第19話

 有無大無は、シヴァが利用している顔認証システムをより精度の高いアメリカ製のものに変更した。さらに、意図的な誤認を不可能にするため、本人確認プログラムへの外部端末からの直接入力を排除した。


 そして最後に、GPSの位置情報を組み込み、物理的に国外にいる登録者へのポイント付与を止めた。中国政府は納得しないだろうが、法律は他国域に及ばないという原則にのっとった公正な基準のはずだ。


「これで中国の誰かと誤認されてポイントが付加されることはない……」


 大無はシヴァの改善版を作り上げた。


「問題は……」モニターを睨み眉をひそめた。


 シヴァの改良には大変な労力が要ったが、それ以上に、作成したものを中国のダウンロード用のサーバーに入れ替えることの方が難しい。何分中国は監視大国だ。そのサーバーにアクセスするのはもちろん、そこに改編したプログラムを置くのは至難の業だ。下手をしたら命が狙われるだろう。実際、作業中にメッセージが届いて命が縮む気分を味わった。


 ――whoだれ?――


 そんなメッセージだった。それを送ってきたのがAIの自動セキュリティーシステムだったのを幸いに、こちらもAIを対応させ、さもうっかりAIのミスだったように偽装して危機を乗り切った。


 他国の公式アプリに手を加えた罪の意識はない。もともと、向こうのアプリに欠陥があったのだから。


 とにもかくにも、全ての作業を終えるのに2年の歳月を要した。その間、職場を2度変わった。1度は作業を終了したからで、もう1度はメーカー側のエンジニアが無能だからだ。


「最後のチャンス……」と言っていた派遣会社の佐藤だったが、言ったことを忘れたのか、大無が定時退社に努めたことを評価したのか、その後も仕事を斡旋あっせんしてくれていて、片岡教授の研究室で働くことになったのも彼の斡旋によるものだった。


§


 片岡研究室の片岡がシヴァによって他界し、自撮りと思しき不倫の現場写真がどこから流出したのか、と研究所の助手と学生たちが話題にしていた。


「……教授も、加藤のように考えていたはずだ。秘密にしたいファイルを置くなら、そこほど安全な場所はない」


 円谷が片岡のパソコンを横目に肩を落とした。


「……でも少しほっとした」


 里琴がささやく。二宮が小さくうなずき返した。


「おい、お前ら。教授が死んだんだぞ。それはないだろう」


 目を三角にした円谷がいた。


「ハイ」


 大無は手を上げた。空気が張り詰めた研究室内に一石を投じて見よう。それはちょっとした好奇心、悪戯心だ。円谷には悪いが、片岡教授に対する哀悼あいとうの気持ちは全くなかった。


「何です、有無さん?」


「僕は、片岡教授のパソコンを覗いたことがあります」


 円谷の瞳が点になった。


「教授に、何か頼まれたのか?」


「いいえ、興味本位で覗きました」


「いつも遅くまで残っていると思ったら、そんなことをしていたのか」


「ボクは、ここで教授のパソコンに触ったことはありません。外部からハッキングしました」


 それは事実だった。シヴァの改善版をアップロードする際、片岡のパソコンだけでなく、所員全員のパソコンを利用したのだ。


「ハッキング!……大学のセキュリティーを破ったのか?」


「ハイ、医療ロボットのデータに不明点があったので、確認させてもらいました」


 しれっと嘘をついた。


「たとえ仕事でもハッキングはいただけないな」


 言葉とは裏腹に、加藤がおもしろがって微笑んだ。


「有無が覗けたということは、外部の人間が画像を持ち出すことも可能ということか……。もし、恨みを持つ者の犯行なら、写真に出ていない被害者が、告発者の可能性が高い」


 円谷が推理を述べた。


 二宮が里琴に疑いの目を向けていた。


「外部から研究室のパソコンに入ることは可能でした。でも、教授のパソコンにはシヴァにあるような画像はありませんでした。おそらくプライベートな写真は皆無といっていいと思います。画像データは、工学部で作っているロボットの部品ばかりでしたから」


「そ、そうか……」


 円谷が胸をなでおろしたように見えた。


「まさか……。有無、俺たちのパソコンを覗いたりしていないだろうな?」


 加藤が詰め寄った。


「もちろんです。サーバーと教授のパソコン以外には、アクセスしていません」


 再び嘘をついた。情報端末というブラックボックスは、利用する者の頭脳の中身と同じだ。他人にとって、それほど興味深いものはない。他人の頭脳の中を覗くことができるとしたら、我慢できる者はどれくらいいるだろう? 他人の眼があれば抑制できる行為も、自分の行為が誰にも知られないと分かったなら、多くの者が一線を越えてしまうに違いない。その証拠に、多くの人間がパートナーの不在時にそのスマホを覗き、喧嘩けんかや対立、不信、別れや訴訟といった悲劇に至っているではないか。


 その時、大学の事務員が研究室に駆け込んできた。


「円谷さん、ちょっと……」


 事務員は言葉をにごし、第一助手の円谷を連れ出した。


「やっぱり死んだのね」「間違いないな」「まいったな……」


 研究所の面々か顔を見合わせた。


「それもそうだが、……教授はどんな死に方をしたんだ? ついさっきまでここにいたんだぞ」


 加藤が顔をしかめた。


「シヴァによる死は、心筋梗塞と決まっています」


「そうなのか、よく知っているな?」


「中国ではそうです……」


 大無は疑われたくなくて中国を引き合いに出した。


「……今朝、総務省に努めている同級生にばったり出会ったのですが、日本政府はシヴァを公認していないそうです」


「それはそうだろう。人殺しを奨励しょうれいするはずがない」


 加藤が常識的な意見を披露する。


「でも、犯罪の抑制にはなるわよね」


 里琴が別の視点から意見を述べた。それこそが中国政府の公式見解だ。


「見ろ、沢山死んでいるんだぞ。犯罪の抑制どころじゃないだろう。これじゃ、まるでパンデミック、いや、戦争だ」


 加藤が示した被制裁者リストにはシヴァによって亡くなった国民の氏名が並んでいる。片岡の名前はすでにリストの後方に下がっていた。

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