酸を浴びて大火傷したって聞いたが、大丈夫か。」

と、大きな声で言った。これを聞いて、手を洗い終わって窓の外の雪に手を突っ込んで冷やしていた寺山は、

「なんも、ちょっと手にかかっただけです。たいしたことないです。それより何ですが、硫酸を浴びたって。誰がそんなこと言ったんですか。」

と、あきれ顔で室長に尋ねた。高木は、寺山の姿を見るとホッとして言った。

「よかった、よかった、たいしたことなくて。誰かが寺山が大火傷したと叫んでいたんで、慌ててやってきたんだ。でっ、どうしたんだ。」

と、なぜ火傷したかを寺山に尋ねた。寺山が、これまでのことを話すと、

「そうか。薬品を取り扱うのは、危険を伴うことだから、下村君の言うことをよく聞いて、これからは、十分に気をつけるんだぞ。ところで、たいしたことないようだが、赤くなっているから、とりあえず診療所に行って診てもらえ。しかし、誰だろう。大火傷したなんて騒いだのは。」

と、寺山に注意して、診療所に行くよう指示すると、ブツブツ言いながら部屋を出て行った。入れ替わりに、牧畜三研の畠が入ってきて、寺山を見るなり、

「なんだ、火傷なんてしてないっしょ。騒いで損した。」

と、言った。どうやら騒ぎの元は、畠のようであった。寺山が、硫酸がかかったと言ったのを、廊下を通りがかった畠が聞き、よく確かめもせずに騒いだせいだった。騒ぎの原因が、畠であることが分かると、実験室のみんなは大笑いしたが、畠だけが何で皆が笑っているのか分からずキョトンとしていた。それを見て、さらに笑い声が高まった。下山が、

「昼の鐘も鳴ったことだし、飯にしよう。解散だ。バカヤロー解散だな。」

と、当時の政局の一幕(当時の首相が放ったこの一言が解散につながったこと)を表す流行語を言って笑わせた。寺山は、高木の指示通り診療所に行って診てもらった。火傷はたいしたことは無く、薬を塗ってもらったが、跡も残らないだろうとのことであった。しかし、二、三日は、風呂に入ると火傷の跡がヒリヒリして痛かった。



 12月になると、年度末の会議に向けて、報告書作りが始まった。この一年間に行った試験の成績をとりまとめるのである。寺山と坂井は、まだ入ったばかりなので、自分の課題を持っていなかった。そのため、夏の間に、他の研究員が取った調査データのとりまとめをするのが、彼らの仕事だった。電卓などない時代なので、二人とも、もっぱらそろばんと筆算で計算を行っていたが、たまに平方根を求めるために、タイガーと呼ばれる機械式の計算機を使った。寺山は、この計算機を初めて使うので、坂井から使い方を習いながら行った。ハンドルをぐるぐる回すと中の歯車が回転し、計算が終わると「チーン」という音がするのが面白かった。彼らが計算して求めた数値を基に、課題担当者が、報告書の原案を作り、部内での検討を行った後、手直しされた最終原稿が印刷屋に回されることになっていた。

そこでまずは、検討会用に、仮の報告書のコピーを作るのだが、まだコピー機が無い時代なので、謄写版とうしゃばん、いわゆるガリ版印刷でコピーを作っていた。このため、原稿を見ながらガリ版の原紙に鉄筆で書き写し、一枚一枚印刷する必要があった。会議が多く、忙しくて時間が無い室長と、字が汚くて読めないとの評判の喜久知の報告書を、寺山が写すことになった。室長の原稿は、字がきれいで読みやすかったが、喜久知は、書き上がりが遅い上、ただでさえ字が汚いところにもってきて、何度も訂正の書き込みを入れるので、作業がなかなか進まなかった。事務方の女性職員も手伝ってくれたが、夜遅くまで手伝わせることもできないので、ほとんど寺山が行った。訂正の書き込みの中には、本人ですら解読不能な文字もあった。ある時寺山が喜久知に、

