風説 都津上事変

朝月刻

ジルエット

第1話




 都津上市の繁華な通りから一本奥へと。その先の路地をもう一度曲がる。と、そこにあるのが小さな店だった。一見して店舗には見えない。店名の由来となった風見鶏が看板代わりにゆらゆらと軒先で揺れていた。木製の扉からは中を窺えることもなく、ここがカフェーであると知っているものも少ないだろう。扉には愛想なくジルエット、とだけ記してあった。

 彼は慣れた仕種で扉を開ける。すでに何度となく通っているカフェーだった。最近流行の店とは違って、英国の古きよき紳士クラブの趣きを再現しているのが気に入っている。女給はおらず、給仕もいない。店主が一人、飲み物と案外しっかりとした食事を出すだけのカフェーだった。

 その店主も彼の姿を認めてもいらっしゃいの一言すらない。軽くうなずくだけの無愛想な店主に、ちょんと帽子を取って挨拶を送る彼の口許には笑みがあった。普段から人生を謳歌せんとばかり彼は常に笑みを絶やさない。

 店内は相変わらず空いていた。一組の和装の紳士たちが静かに会話を楽しみ、別のテーブルには三つ揃いを着こなした青年が新聞を開いている。それらを横目に眺めつつ彼はいつものカウンター席へと腰かけた。そうするだけで黙ってコーヒーが出てくるのが快い。常ならば彼も黙ってそれを飲んで帰るのだけれど、今日は退屈の虫が騒いだ。

「何か面白いことは知らないかね」

 店主に言えばじろりとこちらを見やってくる。目つきが悪いだけで人は悪くないと心得ている彼はただ笑みを含んだまま。

「興味深い人物でもいいんだが」

「お暇ですかな」

「まったくもってその通り」

 暇を持て余してかなわない、彼は嘆く。そう言えるだけの身なりのよさだった。傍らに置いた中折れ帽も相当な上等品。第一次大戦による大戦景気に湧いたとはいえ、それももう一息ついたころ。巷ではかえって貧富の差が広がったかのような気がする景色だというのに。

「だったら――」

 ちらりと店主が視線でひと処を指した。見れば一人で座している客。見覚えはないが、と首をかしげる彼に店主はかすかに笑う。

「いままで行き合ったことがなかったのが不思議ですがね」

「常連さんかい?」

「よくお見えですよ」

「どんな人物なんだい」

 それは自分で確かめろとばかり店主は微笑む。それに彼は一も二もなく席を立っていた。好奇心を刺激するということを店主は心得ている、それを思うとジルエット通いがやめられない理由にもなるような。

「失敬。同席させていただいてもよろしいかな」

 テーブルに座した客は彼の声にようやく目を上げた。それまで溶けかけのアイスクリームを放ったらかしにして新聞を読み耽っていた青年だった。

「どうぞ」

 肩をすくめる西洋風の仕種がなんとも決まっている姿のよさ。婦人に寄ってこられてかなわないだろうとよけいなお世話を焼きたくなるほど見目のよい男だった。

「さっきあちらで興味深い人物はいないか、と尋ねたらあなたを教えられてね」

「そうですか」

「どう興味深いのか、興味が湧いたんだ」

「物好きなお人もいたものだな」

 青年はちらりと笑った。そうすると染めてもいないのに赤い唇がどきりとするほど鮮やか。女のようなそれが薄暗い店内に艶冶な色を添える。

「僕は若槻征克という」

 自己紹介した彼に青年は目を見開く。若槻よりは多少、年若いだろうか。まだ三十の大台には乗っていないらしい容貌がなお若く見える。その口許が皮肉に、あるいは楽しげに歪んだ。

「そういえば……若槻鉄鋼産業の次男坊が征克と言ったかな。余談ですがね」

「……おや、ご存知だったとは。あなたは何者なんだい?」

「まったく。警戒心のない御仁だな。――探偵ですよ、僕は」

 仕方ない人だと言わんばかりに探偵は懐から取り出した名刺をテーブルに滑らせて寄越した。そこには愛想なく「探偵・相葉光」とだけ。事務所の住所らしきものと電話番号が記されていたのには驚かされる。

「すごいな」

「そう?」

「電話が引けるとは、たいしたものじゃないか」

「君のところにだってあるだろう」

「……まぁ、ね」

 苦笑いをする若槻に相葉は再びちらりと笑った。若槻の驚きももっともなもの。電話など普及には程遠い。第一、許可が下りない。相葉が相当に著名なのか、業績優秀なのか、それとも門閥と繋がりがあるか、だ。

 ――聞いたことがないなぁ。

 相葉という名に聞き覚えがない。若槻とてまだ青い年齢でしかない、社交界の知己とて多くはないが、まったく聞き覚えがないということはすなわち「こちら側」の人間ではない、ということだった。

「探偵とは、また面白そうだな。どんなことをするのか、聞いても?」

「普通だね、普通。身上調査といえばいいかな。嫁入り前に婚家に悪い噂がないか知りたい、逆に妻に望んだ女が真実処女なのか調べて欲しい、そんな話が多いもんさ」

「ははぁ、なるほどねぇ」

「もっとも――」

 ありふれた話で興が削がれた、とまでは言わないが店主がなぜ相葉を推したのかがわからず首をひねる若槻に相葉は唇を歪める。視線は店主を見ていた。それにはて、と再度首をかしげる。

「あちらが僕を推したのは、僕の二つ名をご存知だったせいだろうね」

 知っているとは思っていなかったよ、相葉は笑って店主を悪戯に睨んだ。だが店主も相当なものだ、そのときにはさっさと視線を外して素知らぬ顔。

「どういうこと?」

 子供のように身を乗り出した若槻に相葉はもったいつけるよう、溶けたアイスクリームを一匙すくった。赤い唇にいやに映えて知らずどぎまぎとする若槻と気づいているのかどうか。

