第7話形見




「珍しいですね」

 くぐもった声音は片言を思わせる。図書館の警備員だった。無論、傍らには司書が。二人は今とある旧家に向かっているところ。警備員は司書がこのような外出をすること自体が珍しいと知っている。

「まぁ、ね。ちょっと興味があった」

 先日のことだった。図書館宛てに届いた一通の書状。かつての住人への手紙かと思えばそのようなことはなく、開封した司書は一読するなり興味を引かれた。

 差出人は旧家の娘とやら。不幸が続き天涯孤独となった娘は亡き祖父の蔵書を処分したい、つきましては出張願えないかと書いてきた。

「もしかして、教授絡みですか」

「うん。お祖父さんと付き合いがあったみたいだね」

「それで、か……」

 長い警備員の溜息。図書館のかつての住人と関係があったのならばろくなことにはならないとでも語るように。それを司書がかすかに笑った。

「もしかして、気にしてるのかな?」

「何を気にすればいいのか、わからなくなりましたよ」

「だろうね」

 肩をすくめた司書に、悪い気分ではないと警備員は言う。そうこうしているうちに到着だった。一見して、家屋敷は荒れていた。家人の手が足りず行き届かないという問題ではない。人間が住む家の気配ではなかった。

「ごめんください」

 玄関先で呼ばわれば、現れたのは美しい娘だった。このような家に暮らしているとは思えない、目を奪われんばかりの。もっとも司書には何ら関係のないことだったが。

「お待ちしてました。どうぞ」

 すらりと一礼した娘に案内されたのは、祖父の書斎。個人の書斎としては中々に壮観な眺めといえた。その蔵書に司書の口許が笑みへと変わる。

「では、確認をしますので」

「よろしくお願いします」

 同席する気はない、と娘は書斎をあとにした。残るは司書と警備員。顔を見合わせて首をかしげるなど、奇妙に人間らしいことをしてしまった自分たちに苦笑する。

 疑念はおかしなものではなかった。娘は警備員に一切の感情を見せなかった。率直に言えば警備員の風体は不審でしかないはずだ。顔を見せることもなく、帽子もかぶったまま。娘に対しては無言を貫いた彼。

「なんですか、あれは」

 ぱらぱらと書籍を手に取る司書に尋ねても彼は肩をすくめて答えない。ならば見当はついているのだと警備員は気にすることをやめた。

「その辺、ざっと見て梱包できるならしちゃって」

「俺でいいんですか」

「いいよ。まったくの門外漢でもないじゃない」

 軽く言う司書に今度は警備員が肩をすくめた。言われた通りに作業すれば、瞥見した書籍に溜息が出る。これでは司書が出張してくるわけだと。

 書斎の本のほとんどが、いわゆる魔道書。本物もあれば与太もあった。だが警備員が見る限り、かなり精度は高い本ばかり。

「だからですか」

「まぁね。こんなものが流出したらまた面倒がやってくる」

 おちおち祈ってもいられないじゃないか。ぼやく司書に警備員はかすかな笑い声を漏らしていた。それもどこか人の響きではない。口からでも鼻からでもない場所から、呼吸が漏れ出ているかのよう。

「あぁ……本格的なのがけっこうある、ね」

 人間ならば、こんなものを所持すれば正気ではいられないだろうに。祖父とやらはいったい何を考えていたことか。いずれ死んだ人間、司書の興味はそこにはなかった。

 人間の手元にこんなものが、と顔を顰めつつ書架から本を取り出しては司書はページを繰る。念のために確認をしているのだろうが、必要などなかった。手に取るだけで、わかるものだ、本物は。司書が取る書籍はどれも「本物」ばかり。溜息がこぼれた。

「落ちましたよ」

 抜き出した本の間から、落ちたのは薄手の冊子、否、日記帳の類か。厚い本に挟まっていたものらしい。警備員から受け取り司書は流し読みをする。小さく笑った。

「面白いことでも、ありましたか」

「中々にね。笑える話だよ」

 にぃと吊り上がった唇が語るそれは、決して人間がいう「面白い話」ではない。司書は警備員に梱包を任せ、家人が書いたらしき手記を読んでいた。

「お疲れになりませんか」

 しばらくしてからのことだった、娘が茶菓を持って書斎に顔を出したのは。休憩にしたらどうか、と提案している様子。そのようなものが必要だった、と思い出す司書は内心に苦笑していた。

