第4話

「すみません、乗ります」


 水卜沙也加が庁舎のエレベーターに飛び乗ると十数名の顔の中に江東陽介えとうようすけのそれがあった。同じ係の3年先輩だ。


「おはようございます……」彼の隣に立ち、声を潜める。「……大変なことになりました」


「ん?」


 彼が瞳を光らせた。


「シヴァです。アプリの」


「シヴァ!」


 彼の声が大きかった。周囲の視線が彼に集まる。他の部署でもシヴァに注目している。だからといって、教えてくれと頭を下げる者はなかった。素知らぬ素振りで耳をそばだてている。


「どういうこと?」


 江東が顔を寄せ、声のトーンを落とした。話を後回しにしなかったのは、周囲の者にも聞かせる前提だろう。


「新宿駅で人が死にました。シヴァで殺されたんです」


 教えると、彼が目を点にした。驚いているのではなく、疑っているのだ。


 背後の50代の職員の喉がクククとなった。笑ったのに違いない。他の職員の多くが、期待外れの吐息を漏らした。


「朝から趣味の悪い冗談はやめてくれ。ここは中国でもインドでもない」


 周囲の目を意識したのだろう。江東が言った時にエレベーターが止まり、2人は他の幾人かと共に降りた。


「冗談なんかじゃありません。自分のスマホ見てください。シヴァを削除していないなら、それが勝手に日本語版になっています。そこに新宿で死んだ壇多なんとかというおじさんの名前があるはずです」


 抗議しながら事務室に向かう。自分のスマホでシヴァを見せるつもりはなかった。何分、悪徳ポイントが入っている。知られたくなかった。


「ホントかよ?」


 彼が口をとがらせてスマホを手にした。


「お、……お、……本当だ!」


 彼が事実を認識するのと、沙也加が部署のドアを開けるのが同時だった。


「おはようございます」


 視線が合った係長の彩川雛乃あやかわひなのに向かって頭を下げた。


「どうしたの、大きな声を出して?」


 雛乃が江東に向いて眉をよせた。


「これです。これ、シヴァです……」


 彼がアワアワ言いながらスマホを示し、シヴァが日本語版になっていることと、それに沙也加が気づいたことを説明した。


「……これで人が死んだらしいです。今朝、新宿で。……おい水卜、係長に説明しろよ」


 彼に求められ、沙也加は彼のスマホのシヴァを開いてメニューから〝被制裁者リスト〟を開いて見せた。そこで、言葉を失った。


「どういうこと?」


 雛乃の視線がスマホから沙也加の硬直した顔に移った。


「2人目が死んでいます……」


 沙也加は〝被制裁者リスト〟を指した。1行目に壇多怜治の名前があり、2行目にも倉熊等くまくらひとしという名前があった。


「……この壇多というのが新宿で亡くなった人です。痴漢が見つかって、乗客たちにめっちゃ写真をとられたのです。さっきまで、リストには壇多さん1人でしたが……」


 2行目の熊倉の名前をタップする。プロフィールの住所は大阪だった。ページの最後の〝告発記録〟をタップする。


 最初に表示されたのは路上に寝ている彼の姿だった。伸び放題の髪と髭、汚れたコート姿で、傷だらけの布袋を握りしめている。コメントに【歩道で寝るな。通行の邪魔、死ね】とあった。


「彼はホームレスのようですね」


「それだけの理由で?」


 雛乃の疑問に応じ、次々と写真を開いてみる。昨夜、彼が飲食店を訪れ、食べ物をねだる動画があった。彼は自分の不潔さを利用して飲食店を訪ね、食料や金銭を要求して生きていたらしい。結果、【脅迫】【業務妨害】といった悪徳ポイントが店員や多くの客によって加えられていた。


「なるほどなぁ」


 江東が納得の声を上げた。これで日本の治安も良くなりそうだ、と言いたげだ。シヴァによって町場に潜む特殊サギグループや違法な客引き、チンピラを一掃できるのは中国が証明している。


「それにしても、数日前からシヴァが動いていたということね。それに私たちは気づかなかった。いったい誰がシヴァの日本語バージョンを?」


 深刻な声を発した雛乃が自分のスマホのシヴァを開き、江東のものと同じ状態であることを確認した。


「さあ?」


 沙也加と江東が顔を見合わせる。


「法律は六法全書や判例集を読ませればなんとかなるとして、日本人の倫理観を覚え込ませるのは簡単ではないでしょ?……言語化されたものなんてないのだし……。あら……」


 アプリを確認しているそばから被制裁者リストに新たな名前が増えた。女性の名前だった。


「大変だわ。こうしちゃいられない」


 雛乃が跳ねるように席を立ち、ちょうど出勤した自治行政局国民情報管理課長のもとに向かった。


「どうなるの?」


 沙也加は係長を見送り、江東に尋ねた。


「さあな」


 彼にも見当がつかないらしい。それも当然だった。課長にさえ判断がつきかねるようで、係長を伴い局長室に向かった。シヴァ問題は、下っ端の沙也加や江東などには想像も及ばない場所で対処されることになったのだ。


「シヴァ、……ヒンドゥー教の破壊神だったよな」


 係長たちが局長室に向かう様子を見ながら江東がつぶやいた。


 沙也加の脳裏を悪夢が過った。中国政府がシヴァを導入した3年前の様相だ。あのころの中国は、知人同士が告発される前に告発して相手を消し去ろうとする地獄のような世界だった。そんな状況が日本にもやってくるのかもしれない。


「破壊と再生を司る神様です。アプリが神様だなんて馬鹿げてますよね」


 シヴァそのものではなく、それを神の様に利用した中国政府を批判したつもりだ。


「神様は金だけで十分だけどな」


 江東の顔がゆがんだ。

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