第35話

 大無は研究室のドアに鍵を掛け、長い階段を下りながら考えた。……片岡教授は不倫とパワハラでどうしようもない科学者だった。秋山里琴は男性を手玉に取る淫乱な女性だった。九十九元は天才だが、公共機関へのハッキングという多数の罪を犯した。ロリコンだという話もあるが、その実態は知らない。……ハッキングといえば、大無だって九十九同等の罪を犯している可能性がある。何しろ。全部は思い出せないほどなのだから。決して他人事ではなかった。


 彼らが様々な罪を犯したとして、命を奪われるのが妥当な人間だったのだろうか?  罪の深さによってではなく、多数の誰かに知られたという罪の広さによって、裁かれたのではないか?


 1階のフロアに立つと、パッと視界が開けた。その時何故か、片岡に与えられた課題を思い出した。【】を創れというものだ。教授の死で、すっかり忘れていたのだ。


 目の前を、帰宅を急ぐ会社員や学生たちが、他人の迷惑にならないように整然と言葉少なにビルの外へ、そして駅へと向かっている。その駅でシヴァの手によって最初に命を失った痴漢、あれは誰だっただろう?……名前は思い出せない。調べようとも思わない。


 が〝シヴァ〟ではないか、と思った。今、多くの日本人は悪徳ポイントから逃れるために、シヴァが納得する価値観を探し求めているではないか。……そんなことを考えながら歩き始めた。


 ひょっとしたら、片岡教授はを知ったうえで課題を出したのではないか? あるいは彼も、シヴァの誕生に一枚かんでいたのではないか? そういえば教授はシンが学んだ城西先端技術大学でも教鞭きょうべんをとっていたはずだ。


 ――コツコツコツ……、リズムは同じだが、それは自分の足音ではなかった。


 誰かにつけられている?……足を止めると背後の足音も止まる。


 ――コツコツコツ――


 歩き始めると再び足音がついてくる。


 嫌な予感がした。なにぶんハッキングの常習者だ。特にシヴァと関わってからはそうだ。日本の警察だけでなく、中国やインドのそうした機関から狙われていても不思議ではない。


 痛い目に合わなくて済むように、人の多い場所を選びながら駅まで歩き、地下鉄に乗った。歩いている時も車両に乗り込んでからも、尾行を確認しようとしたが、誰も認めることができなかった。


 新宿駅で乗り換え、間もなく最寄駅に着くというときになって問題に気付いた。アパートに帰れば1人になる。もし、尾行している連中が凶暴なやつらなら押し入って来るだろう。どこか安全な場所はないだろうか?


 考えがまとまる前に駅に着き、人波に押し出された。尾行がいるのかどうか、もはやまったくわからない。考えるのも面倒になってアパートに向かった。


 古いアパートは薄暗い裏通りにある。そこまで尾行はなくホッとした。思い過ごしだったのかもしれない。あるいは駅の混雑で、尾行者は見失ったのかもしれない。


 ところが、アパートの前に不釣り合いな黒塗りの大型車が停まっている。尾行どころか先回りされたらしい。


 足が止っていた。堂々と待ち伏せしているということは、この場で殺されることはないだろう。しかし、得体が知れない。それが恐ろしい。閻魔大王の前に立った時より怖かった。


 逃げよう。……大無はきびすを返した。2時間も時間をつぶしたら、彼らは諦めて帰るだろう。


 ところが、いきなり背後から腕を取られた。


「エッ!」


 相手の握力が強く、まるで万力で固定されたようで、振り返るのも厳しかった。


「ウブ、……有無大無さんですね」


 背後で、潜めた声がする。


 ここは違うと応じるところだ、と思いながら「ハイ」とうなずいていた。


「警視庁公安部の者です。ここでは何なので、車に乗っていただけますか」


 相手は2人、依頼のようで、いなと言わせない口調だった。1人は人間で、腕を握っているのはアンドロイドだ。


 引きずられるようにして車に乗った。対面に座った刑事に警察手帳を見せられたのは車内でのことだった。アンドロイドの刑事は隣にいて、腕を軽くつかんでいた。


「やってくれ」


 人間の刑事が指示すると、車がゆっくり動き出す。飛べるはずのそれが、隠れるように地べたを走った。

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