第8話望まれざる




 酷い事件だった。当初は我々警察にとっては日常茶飯事であった家出人の捜索。男性から「妻がいなくなった」との届け出を受理し、捜査していたものを。

 同僚たちは言ったものだった。捨てられただけではないか、男を作って出て行ったのでは。頼りない風貌の男性であったから半ば揶揄する気持ちでそんな風にも言っていた。

 それが、まさかあんなことになるとは。はじめ私はその捜査には加わっていなかった。家出人を探していたのは、同僚の一人。さほど重大な事件ではないと見做されていたせいもあって、彼とその部下とが当たっていた。

「もしかしたら、だが」

「どうした?」

「いや……誘拐の線が、ありそうなんだよ」

「形跡は?」

「あるような、ないような、だ」

「なんだそれは」

 目撃証言はあるのだけれど支離滅裂とはあのことで、証言としての有効性がないに等しい、偶然喫煙室で一緒になった同僚は肩をすくめていた。

 それが、やつと話した最後になった。

 部下は正に命からがら逃げてきたとしか言いようがない。ずたぼろになって、精神も均衡を欠いた。いまだ入院加療中のその男は、同僚のスマホを所持していた。

 たまたま手が空いていた私が彼の捜査を引き継ぐことになり、そして彼のスマホに残されていた情報を手にした。

 我が目を疑う、とはあれを言うのだろう。率直に言えば、合成画像かと思った。もしこれが同僚の所持品でなかったのならば。

 けれど、これは彼が残し、部下が力を振り絞って持ち戻った証拠。私の背筋に冷たい汗が滴っていたのを覚えている。

 警察に奉職し、凄惨な事件の現場にも立ち会った。近年では森林公園で起きたカルトのテロ現場にも赴き捜査に励んだ。野外劇場の舞台から客席から一面、血と臓物に塗れたあれを私は見ている。

 それと、同じほどの衝撃を覚えた。たかが一枚の画像。そこには行方不明として探していた女性が映っていた。わからねば、よかったといまでも思う。写真ならば遺伝子の照合などできない。そのまま、わからねばよかった。

 傍らで画像を覗き込んでいた同僚の一人は、無言でトイレに駆け込んだ。あまりに、酷い遺体が。人体はここまで破壊できるのか、これほどする意味はあったのか、疑念に駆られる暇もないようなそれが。それなのに、顔だけは、頭部だけは傷ひとつなくきれいなまま残っていた。生命を失った目がぽかん、とレンズに向いているさまは、忘れたくとも忘れられない。血溜まりの中の肉塊と生首。場数を踏んだ警官が吐くのもわかる気がした。

 私自身は呆気に取られて吐く余裕もなかった。ぼんやりと同僚はどうなったのだろうと感じていた。あの血溜まりに、彼の肉体も、混ざっているのでは、と。

 事実、彼の行方はあれ以来わかっていない。死んだのだろうとみなが思っている。口に出すには重たすぎた。

 彼のスマホには、別の情報もあった。彼自身の声、とあとになって証明されたボイスメモが。わざわざ声紋照合まで行なったのは常軌を逸した内容だったからだろう。

 私はと言えば、疑っていなかった。彼が語る声を聞いた瞬間から、これは事実と感じていた。あの画像のあとでは、何が起ころうと信じられる。

 それでも、照合したい気持ちはわかるつもりだ。彼の部下は正気をなくした。ならば彼とて。気の触れた人間の戯言にも聞こえる。


 ――見えない、見えないんだ。

 ――なんだ、これは。見えないのに、なんでだ。襲われる。どこからだ。わからない、わからない!

 ――あいつは恐怖に耐え切れなかった。なんとか匿っているけれど、いつまで持つか。あいつの心がイカレるのと俺が死ぬのと、どっちが先だ。

 ――先に狂った部下が羨ましくなってきた。クソ、なんなんだよこれは!