「ご馳走になります」

 軽く頭を下げて茶碗を受け取る。温かな日本茶の香り。香ばしい煎餅の匂い。それを圧して鼻をつく異臭。娘は気にした素振りもなかった。

「お祖父さまは大変な読書家でいらしたのですね」

 ひっそりと影に潜むような警備員にやはり娘は目も向けない。存在そのものをまるで気に留めていないとしか思えなかった。

「変わり者です」

 言ってぐるりと書斎を見回した。在りし日の祖父の姿を見ようとする、普通ならば。だが彼女はそんな「普通」を真似たかのよう。

「いつも、変なことばかりを言っている人でした」

「そうなのですか?」

「外に出てはいけない、友達を作ってはいけない。あれはだめ、これもだめ。いつもそればかり」

 長い溜息と共に揺らいだ書斎の空気が異臭を掻き立てる。気になるようなものではなかったけれど、警備員は扉を開け放った。そうして彼が娘の横を通り抜けたときだけ、彼女は警備員を見やる。何者とも知れぬ不可解な存在がある、と眉根を寄せるよう。だが表情はまったく変わっていなかった。そして何事もなかったかのよう言葉を続ける。奇妙なことだった。

「――わからなくは、ないんです」

 祖父は心配だったのだろうと彼女は言う。娘がまだ幼いうちに、両親は事故で亡くなった。父の運転する車に向けて、反対車線から飛び込んできたトラック。母は即死、父も半月と持たなかった。かろうじて、娘ひとりが生き延びた。

「それはお寂しいことでした」

「……特には。覚えていませんし」

「いつもお祖父さまと二人だった、と」

「えぇ、そう。それに父も変わり者だったみたい。祖父は話してはくれなかったけれど、お手伝いさんが話してくれて」

 彼女に話したと知った祖父によって解雇されてしまった家政婦だったが、聞いてしまったことは元には戻せない。茶をすすりつつ彼女は笑う。

「事故でろくに動けなかったのに、家に帰るんだって言って。お医者さんたちが必死になって止めたのにだめだったって。祖父も父を連れ戻して」

 それさえなければ、もう少しは生きていられたかもしれないのに。家政婦は言っていた。

 ――でも、結局は死んでしまうんだもの。

 内心に彼女はぽつりと呟く。両親の記憶はほとんどない。事故当時八歳だった彼女に両親の思い出がまるでないとは考えにくい。事故のショックだ、と祖父は言っていた。残されていた写真を見ても、この二人が自分の両親、とは想像できない。ならば祖父を親のように思うのかと問われても彼女は困惑しただろう。幸いなことに司書は問わなかった。

「読書家は、変わり者が多いものですから」

「図書館の人が言うなら、そうなのかも。――不思議な話とかもご存知ですか」

「と、言うと?」

「本にまつわる話」

「もしかして、ご経験が?」

 促せば、こくんと彼女はうなずいた。不思議な話、であって恐怖感を催すものではないのか、彼女の顔色は平静のまま。だが扉の傍らで聞く警備員は語られる話に顔を顰める。淡々と話すようなものではなかった。