「僕はね、怪異を追う探偵として知られているのさ」

 皮肉な笑みに吸い込まれていく白いアイスクリーム。若槻は寸時、息を飲む。目のやり場にも困っていたけれど、何より怪異とは。文明開化と叫ばれた明治の御代はもう遠い。江戸の昔に返ったかのような言葉を聞くとは。

「面白い!」

「……は?」

「いいじゃないか、怪異。実に興味深い」

 困惑が、興奮にと変わっていく。これが知りたかったもの、と若槻は更に身を乗り出す。鬱陶しそうな相葉がなおたまらない。

「いいね、相葉君」

「何がだい」

「率直に言ってね。僕が若槻鉄鋼産業の息子だと知ると大抵の人間はすり寄ってくる」

「そりゃあ、そうだろうよ」

「僕は家には戻らない、と言っているんだが、聞く耳持たないで寄ってこられるのは迷惑極まりない。君は心から嫌な顔をしたじゃないか」

 それが大変に愉快であったと言えば、頭は大丈夫かと顔を顰められた。それにも若槻は軽やかに笑う。最近ではついぞ覚えがないほど気分がいい。

「立ち入ったことを聞くがね、若槻さん」

「くだけてくれて結構だよ」

「まぁ、遠慮なくいかせてもらうか。――君がご実家に戻らないと大変なことになるんじゃないのかい」

「君は僕が次男坊だって知ってたじゃないか」

「だったら僕が『長男はどうしているのか』まで知っていても不思議はないだろう?」

 相葉の言葉にはじめて若槻は顔を顰めた。それを言われると弱い。兄にあたる男は事実、存在してはいる。母を同じくする紛うことなき兄なのだが。

 ――知られているとは。

 それほど流布しているわけはない話だった。一年ほど前に精神を病んだ兄はいまも実家の座敷牢の中。母だけが看病する毎日だ。専門の医者に見せるとの話もあったらしいが、あまりに外聞が悪いと立ち消えた。思い起こしつつ若槻はにやりと笑う。

「君は優秀な探偵だな」

「これを暴露されて笑う君の神経を疑うがね」

「おや? 僕はお邪魔だったのかい」

「……まぁ、いいさ」

 面倒な手合いと追い返されそうだったとは気づかなかった若槻だ。屈託のない態度はおおらかに育ったのだと示しているようで。

「なぁ、相葉君。なんで君は怪異を追うんだい」

「まったく、君は」

「邪魔だったら邪魔と言ってくれたまえよ」

「これで邪魔と言えるほど僕はひねくれていないんだ」

 鼻を鳴らし相葉は諦めたのか店主にコーヒーを頼む。すっかりと溶けたアイスクリームを飲み干した仕種が案外と可愛い。年若さの表れたそれに若槻は笑みを浮かべ、自分もまた再度コーヒーを頼んだ。

「それで。聞いてもいいのかい?」

「まず君は怪異とはなんだと思っている」

「さて……考えたこともないが」

 話が弾んでいるらしいと品を運んできた店主のかすかな笑み。ひと睨みした相葉を若槻は大きく笑う。

「不思議なこと、あり得ないこと。人の手ではどうにもならないこと。そういうものを僕は怪異、と呼んでいる」

「それは……」

「荒唐無稽と言うかい?」

 相葉の目が笑っていた。端正な青年がするとひどく胸が騒つくそれに、だが若槻は惑わされることなく首を振る。今度微笑んだ相葉のそれは打って変わって見えた。何がどう、と言えるような変化ではなかったにもかかわらず、あまりにも顕著な差がある笑み。

「ある意味では、荒唐無稽だろうさ。でも僕はその荒唐無稽さが好きだね。興味深いじゃないか」

「僕は事実と知っているよ、と言ったら?」

「是非。是非聞かせてくれたまえ!」

 ただの好奇心でもなかった。揶揄する調子でもなかった。きらきらと輝く若槻の目は幼子のよう。屈託なく鬱屈なく。それをどう見たのか相葉は唇だけで笑っていた。

「いや、焦ることはないな。うん。なぁ、相葉君」

「なんだい」

「なんで怪異を追うのか、聞いてもいいかな。僕は面白い話が好きだ。興味深い話には心惹かれる。君は? そういう理由なのかい?」

「退屈で仕方ないって顔をしているものな、お坊ちゃん」

「それを言ってくれるな」

 渋い顔をしつつ、若槻は気分がよかった。初対面とは思えない、話の噛み合い具合が快い。相葉の方はいかに、と見やっても彼の心の内はまるで読めなかった。

「君の言う通りさ。僕は退屈が嫌いだ。黙ってデスクに座っているだとか、社交に勤しむだとか。寒気がするね!」

 虚ろな笑い顔と空虚な会話。どうでもいいような話ばかりで、しかも中身がない社交界でのそれ。若槻は興味を持てたことが一度もない。あるいはそれは、若槻家がいわゆる成金と言われる部類だからというのもあったかもしれない。華族や古い家柄の人々とはどうあっても馴染めなかったし、向こうも若槻家を遠ざける。そんなことを知らずうちに若槻は語っていた。

「まったく君ときたら。本当に警戒心がないにもほどがあるぞ。僕が若槻家に害なす人間だったらどうするつもりだ」

「そんなことをするのかい?」

「する、と言ったら?」

「君はしないな。そんなものに興味はないって顔じゃないか。それより怪異の方がよっぽど、なんだろう?」

 にやりとした若槻に、相葉も似たような表情を。だが、決定的に違う表情。彼は言う。

「僕はこんな世界、滅びちまえばいいと思ってるのさ」


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