もう一つのデスゲーム
第8話
F先端技術大学情報工学部片岡研究室は六本木の高層ビル内にあった。その目的は基礎研究を超えた実用的な収益性の高い情報システム開発にある。
派遣社員の
大無が研究室に入ると
「こんなこともできないのか!」
怒鳴り声と共にクッキーのブリキ缶が壁に当たり、ガンと鈍い音をたてた。それはすぐに床に落ちてカラカラと床を転がった。
大無は転がる缶に目を落とした。その中にあるのは怒りか、空虚か……。
「すみません」
「こんなもので結果が出せるか。アイコにどんな指示を出したんだ!」
アイコは研究室専用のAIの愛称だ。プログラムはアイコが書くが、ハードを運用するためのアイディアには、まだ人間の発想力が必要だった。動作検証も人間が行う。
片岡は優れた研究者だが、仕事のできない助手、理解力のない学生に対しては平気でハラスメントをする。怒鳴るだけでなく制裁的な仕事を増やしたり、意味のないプログラムを書かせたり、あるいは無駄なレポートを書かせたり……。時には、物理的、肉体的なサービスを要求したりする。地位や名誉、権力と女が好きなうえに、思いやりというものがない。教育者としては、いや人間として、性格に問題があるというのが大無の片岡観だ。
一方、二宮翔は見た目だけでなく性格もいい。派遣社員の大無を、他の研究者に対するのと同じように扱ってくれる。だからか、研究室内だけでなく情報工学部の女子大生にも人気があり、
片岡が二宮に厳しいのは、彼の人気に対するひがみかもしれない。あえて片岡の弁護をするとすれば、二宮には情報システムに関するセンスがないことだ。だから失敗も多い。片岡が怒るのも当然といえた。
「お前の頭は何のためについているんだ? 中にはないがつまっているんだ! まさか、クッキーじゃないだろうなぁ」
片岡のパワハラは続いた。
聞き苦しい。……大無はむかつきを覚えた。二宮に代わってやろうか、と思った。パワハラを引き受けるのではない。彼の仕事を代わってやるということだ。
名乗りをあげかけ、待てよ、と思った。その仕事は、片岡が教育のために与えた課題かもしれない。それなら、自分がやるのは無意味だ。
「こんなものも作れないなら、大学なんてやめちまえ」
片岡が足元の缶を蹴る。鋭い反響音に、研究室内の緊張が倍加した。
「しょうがない。有無、お前やっておけ」
彼がさらりと言った。まるで既定路線のようだ。
「……わかりました」
もともと手を挙げても良いと思っていたのだから否やはない。まして先に学生に与えられた仕事だ。難しくはないだろう。そんな軽い気持ちで応じた。仕事があるということは、悪いことではない。
片岡が、二宮の隣で立ちすくんでいた里琴の身体を乱暴に押しのけ、ドアを蹴破るような勢いで研究室を出ていった。
「仕方がないわよ、翔……」
里琴が二宮を慰める。
大無は見守ってやりたかったが、派遣社員に他人の恋愛模様を見守る余裕はなかった。
「二宮君、仕様書をください」
大無は片岡が彼に要求した仕事の引き継ぎを求めた。そうして内容を確認して驚いた。
【日本人の価値観を世界水準に導くためのプログラム】
片岡の指示は、途方もないものだった。価値観といった抽象的なものを言語化するだけでも難しい。それを世界と日本とで比較するだけでも厄介なのに、世界水準に導くという〝作業〟まで要求されている。学生の二宮にできる
いや、自分だってできるかどうかわからない。……胸の中に暗いものが満ちた。
里琴が口を開く。
「そんなもの、誰もできるはずがないのよ。片岡教授だって、自分じゃできないから翔をだしにして有無さんにやらせようとしているのよ」
彼女の意見に、なるほど、と思った。とはいえ、自分にだってこんなシステムが組めるとは思えない。そもそも、他人の価値観を変えるなんて、どうしたらいいというのだ?
「有無さん、申し訳ありません」
二宮が頭を下げていた。
「いいえ。僕なら大丈夫です」
そうは言ったものの、何の根拠も自信もない。
大無は、二宮の憂いに満ちた瞳に彼の人柄の良さを感じながら自分の端末の前に座った。おもむろに作業途中のシステムの検証シミュレーションにとりかかった。
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