 ――視認できない。だが、いる。攻撃されている。逃げ場はない。

 ――柔らかい棍棒で殴られたような衝撃だ。大人の男でもクリーンヒットすれば軽く吹っ飛ぶ。冗談みたいだろう? 俺だってそう思いたい。

 ――もうだめだ。見えない化け物に足を潰された。吹き飛ばされた、と思ったときには乗っかられたんだ。自分の足が潰れていくのなんかはじめて見た。最低最悪だクソ野郎。狂っちまったが、あいつはまだ動ける。画像と音声を保存したこいつを持たせて逃す。無事逃げてくれ――


 途中、喚き声が入っているだけのものもあった。上司や部下を罵るものもあった。同僚も正気とは言えなかったのだろう。が、完全に精神の均衡をなくした部下がこれを持って逃げてきたのは、それだけは事実なのだ。

 これは、同僚が見たのは現実だと想定し捜査すべし。私の提案は渋々と受け入れられた。一人は行方がわからず一人は病院送りだ、そのまま放置などできない。

 そもそも、家出人の捜索は警察として続行は言うまでもない。まして、画像のことがある。事実ならば殺人事件だ。

 問題は、その写真を撮影した場所が判然としないことだった。なぜかメタデータは壊れていたらしい。専門の捜査官が復元に勤しんでいた。

 私が取り掛かるべきは、同僚が残した声を取っ掛かりとした捜査だろう。まずは彼が言う「見えない化け物」が何を示すのかを調べねばならなかった。

「――なるほど、そのようなわけでしたか」

 沈鬱な表情の青年が眼差しを伏せていた。過去の捜査記録には化け物が出たなど当然あるわけがない。昔話伝承の類を調べてみてもこれといったものがない。さすがに妖怪は違うだろう。

「民間人に頼るとは、申し訳ないのですが」

 結果、警察関係者の間で密かに語られている私設図書館を私は訪れた。奇妙なことがあればそこで調べるといい、誰からともなく語り継がれているらしいが、司書と名乗った青年を見る限り、それほど古い図書館というわけではなさそうだった。二代目とも考えにくい。少々誇張があったのだろう。

「警察に協力するのは市民の義務ですから」

 お気になさらず、司書は微笑む。淡いような、冷たいような不思議な笑みだった。私も警官として、人を見る目はあるつもりだ。その目をもってしても青年が何者とわからない。彼は仕事を終えたあとどんな生活をしているのか、家族構成は、何一つとして見当がつかないのは珍しい経験だった。

「本当に申し訳ないことをしました」

「どうか――」

「気分のいい話ではありませんし……それに」

「あぁ、なるほど。他言無用、ですか」

 あえかに微笑んだ司書だった。先に言ってくれてありがたい。いくら捜査のためとはいえ、民間人にここまで話してしまうのは問題だった。

 そうは言っても、こんなものは言葉を濁せば何もわからないに違いない。一切無言を通すか、明け透けに語るかの二択だった。さすがに証拠品そのものを見せることは慎んだが、司書の青年には充分に伝わった様子。

「そうしていただけますか」

「もちろん。なにより……こんなものは誰に話しても信じてもらえませんよ」

 苦笑する司書に自分もそうできればと思う。直接、証拠を見聞きしたかどうかは大きい。彼は知らない。私は知ってしまった。司書に現実感が薄いのはやむを得ない。

「なるほど、見えない化け物ですか……」

 厄介事が来たと司書の顔にはありありと書いてあるようだった。それでいて彼の本心はまったくと言っていいほど窺えない。表情を作った、と言えばおそらくは一番近い。私のどこかがざわりと騒いだ気がした。まるであのボイスメモを聞いたときのよう。

「こちらへどうぞ」

 促され、書架の間を通っていく。この図書館はどれほど広いのだろうか。錯覚とはわかっている。林立する書架には少しばかり隙間があって向こう側が見てとれる。そのせいだ。それに。