「喜久知さん、これは、どっちの文章を入れるんですか。」

と尋ねた。前に訂正した文章が残っていて、判別できなかったのである。

「ウ~ン。こっちに決まってるだろ。そっちじゃ意味が通じない。文脈で判断しろ。」

と、喜久知は、自分が消し忘れたことを棚に上げて、強い口調で言った。このように、前後関係から言葉を類推して本人に確認する必要があったので、作業は益々遅れていった。しかし、会議の日程は決まっているので、時間がかかってもやるしかなかった。一方の喜久知は、終業の鐘が鳴るとともに、応援と称して酒を持ってやってきた。最初は、寺山も相手にしていたが、作業が進まず、徐々に苛立ちが募り、相手にできなくなっていった。

「酒飲んでる暇があったら、ガリの一枚でも切って下さいよ。まったく、字は読み難いし。訂正ばかりするから、どことどこが繋がってるか分かり難いし。」

普段は喜久知を慕っている寺山だったが、さすがにストレスが溜まり、こんなことを言うようになったので、喜久知も次第に近づかなくなった。


 ガリ切りが終わると、今度は印刷である。こちらも、一部ずつ何十枚と印刷するため、二人とも、インクで指先が真っ黒になり大変だったが、ガリ切りに比べれば楽であった。印刷機は2台しかなかったので、研究室間で順番を決めて進めることになったが、こちらの作業は順調に進み、ほぼ予定通りにすべての書類の印刷が終わった。


 全研究室の報告書が出そろうと、これらを綴じる帳合い作業を行うことになっていた。会議室に長机がロの字型に配置され、その上に印刷物が順番に並べられた。そこに、手の空いている各研究員たちがやってきて一列に並び、並べられた印刷物を一枚ずつ取って重ね、一部にまとめて、ホチキスで綴じていった。一部が出来上がると、また最初に戻って印刷物を取り、同じ作業を繰り返すのである。寺山もこの列に加わり、堂々巡りの作業を行ったが、途中でつまみ難い紙に出くわすと、なかなか印刷物が取れず、立ち往生となり、たちまち渋滞となった。後ろにいる人たちは、一休みするいい機会と思っていたが、当人はプレッシャーを感じて焦ってしまい、ますます上手くいかなくなった。

「ちきしょー。指先がカサカサで、紙が手に着かないよ。」

と呟くと、後ろにいた坂井が、寺山が取れなかった紙を取って、

「こうやって、指を湿らせればいいじゃないか。」

と、指を口に付ける仕草をして言った。

「そういうの、なんか好きじゃないんですよね。不潔な感じがして。」

「以外と神経質だな。」

と、笑って話しながら作業を進めていった。

こんな渋滞も時々起こったが、今回は、人手も多かったので、比較的短時間に作業を終えることができた。寺山にとっては、初めての作業だったが、これで部内検討会の準備を終えることができた。


 なお、報告書は、部内検討会など、様々会議を経て修正が加えられ、和文タイプライターと呼ばれる機械で作られた最終原稿が、印刷屋に送られた。

和文タイプライターは、たくさんの文字が並んだ配列ボードと呼ばれる部分の上で、ファインダーとよばれるアームを動かし、打ちたい文字の上にファインダーを合わせると、配列ボードと同じ配列をした活字が入ったバケットが、配列ボードの下で動き、ボタンを押すと、打つと決めた文字の活字が、ピックアップされ,、インクリボン越しに打ち付け印字する構造になっていた。このように、この機械は、普通のタイプライターに比べ、操作が難しく、専門の事務職の人でも、作成するのに時間が掛かった。報告書に用いる文字は、通常、あまり使われない学術用語の文字も多かったため、さらに煩雑になった。修正が難しく、一枚ずつしか作成できないので、部内検討会のように、他部数を必要とする資料作りには向いていなかった。

寺山は、事務職の女性が、和文タイプライターで、素早くアームを動かし、文字を打っているのを見て、自分でも打ってみたくなったので、試しに打たせてもらったが、文字を探すのが大変で、早々に諦めてしまった。


 このような年度末の報告書や資料作りは、その後も続いていた。原稿や図表の作成はワープロやパソコンに、印刷と増刷りはプリンターとコピー機に変わって行った。帳合い作業は、その後、部内検討会用の資料作りだけでなく、道立の試験場との合同会議の資料作りでも行われたので、枚数も部数も増え、部員総出の一大イベントとなっていった。 

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