第33話
アートマンの正体がアジェイ・シンというインド人だと判明し、シヴァ対策室の全体会議は氷河のような緊張から解放された。シンを知っている者は皆無だったが、少なくとも彼が家族の死で犯人を恨み復讐しようという普通の人間だということに安堵しているように、沙也加には見えた。
全体会議は軌道修正され、定例報告に移った。2班は中国にあるシヴァが日本版の原型だと再度報告し、3班、4班、9班からはシヴァが複数の端末をまたいで働く分散管理システムを採用しているということと、シヴァ間の暗号化されたデータのやり取りは簡単には読み解けないだろうといったことが報告された。
沙也加が驚いたのは11班の報告に
「有無大無といったら、7、8年前にヒットゲームを創った伝説のエンジニアですよね?」
亜里沙をはじめ、沙也加と同世代のエンジニアたちが興奮していた。
「あっ!」
沙也加は打たれたように大きな声を上げていた。多くの視線が彼女をとらえた。
「どうしたね?」
山本に尋ねられ、ひと月ほど前、大無と偶然会ったことを話した。
「その有無という男が、殺し合いのゲームが始まった、と言ったのだな?」
山本が目を細めた。
大無が疑われている。あの時はそんな雰囲気ではなかったけれど。……新宿駅での懐かしい友人との記憶が汚れていくのを感じながら、おずおずとうなずいた。
「でも、シヴァの件は中国での流行で誰でも知っていましたから、別に彼が……」
友人をかばうのを、山本が遮った。
「殺し合いという点ではそうだろう。しかしその男は、中国版のシヴァに
連絡を取れるのかと尋ねられ、「できません」と答えた。実際、彼の電話番号も勤め先も知らなかった。
山本は11班に、大無に関する情報を集めるよう命じた。
定例報告が終わった後、ロリータファッションのレオが手を挙げた。
「ちょっと思いついたんですけどー」
「なんだね?」
山本が渋い表情を作った。
「シヴァは家族の復讐のためではなく、社会に対する報復を行うためにアプリを作り始めたと思うんですけどぉ。シンの財産が親族に取られていることも、シンの判断に何らかの影響を与えていると思うのよね。家族の悲劇は、アプリを使いはじめるきっかけに過ぎなかった。……そんな風に感じるんですけどぉ」
「当初からテロを考えていたと思うのか?」
智頭が訊いた。しかし彼女は、質問には答えず、言いたいことを言った。
「で、シヴァの圧縮ファイルの件ですけど、シンのアカウントからなら削除できるんじゃないかなぁ。自分が創ったプログラムに
「なるほど。……シンのアカウントか。……どこかに残っているかもしれないな」
山本の低い声が会議室に流れた。
「19班、シンのアカウントを当たってみます」
班長の
そうだろうか?……沙也加は疑問を覚えて手を挙げた。
「スタッフの水卜さん、何か?」
山本が空気を読めない人間を見る目つきで沙也加を指名した。
「あぅ……」失敗した、と思った。けれど後悔先に立たず。覚悟を決めて立ち上がった。
「シンは敬虔なバラモン教徒ということです。私の実家が寺で父は僧侶です。父親としてはちゃらんぽらんですが、こと宗教面に関してはひどく実直で、自分にも例外を認めないところがあります。もし、シンが宗教を信じている
沙也加の意見に、多くのエンジニアが首を傾げた。
「そうとも言えるわねぇ」
レオが天井を見上げながら他人事のように言った。それが
「もう一つ、以前から気になっていたことがあるのですが、教えていただけるでしょうか?」
「ん、何だね?」
「中国では3年も前からシヴァを政府の公認アプリとして普及させています。……にもかかわらず、政府や党幹部からシヴァの被害者が出たという話を聞きません。
「それについては私も疑問に思っていた。誰か、答えてもらえるかな?」
川野がエンジニアたちに問いかけた。
彼らには答えがないのだろう。再び沈黙が訪れた。
すると公安調査庁から来ている
「これは推測ですが、中国版と日本版で大きな違いはないものと考えます。違うのはアプリではなく法律の方で、中国共産党は権力体系の最上位に置かれている。それで、シヴァに置いても党幹部に対する告発が法の適用外とされているのではないか、と……」
彼女の話は、総務省内部で語られていることと同じだった。
「私の意見は違います……」そう口を開いたのは智頭だった。彼は警察庁からの派遣組だ。「……前回、中国国内にもシヴァの日本語版があると報告しました。それと、3班が解析した国内のものとを比較検討しました」
「ほう……」川野が身を乗り出す。
「それは国内にあるどのバージョンとも異なっていました。内部ファイルのタイムスタンプを信じれば、中国内のそれは日本国内にあるどのバージョンよりも古い。……有無大無が日本語化したものかもしれないわけですが、……私は、中国政府こそがシヴァの日本語版を作成して日本国内に流布させたものと推測しています。証拠はなく、あくまでも推測ですが」
サイバー戦争。そんな言葉が沙也加の頭を過った。
「そうだとしたら
あっ!……沙也加は思わず川野の顔を
「それは断言できません。しかし、その可能性はあるかと」
智頭が答えた。
「ならば……」山本が腰を上げた。「……我々にだってシヴァをコントロールできるということだ」
「中国がシンのアカウントを握っている可能性はありませんか?」
亜里沙が声を発すると、会議室が静まった。
「シンがどんな人物か、彼のアカウントは何か、……ここでグダグダ考えても始まりません。シンを確保するのも彼が何を考えているかも、それは警察やCIAに任せ、私たちはシヴァの解析と弱点の発見に全力を尽くしましょう。中国のエンジニアにできて私たちにできないことはないはずです。アカウントは、場合によっては乗っ取るしかありません」
藤堂が大胆なことを言って皆を驚かせた。そうして、その日の会議は終わった。
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