第2話
さすがに若槻もぎょっとした。社会転覆を狙う言、と聞かれたならば間違いなく特高が飛んでくる。見れば耳に入ったのだろう店主の苦笑。幸いにも別の客には聞こえていなかった様子。そうして周囲を見回す若槻に相葉はちらりと笑っていた。
「君は……」
「なんだい?」
「案外と生真面目な男なのだな、と思っていただけさ」
「そうでもないだろう?」
「ま、ご実家に迷惑がかかるといけないからね」
揶揄するような相葉に若槻は眉根を寄せる。生家のことは関係ない、と言い張れるほど若くはない。そんな彼の表情をまた相葉が真面目だと笑った。
よく笑う男だと若槻は思う。だが、その笑みには鬱屈があるような。あるいはそれは陰、と言い換えてもいいのかもしれない。人目を惹く容貌だけにひどく濃い影にも見えた。
「あの言葉は、普通は驚くものだと僕は思うが。だが……」
「うん?」
「なぜ、そんなことを言うのか、尋ねてもいいかい?」
「本当に君は面白い男だな。まぁ、いいさ。僕は人智を超えるものなんて滅びればいいと思っているだけでね」
「ははぁ、なるほどなぁ」
「納得するのかい、君は。本当に――」
からりと笑われても若槻にはそれが何ゆえなのかが見当もつかなかった。首をかしげれば、それもまた相葉に笑われる。
「まぁ、相葉君が楽しんだならいいさ」
肩をすくめた若槻に、ふと相葉の目が変化した。真剣になったとも違う、嫌悪でもない。何、とは言いかねるその色合い。若槻は視界の端に見たように思う。
――面白い。
そう言えば相葉は嫌な思いをするだろうか。高等遊民の気紛れ、と解釈された経験が若槻にも何度かある。己でも無理もないとは、感じなくもなかった。
――それでも僕は。
こうしてある、そう言い切れるだけの強さも若さもない。ならばいまはこうしてあるだけか。すげなくあしらわれたならば、それはそのとき。若槻は普段のように相葉にも笑いかけた。
「なぁ、相葉君。よかったら、連絡先を交換させてもらってもいいかい」
「は?」
「僕の連絡先を君に渡しておきたいんだ」
「勝手にしてくれてかまわんよ? 僕も名刺は差し上げただろう」
それに若槻の目許がぽ、と赤くなった。手元にある名刺をすっかりと失念して交換などと言ってしまった間抜け加減が気恥ずかしい。相葉は気づいた様子もなかったが。
「よし。これが僕の連絡先だ」
「名刺なんぞお持ちとは思わなかったね」
「洒落で作ったのさ」
だろうと思ったよ、相葉が笑う。必要などないだろう、揶揄されたようでいて、単に感想を述べたようでもある。不思議な男だとやはり若槻は感じていた。
あっさりと、住所氏名が記してあるだけの若槻の名刺を相葉は懐へと収めた。意外と丁重な手つきであったのに若槻は目を瞬く。指先も繊細でほっそりと優雅なもの。知らず見ていた。
「何か興味深いものでもあったかね?」
からかわれてまたも赤くなる羽目に。初対面というのに面白いものだった。噛み合っている、と感じているのは己ひとりかもしれない、思いつつ若槻は相葉もまた少なからず楽しんではいるだろう気はしなくもない。
若槻がここに座っている限り新聞は読めない、と諦めたのだろうか。相葉はばさりと音を立ててそれを傍らへと片付ける。若槻の方はといえば本格的に同席を許された、と解釈した模様。相葉も拒むことはなかった。
先ほどの「人智を超えるもの」とはいったい何を指すのか。若槻があれこれと水を向けても相葉はのらりくらりとはぐらかすばかり。それこそ初対面だ、すぐさま語ってくれるような話ならば逆に若槻はここまで興味を持たないだろう。
――我ながら始末に悪いな。
内心かすかに苦笑したのすら、相葉には見抜かれた気がして、更なる苦笑、否、笑みが浮かぶ。続くような途切れるような会話が面白くて仕方なかった。
所用がある、と会話の途切れ目に席を立ったのは相葉の方。律儀に相手をしていた、と店主の目が笑っていて相葉はわずかに顔を顰める。
――嵌められた気がしなくもないが。
若槻鉄鋼産業の事実上の跡取りだ、知り合っておいて損はない、とかすかに肩をすくめていた。
「僕もそろそろ帰ろう。相葉君、どちらに向かうんだい」
「事務所に帰るんだよ。僕は君ほど悠長な生活をしてないんだ」
「言ってくれるものだ」
「言われ慣れているだろう?」
中々によい趣味の帽子を頭に乗せつつにやりとした相葉と連れ立って店を出た。まるで長年の友人同士のようなその姿を店主が笑って見送っていた。
もう外は春の宵。ねとりと肌に触れるようなぬくもりのある風が二人の間をなぶっていく。灯りはじめた瓦斯灯が街路を照らしていた。
「征克さん」
不意に声がして、驚いたのは相葉だけ。若槻にはその声の主が誰かわかっているらしい。名を呼ばれたのだから当然か、と相葉は傍らを見やる。どうやら追いかけてきたらしい若人だった。
「おや、白石」
「おや白石、じゃないでしょう」
渋い顔の若人は、見るからに書生のなりをしていた。いささかくたびれた袴に細かい縞の着物。襦袢代わりのスタンドカラーのシャツ。言われなくても何者かわかるというもの。案の定。
「うちの書生でね、白石というんだ」
笑みを含んだ若槻はそう言った。その態度だろうか、気の置けない仲と白石は見て取ったのだけれど、生憎と主人にこんな知り合いがいたとはついぞ知らない。