「ずいぶんと暗いのですね」

 本を読めるのか疑わしい。私の声があまりに怪訝だったせいか、司書の青年はかすかな声をあげて笑った。

「古書に光は禁物なのです」

 ゆえに暗いのだと。言われてみればもっともな話だった。不明を恥じる私に司書は気づいた様子もなく本の背表紙を見ていた。

 私はといえば、困惑を極めていた。ローマ字の本が多数を占めてはいる。が、それが何語かと問われるとお手上げだ。英語らしきものも、まるで読めない。

「その辺りは古英語ですね」

 視線に気づいた司書はそう教えてくれた。あっさりとした言い振りであったから、この図書館では珍しいものではないのだろう。となれば調査は前途多難と言えた。

「語学は堪能な方ですか?」

「お恥ずかしいが」

「わかりました。では……できるだけ翻訳してあるものを。ただ日本語は期待しないでください」

 最低限、英語にまでなっていればなんとかはなる。辞書は必要だが。そう言う私に彼は大丈夫だと請け合った。にこりと笑って「英語の辞書ならば大きなものが用意してあります」と。嬉しくはないが、読めなければ捜査は進まない。それを思えば何ということもなかった。

「まずはこの辺りをどうぞ」

 司書が選び出してくれた書籍を抱え、私はよほど困った顔でもしたらしい。彼は書き物机がある場所まで案内してくれた。先ほどまでまったく気づいていなかった私は己の注意不足を恥じる。

 ――あの画像とボイスメモを見聞きしてから、俺はおかしい。

 自分では冷静でいるつもりなのだけれど、同僚からも無理をするなとそれとなく言われる回数が増えていた。逸っていた、のかもしれない。

 薄暗い図書館では文字を追えるか不安だったが、書き物机にはライトが備えつけられていて不自由はなかった。メモ帳やペンまで完備されている。至れり尽くせりだろう。図書館で本を開きメモを取るなど学生に戻った気分だった。

 だが、内容は筆舌に尽くしがたい。こうして私的に残す手帳にであっても、私は書き記すことを躊躇する。万が一、他人の目に触れたならば。それを懸念するのではない。

 事件が終わったいま、忘れたいからこそ、こうして記している。けれど、書くには思い出さねばならない。思い出せば私はどうなるのだろうか。あの書籍に記されていた数々の事象。漠然とした恐怖だけが私の脳裏に刻み込まれ離れない。

 しかし私も一度はその知識を手にしたはずだ。事件は、おそらくは解決したのだから。上司がお前のおかげで解決したぞ、と言いに来てくれたのだから。

 いまとなっては詳細は不明ながら、確かに調べ物をし、成果をあげたのだろう。そのときに使っていた手帳は、同僚の一人が破棄したと聞く。なぜそのようなことをしたのか、私にはわかるつもりだ。

 この図書館は、私設と聞く。あれほどの書籍を収集するだけでも大変な財力だろう。図書館に入る前、敷地を一周してみた私は、外された表札を見ていた。確かにそこに表札があった形跡だけがあり、奇妙にぞっとしたのを覚えている。

 そんな図書館だ、当たり前の書籍があるとは思っていなかった。むしろ、そうであっては困る。普通の図書館では調査が及ばないことを、探しに来たのだから。

 考えていた私は甘かったのだろう。図書館は、図書館だとしか思っていなかったのは。だがしかし、それ以外にどう思えというのか。

 辞書と格闘し、翻訳を続けた私は己の精神が削られていくのをまざまざと感じていた。いまも入院している彼の部下を思った。もしや、これが狂気かと。こうして人間は狂っていくのかと。

 お伽噺と思えたならば、何度となくそう感じた。本に描かれていたのはあまりに禍々しく、想像を絶する悍ましい事象。あり得ない、私の心は叫んだけれど、画像といいボイスメモといい、合致しすぎた。

