ゲームチェンジャー
第22話
――アメリカ合衆国ニューヨーク、プレミアム劇場……、エグゼクティブ向けのクラッシックコンサートが開かれていた。700人ほど入る劇場は、若いカップルや熟年夫婦、不倫カップルで満席状態だった。
ジュゼッペ・タルティーニ、ヴァイオリンソナタ・ト短調第3楽章、悪魔のトリルの旋律は心地よく弾みながら、いつのまにか、嘆きと苦悩の中にのみ込まれていった。
強く激しく弦がはねる。その時あってはならないことがおきた。悪魔の弾くヴァイオリンの第1弦が切れたのだ。チンという金属が欠けたような音は、客席に届くほど大きくはなかったが、観客の注目の中では隠すことができなかった。
弦はコンサートの前に張り替えたのに、どうして?……悪魔、いや、ヴァイオリニストの心情はその表情に現れていた。眉間に深い縦皴が刻まれた。
彼は
一流ヴァイオリニストの悲劇に一部の観客は同情したが、多くは悲劇の一瞬に立ち会えたことに幸福を感じた。
「これでSNSの話題ができた」
声にはしないが、彼らはスマホに手を伸ばした。録音録画は禁じられているがSNSでのツイートは禁じられていない。さりげなくカメラモードを起動する。
切れた弦に
彼は清掃用の作業着を身につけ、靴は海兵隊が使う頑丈なものを履いていた。作業着の大きなポケットの全てに、自動小銃の予備弾倉が押し込んである。そしてその手には自動小銃を握り、背中にも予備のものを背負っていた。
「どうしたんだ、パトリック? どうしてここにいる? どうして自動小銃なんか……」
舞台の袖にいたスタッフが驚いて目をむいた。
「思い知らせてやる。どいてくれ」
「演奏中だぞ」
「だからだ。どいつもこいつも……」
彼が目を怒らせているのでスタッフの腰が引けた。
その間隙を抜き、映画のヒーローのような機敏さでかつての同僚の前をすり抜けた。
「止めろ、パトリック!」
彼の背中をスタッフの声が追った。
スタッフは友人だったが、パトリックの解雇に際し、何の援助もしてくれなかった。パトリックの心には小さな染みのような恨みがあった。
彼は振り返り、銃口を彼に向けた。
「ホールドアップ」
地を這うような低い声だった。
スタッフは両手を上げて後退した。
――フン……、パトリックが鼻を鳴らし、ステージに向かう。恨みはあるが、友人ゆえに見逃してやった。
ステージ上のパトリックの姿に気づいた観客がざわついた。作業着はもとより、武骨な自動小銃はその場に似合わなかった。
演奏家たちはパトリックには気づかなかったが、観客のざわつきはその鋭敏な感性で察した。しかし客席は暗く、ざわつきの理由を確かめることはできなかった。弦の切れたヴァイオリンで演奏を貫徹することに注力した。もし客席が明るかったなら、観客の視線で事態を察することができただろうに……。
「ホールドアップ!」
パトリックが叫んだ。
彼がステージ中央に立って初めて、ヴァイオリニストが演奏を止めた。その顔には自動小銃に対する恐怖と、強制的に演奏を中断された安堵と戸惑いがにじんでいた。
――ドドドドド――
客席の天井に向け、自動小銃が火を噴く。弾丸が天井の漆喰に食い込み、ぱらぱらと白い粉が降った。
「キャー……」
悲鳴が沸き起こり、高価な衣装を汚すまいと一部の観客は席を立った。
「黙れ。金持ちども!……
パトリックは自分のユーモアに満足そうな笑みを浮かべ、銃口を観客席に向けた。彼の想像では、観客たちは慌てふためいて逃げるはずだった。
「止めろ、パトリック!」
舞台袖でかつての友人が叫んだ。
「テロリストめ、地獄に落ちろ!」
その声は暗い観客席で生じた。彼らの手には、失敗に終わる演奏を撮影していたスマホがあった。それらがステージ上のパトリックをとらえた。多くの撮影者は〝シヴァUSA版〟を起動していた。それは昨日、裏サイトに公開され、あっという間に広まっていた。
瞬時に、パトリックの悪徳ポイントが10000を超えた。罪は業務妨害、器物破損、恐喝、殺人未遂と様々だ。
――グアッ……、パトリックの
心筋梗塞の苦痛に悶えるパトリックの放った弾丸は天井に、床に、あるいはピアノに穴をあけた。極一部の観客も傷を負ったが、命を失う者はなかった。
§
その頃、アフリカと中東のいくつかの権威主義国家で政権が倒れた。
「独裁者に死を!」「我々に自由と食べ物を!」「大統領一族の独占を許すな」「富の公平な配分を!」「汚職の撲滅を!」
世界各地で国民が声を上げ始めた。彼らには富も武器もなかったが、スマホはあった。シヴァで独裁者を葬り、軍隊や警察隊に対抗した。
苦境にあえぐ国民はシヴァを〝ゲームチェンジャー〟と呼んだ。
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