「白石一夫と申します。征克さんは書生とおっしゃいますが……」
ただの使用人だ、言いかけた白石を笑顔の若槻が遮った。学費の面倒を見ているだけ、でもないのだろうと相葉も察するが、若槻にとっては年若い友人でもあるらしいとも感じていた。少なくとも「旦那様」と呼ばせない程度には。
「優秀な男なんだよ。高等学校を優等で卒業してね、いまは都津上大学で医学生だ」
「ほう。それを援助なさってると。そりゃまた立派なものだ」
「余ってる金なら有効利用すべきというものさ」
にやりとした若槻に白石は驚いていた。見知らぬ人物とここまで親しいとは。本人は人好きで、大変に社交的なのだけれど、かえってそれが災いしているのか深い関係を築いた知己があまり多くはない主人だと、白石ですら知っている。
「君みたいな立場の人間なら、色々あるんだろうさ。白石君と言ったか」
「は、はい」
「ずいぶんと腕が立ちそうだね。何か武道の心得があるのかい」
真正面から問われて白石はどぎまぎとしていた。夕暮れの茜色のせいかもしれない。ひどく果敢ない美しいものを見たような気が。
――な、なにを考えてるんだ、俺は。
動揺が顔に出た白石だったが、若槻はそれを若人らしい羞恥心と解釈したらしい。屈託なく笑っていた。
「こちらの相葉君は探偵さんさ。君の佇まいが気になったんだろう」
照れることなく言ってくれたまえ。言われてしまってよけいに赤くなる白石だった。
「幼少時から、少々剣を嗜んでおります」
「なるほど。姿勢がいいわけだ」
「そういう相葉君はどうなんだい?」
「僕は剣はからっきしさ」
「と、言っても探偵だろう?」
荒事のひとつもできなくては困るのではないか、首をかしげる若槻にそんな仕事ばかりではないぞ、と苦い顔。そうしてから相葉はぽん、と胸元を叩いては唇で笑った。
「うん?」
「ここに呑んでいるのさ」
「あれかい、ドスと言うやつかい?」
「それじゃあ、やくざものじゃないか。拳銃だよ拳銃」
呆れた相葉の口調に若槻共々白石まで赤くなっている。主従で同じ顔をしているのだから互いに奇妙なものでも見たよう、同時に笑っていた。
「面白い男だろう?」
相葉と別れての帰り道、若槻は白石にそう言ってみる。若いわりに観察眼が鋭いのか、自分には見て取れないものを何度も指摘してくれた白石だった。
「そう、ですね」
「白石。はっきり言ってくれたまえよ」
「征克さんのご友人にあんな方がいたの、知らなかったんですよ」
「そりゃあそうだ」
何しろ初対面だったからな、からりと笑った若槻に白石は白い目。この男は警戒心というものがないのか、と思わされることはこれがはじめてでもなかった。
「あぁ、それ。相葉君にもさっき言われたなぁ」
「征克さんはもう少しお立場を考えてくださいよ」
「そう言われてもね。僕は所詮は次男坊さ」
そうでしかないというよりは、そうありたいと望んでいる若槻だった。本人のみならず白石とて、それで済まないことは知っているというのに。
「征克さんはそうやっていつまでもふらふらしていたいんでしょう?」
「その通り。僕に事業なんて預けちゃあいけない」
従業員が路頭に迷うじゃないか。あっけらかんと言う若槻だった。それには白石も苦笑気味。重積を担いたくない、という気持ちばかりはわからない。
「それで、白石」
「相葉さまですか。――ちょっと、びっくりするくらい綺麗な男性ですね」
「だろう? 僕も外に出て驚いたんだよ」
実際ジルエットで見ていたときより、目を惹かれたものだった。薄暗い店内では陰が目立つようだったけれど。
――外で見れば、なおのこと、と言ったら相葉君はどう思うことか。
白石は店内での彼を見ていない。そのせいかもしれないとふと若槻は思う。全身に影をまとっているとでも言えばいいのだろうか。相葉の周囲には冷気が漂うかのよう。
――人智を超えたものを、滅したい、か。
何か、そんな経験が彼にはあったのだろう。口にするも悍しいのだろうか。あるいは、そのせいで影をまとうか。
――我ながら趣味が悪いな。
白石と話しつつ、内心に苦笑する。相葉の事情を探りたいわけではない。が、聞かせてくれれば実に面白そうだとも思う。いずれ関係性を深めていけば、聞く日がくるだろう。そう思えば胸が弾んで仕方ない。
「征克さん」
「う、うん?」
「聞いてました? お父上さまが顔を見せるように、との仰せだったそうですよ」
「あー聞こえない。僕はなんにも聞いてないからな」
「それで済まないでしょうに」
「済ませるんだよ。僕は多忙だとでも言っておいてくれ」
「それは構いませんが。何に、多忙なんです?」
にっと笑ってきた年下の友人に若槻は肩をすくめる。それで逃げたことになどしてやらないぞ、と睨んでくるのもまた楽しいものだった。
――これは早急に何かを見つけないとな。
せっかく知り合ったばかりの相葉だ。こんなところで途切れさせてしまうのはあまりにもったいない。彼の興味を引くような事件でも探そうか。思いついて白石に新聞各紙を用意してくれ、言ったらやはり白い目で見られた。
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