 これが、彼らが経験したことだと、確信してしまった私は、立ち止まるのが恐ろしかったのかもしれない。

「少しご休憩なさいませんか」

 不意に声をかけられて驚いた。司書の青年が微笑んで差し出してくれた茶を受け取る自分の手が震えていて、二度驚いた。

「根を詰めすぎですよ」

「だが」

「机に噛り付いていても、捗りません」

 息抜きは必要だ、青年は微笑む。このときには、理解が及んだ。司書に感じていた違和感が、手に取るよう理解できた。いまはもう、記憶にないのだが。

 おそらくは、そのせいかもしれない。私は堰を切るよう彼に画像のこと、ボイスメモのことを語っていた。繰り返しではない、率直に、言葉を飾らずに。

「あれをあなたは知らない。酷いなんて言葉では到底表せない。内側から爆ぜた死体を見たことがあるか」

「あるわけがないでしょう。一般市民ですから」

「なら、わかるわけがない。人間の尊厳はどこだ。あんなものを野放しにしておくなど警察の沽券に――いや、関係ない。私が耐えられない。休憩? そうしている間に次の犠牲者が生まれない保証はあるのか。ないに決まっている。あんなもの、二度と起こすわけにはいかない、あんたにわからないことを知ってるのは俺だ。信じてくれとは言わんが頼むから協力は」

 してほしい、言いかけた私の言葉が止まった。喉が潰され、声など出ない。興奮した私は、決して彼に危害を加えるつもりではなかったが、司書に手を伸ばした。掴みかかった、と解釈されても無理はなかったと思う。

 そして、私は拘束されたわけだった。突如として司書の背後から現れた腕が私の喉を掴み、反対の腕が司書を抱きかかえ保護するさま。自分が不審者になった気分だったが、そう見えたのかもしれない。

「大丈夫だよ」

 青年は、腰を抱く腕をぽん、と叩いた。背後を見もしない。そうして保護されることに慣れているのか、それともまったく危険を感じていないのかのどちらかだろう。あるいは両方か。

 冷静な司書の声音に私の額には脂汗が滲み、背中には冷や汗が滴っていた。なんという無様か。民間人の信頼を勝ち得なければならない警官として恥ずべき振る舞いをしたものだった。

「気が急いてらっしゃるのでしょう」

 微笑む司書の背後には、まだ誰かがいた。薄暗がりに見事に入り込んでいる。ふと友人である公安の人間を思い出した。彼の立ち居振る舞いに似ている。

「ご紹介しませんでしたか? うちの警備員です」

 確かに紹介はされていた。「図書館の警備員」なのだから書籍の盗難等を警戒しているのだと思い込んでいたのだと気づかされる。警備員が守っているのは、司書に他ならない。不思議と納得していたが、理由は覚えていない。

 それから、司書の忠告を容れて休憩を挟みつつ励んだ。警備員は以来、私を警戒し続けていたが、文句を言えた義理ではない。思い出すだけで慙愧の念に耐えがたくなる。

 ようやく見えない化け物の正体は、わかった。それが何とはもう覚えていないが、当時はわかった、のだろう。しかし決定的に足らないものがあった。

「どうしましたか」

 尋ねられ、私は素直に相談をした。正体は知れたこと、撃退方法もわかったこと。問題は、方法はわかっても、そのための薬剤を調合できないこと。

「わかりました。どうぞお持ちください」

 経緯が、わからない。語ってすぐに司書がそう言ったのか、時間が空いたのか。私の目の前に粉末の入った二種類の瓶があることだけが事実。礼を述べ、大事に受け取り、私は図書館を辞去した。

 ひとつは、見えないものを見るための粉。投げつけて見えるようになったならば、もうひとつの粉末で退治する。簡単なことだろう。

 私もそう思ったのだ。専門家による解析が済み現場は特定されていた。踏み込んで、私は見た。そして見なかった。同僚たちが次々と吹き飛ばされていく。血達磨になっていく。

 同僚の血飛沫を目当てに、瓶を投げた。見えたのだろう。そう、見えたはずだ。触手がうねり泡立ち蠢く化け物がいた。いたはずだ。もうひとつの瓶も投げつけたはずだ。しかし私の記憶はそこで途切れている。

 こうして、書いて残している間にも、記憶が薄れていく。司書はどんな顔をしていたのか。図書館の所在地は。私のすべてが飲み込まれていく。あの化け物の記憶に。

 そして私は思うのだ。あれは、本当に、死んだのだろうか、と。




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