第4話
守谷と別れた河崎はホテルにチェックインし、条件反射となっている点検を済ませて盗聴他の危険がないことを確かめ息をつく。相沢組の目が光っているとはいえ守谷が言うようチャイナマフィアが入っているのならば警戒を怠るわけにはいかなかった。
そうしてからようやく河崎はビジネスバッグを開く。中から出てきたのはごく一般的なノートパソコンだった。が、公安捜査員に支給されている特殊なもの。回線も特殊なそれを使用しているおかげでハッキングの心配も限りなく少ない。
――頼む。
それでメールを一本打っておいた。河崎が所属する公安には非常に有能な情報収集員がいる。中でもハッキングの得意なものがいて頼りになる。だがいまは機械の腕ではなく情報収集の腕を求めていた。
「……ん?」
三時間後。メールが返ってきたのに河崎は眉根を寄せる。意外なものを、見た気分。メールには依頼した調査の概要と共に会見場所が記されていた。詳細は現地で、とのこと。
どういうことだ、と首をかしげつつ河崎は夜の街に出て行く。駅前は明かりも華やかで、けれど度外れて品位を失うほどでもない。賑やかな客の多いチェーンの居酒屋が指定されていた。
「あ、こっちです!」
まるで職場の同僚と待ち合わせでもしていたかのような明るい態度。職場の人間であることには違いないか、河崎は内心に苦笑して彼の席へと歩いて行った。
「待たせたな」
少しも、そう言ってにっと笑う目だけが鋭い。河崎の部下の一人である相楽という情報の専門家だった。
「早速ですけど」
和気藹々と飲みながら仕事をしてでもいるような相楽だ。あながち間違いでもない。バッグから取り出したクリアファイルから数枚の紙片が河崎の前に開かれる。
そこには彼が依頼したものの詳細が。河崎は昼間、守谷に連れて行ってもらったエスニック料理店チャイチャイとカフェ・ブラックロータスの調査を頼んでいた。守谷は河崎の協力者ではあるけれど、頭から鵜呑みにはできない。むしろ、あの話を情報端緒として相楽が更なる調査をする。それを見越してのことだった。
「……ほう」
短時間だったわりに細かな調査であるのはさすが相楽といったところ。やはり守谷の話は正しかった。双方共にチャイナマフィアの隠れ蓑となっている。
「ほぼ確定でいいんじゃないですかね」
ちょい、と相楽が指で指し示したのは「地下銀行」の文字。双方の店は違法送金の窓口になっていると。薬物に加えてそれとは頭の痛いことだった。
「あと……」
再び相楽の指先。それに河崎は顔を顰める。
「大陸じゃなくて香港ですね」
「三合会か」
「です」
「三合会系の人間がこんなところで何を企んでいる……」
「元をただせば反清復民とは言ってもいまはただのマフィアですから。利権でしょう」
「その利権がわからん」
栄えているとはいえ都津上は地方都市だ。ここまできたならば東京に出た方が利益は大きい。そのぶん、地元やくざがしっかりと押さえてもいるのだが。
「もう少し調査を続けます」
「頼む。にしても、お前。なんで現地にいる」
「係長命令ですよ」
そう言って相楽は肩をすくめた。日に焼けた闊達そうな男がするとさまになっていて、体格はよいけれどアスリート風には見えない河崎は時々相楽が羨ましくなる。
「現地でバックアップしろとのことです」
「……そうか。ありがたい話だ」
「係長、気にかかってるみたいですよ」
そっと相楽の声が低く静かに。そういえば、と河崎は思い出す。
「そうだったな、お前――」
「えぇ。あいつのバックアップに入ってたのも、俺でした」
河崎の失踪した部下は相楽の同僚でもあった。大多数の警察官より遥かに公安捜査員は殉死率が高い。しかもそれを公表できないことが多々ある。失踪した部下も現時点で死亡扱いだった。
「痕跡は、あったか」
相楽のことだ、何も調べていないとは河崎は思っていない。職務の合間に自ら調査したことだろう。案の定彼は無言で首を振る。
「神社に向かうとのことで。それが最後の連絡でした」
「神社?」
「戎神社っていう、地元の氏神さんですかね」
さすがにこの土地の生まれではない河崎だ、都津上署に勤めていたとはいえ知らなかった。気を利かせた相楽がスマホで観光案内と思しきものを見せてくれたところ、小さな名所とは言えないような神社だった。
――そう、こういうところだったな。
仄かに懐かしさが浮かぶ。広々と栄えた街を離れると途端に田舎の景色になる。海辺には大きなショッピングモールがあり観覧車がきらきらと夜に輝く。かと思えば郊外では牛や豚を飼っていたりする。それが都津上だった。地元の人だけが知る名所旧跡がいくらでもあるわりに、知名度はない。それでいて観光案内にしっかり載っていたりする。
「式年祭だとのことで、大きな祭りだったらしいです。その祭りに行って……」
消息を断った。あるいは、断たれた。相楽の話によれば祭りに変わったことはなかった様子。地元の人も大勢参加し、観光客も訪れて盛況のうちに終了した祭り。
――そこでお前に何があったんだ。
消えてしまった部下に心の中で問いかける。明るい顔をしていながら、目の奥に拒絶の扉があるような男だった。童顔で潜入捜査に向いている、笑っていた顔がいまも浮かぶ。
「行ってみます?」
河崎の躊躇を見透かした相楽だった。別件で来ているのに、よけいなことはできない。そう考える河崎に彼はそれほど離れたところでもないですから、と小さく微笑む。
「そう、だな。行くだけだが」
ためらった末、河崎はそう言った。ならばとすぐさま相楽は席を立つ。別件が控えていて使える時間は多くはない。にっと笑った相楽の手には車の鍵。
「手際がいいな」
見れば彼は酒を飲んではいなかった。こうなる、と予測していたかのように。優秀な情報収集員とはこのようなものかもしれない。
彼の言うとおり戎神社はそれほど遠くはなかった。相楽が運転する車でほどなく。夜とあって人の気配はなく、少しばかり不気味ではある。ぱたんと車のドアを閉める音が響いた。
「ん?」
その中で河崎は違和感を抱く。神社が、荒れている。先ほどスマホで見せてもらった写真とは格段に違う。壊れているわけではない。気配が荒んでいる。
「どうも、神主も消えたらしいんですよ」
「は? どういうことだ」
「ここは――」
そう言って相楽はざくざくと玉砂利を踏み鳴らし進んで行った。拝殿の前まで行けば荒れ方は顕著。しばらく誰も訪れていないのが明らかだ。
「式年祭のたびに、妙なことが起こる。そう言われていたそうです」
「妙とはなんだ。あいつの失踪と」
「関係があるかどうかは、俺にもわかりません。ただ、そんな情報は、あったんです。式年祭のとき、老人が消えるって話は」
もちろん彼にその情報は渡してあった、相楽は言いながら首を振っていた。まだ若いからと油断したわけではないだろうけれど、と。
「年齢がどうの以前に、なんだその話は」
「戸籍、あたったんですけどね。本当に失踪ですよ。大量失踪ですね。昔は役所と絡んでたのか、書類を書き直したらしき形跡もありましたから」
「な――」
「あいつはそれに、何があったのかわかりませんけどそれに、巻き込まれたのかな、と」
ふっと息を吐いた相楽は足元の小石を蹴る。遊びのようで、悔しさのようで。それから河崎に顔を向けた。
「今回も、氏子連中が消えてるんですよ」
「待て」
「こっちは失踪かどうか、まだわかりません。ただ行方が知れていないことは確かです。長期の旅行かもしれませんけどね」
「あいつと神主と氏子と揃って失踪だ? ――ここで、何が起きている」
問わず語りの呟きに相楽は答えない。回答などないだろう。暗い神社の境内で相楽の顔は見えない、河崎の顔も。どちらからともなく長く息を吐く。やりきれなかった。
「何が、あったんでしょうね」
哀しげな相楽の声音。暗すぎて見えはしなかったけれど拝殿を見ているのだろう。その視線を追うようにして河崎は不意に肌が粟立つのを覚えた。
――なんだ、これは。
あまりにも唐突な悪寒、否、恐怖感。高まり尽くした違和感が怖気となったかのような。これよりは淡い、だが最近似たような覚えが。眉を顰めた河崎は記憶を探る。
――スーツの男。
すぐ理解が及んだ。守谷とエスニック料理店から出たところですれ違ったスーツに帽子のあの男に感じた違和感とも寒気ともつかない感覚。これと酷似していたのだと、いま気づく。
「どうしました?」
河崎の気配に相楽が首をかしげていた。それに彼はなんでもないと無言のまま首を振る。見えたかどうかはわからない。ただ通じはしたらしいとは後になって思った。
河崎は、はじめて都津上で囁かれた風聞に実感を持つ。卒業配置で懸命に過ごした土地。警察官のなんたるかを実地で覚えた河崎にとっての青春の地。
――都津上は、こんなところだった……か?
思い返せば、思い当たることがないとは言えない。昔ながらの住人の閉鎖性は珍しいものではなかったし、先輩方によればどこにでもある話だとのことで気に留めてこなかった。
――だが、この辺の閉鎖性は尋常じゃなかった気がする。
戎神社に覚えはなかった河崎だが、巡回任務でこの周辺には訪れている。その際の記憶が蘇っていた。警官相手でもひどく余所者を嫌った老人たち。外に出て社会参加を、と促す福祉事務所の人間も頭を抱えていたと聞いた気がする。いっそ事件性があれば介入もできるのだが、家族と家の中で静かに過ごすのが一番だ、と拒まれては引き下がるしかなかったと言っていた先輩。ここはこういうものだ、都津上生まれの先輩は諦めたよう肩をすくめた。
――なんで俺はいままで忘れていたんだ。
後悔が我が身を焼いていた。もし、思い出していたら。他愛ない話と忘れていなかったなら。部下の失踪はなかったかもしれないと思えばこそ。
「送りますよ」
黙り込んだ河崎を気遣う相楽の言葉にうなずきつつ、河崎は唇を噛みしめる。次は、今度こそは失敗しないと固く決意する。
ふと河崎が己の手を握り拳を作った。この手に守谷の命を預かっている、呼吸もできないほどの重みを感じ、煙草に火をつけた。深く吸い込めば赤い火が灯る。誰もいない神社の境内、それだけが鮮やかだった。
ホテルまで送り届けてくれた相楽が帰っていったところで携帯端末に着信があった。室内に立ち入った他人がいないのを確認したのち河崎はかけ直す。
「どうした?」
守谷からだった。何かあったのでは、不安がきざすのは先ほどの神社の風景のせいか。薄暗いホテルの一室、河崎の顔色は生きたもののそれとは見えなかった。
が、向こうの声音に安堵する。普段通りの守谷の声、少しばかり弾んでいて自慢げな。それにも納得のいく河崎だ。
守谷は依頼の品、違法薬物を入手したと言ってきた。あまりにも素早くて疾うに守谷が動いていたのを感じる。おそらくは間違ってはいないだろう。
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