「時々……変な物音がするの。ここ。この書斎から」

「ほう?」

「お祖父さまの本のせい、きっと。気味が悪いって、お祖父さまのところに来る人はみんな言ったもの」

「あなたはそうは思わない?」

「ずっと側にあったから、特には」

 ふ、と司書が笑った気がした。目の惑いかもしれない。確かに唇は吊り上がったようにも見えたけれど、それが笑みと呼ぶものかどうかは定かではなかった。

 魔道書、という。人間は慣れる生き物ともいう。けれど司書が見たところ、この書斎にある書籍は人が手にすべきではないものばかり。慣れる以前に正気が消し飛ぶ。

 ――つまるところ。

 父も祖父も、あるいは母も。正気ではなかったということかもしれない。いずれにせよ死んだ人間だ、確認のしようはなく興味もないと司書は肩をすくめるばかり。

「特に、気持ち悪いとかは思わないのだけれど。お祖父さまが亡くなってから、よく夢は見るようになったの」

 それも本のせいだ、と彼女は言う。確信ではない、疑うことのない彼女にとっての真実なのだろう。蔵書を見回した彼女の目こそ、夢を見ているようだった。

「暖かな水ではじまるの」

「お風呂ですかね」

「すぐに、わかった。これは海だって。小さなころの思い出なのかもしれないけれど、私にはわからない」

 そんな記憶はないから、と彼女は微笑む。硬く強張った、だが本人はそうとは知らないかのような奇妙な笑顔。昔のマネキンにも似ていた。

 ――綺麗な娘だけど。

 人の美醜などなんの意味もない身の上だが、もし数年前に出会っていたとしても感銘を受けたかどうかはわからないと司書は感じる。それほど硬質な彼女の佇まいだった。

「とても綺麗な海。暖かくて、きらきらとしているの。光が射し込んで、ゆらゆらするの」

 うっとりと彼女は語る。警備員がちらりと見やっては気色悪そうな顔をした。

「どこからか、誰かが呼んでいる声がして」

「ほう……」

「ずっと、聞こえているわ。そうね……もっと小さなころから、聞こえていたのかも」

 思い出したのかもしれないと彼女は言う。ただ、これは本人に確証のないことなのだろう。先ほどよりは曖昧な語調だった。

「どんな声なんです?」

 すぅ、と司書の眼差しが変化していた。警備員はそれを見て取り、居住まいを正す。あるいは、と思うところがあった。もしかしたら、彼女もまた。

「どんな……わからない」

 だが娘は困惑気味に首をかしげるだけだった。司書には、それで納得がいく言葉だったのだろうが、警備員にはわからない。無論どうでもよいことではあった。自分と彼とは立場が違うと。

「強いて言えば……あれは、お父さまかも」

「亡くなる以前の?」

「もちろん」

 写真で見ただけの父。声など知らないし覚えてもいない。そのような記憶はない。理由もなく父と感じるのは親子だからかしら、彼女は笑って見せた。その笑みの強張りに、娘自身は気づいていないのか。司書を見る目が変わっているとも、自覚はない様子。

「遠い、暖かい海の中で、私はそれを聞いているの。あちらに行ってみたいな、応えなきゃって、思っているの」

 そんな夢なのだと言う。漠然とした心象なのはやはり夢のせいか、他に理由があるのか。尋ねても本人にもわからないだろう。

「夢は、怖くないのですか」

「特には。――ただ」

「なんです?」

「そう、ね。なんて言ったらいいのかしら。――夢を見ている私は、私じゃないの」

「あなたではない?」

 では誰なのだ、揶揄する司書に娘は首を振る。それが理解できれば奇妙な感覚は抱かない、普通の人間ならばそう言う。しかし彼女は奇妙と感じている様子なのに、それとはわかっていないらしい。

「海の底で見上げている私は、私ではなくて……でも呼んでいるのは、お父さまで」

「懐かしいですか」

「え?」

「亡きご尊父の夢なのでしょう?」

 ならば懐古を覚えるものだ、司書は言う。懐かしさではなくとも、なんらかの感情を覚えるものだと。けれど彼女はそれに戸惑っていた。

「わから、ない――」

 懐かしいとは、なんだ。いまにして、震えた。これはいったい、なんなのだろう。自分の知らない何か。司書が語る言葉はまるで本で読んだ知識のよう。

「私……私、まだ用事があって。ここはお任せしますから」

 どうぞ、と司書は軽く手を開いて娘を促した。その仕種に彼女はそそくさと出て行く。後ろ姿にはやはり違和感が。

「なんですか、あれは」

 つい、と視線で最後まで追っていた警備員だった。万が一にも司書に危難が及ばないように。そのためにこそ、彼は司書の傍らにある。

「そう、だね。困った子、かな」

 肩をすくめ、司書は元していた作業へと戻るよう警備員に指示をする。いずれこの書籍は回収すべき。このようなものが散佚すれば。

「社会の混乱を招く、と思っていますか」

「まさか」

「でしょうね」

 かすかに笑った警備員の声音は掠れてくぐもっていた。

「君は?」

「放置して面倒がやってくる方が嫌ですね」

「君がね」

 喉の奥で司書は笑った。警備員が、そのようなことを言うとは、と。かつての彼ならば、断じてそうは言わなかった。司書の思いに感づいた警備員の笑い声。潮騒に似ていた。

 梱包の済んだ箱はずいぶんな量になった。さすがに運び出すにも時間がかかる。警備員の手によって次々と車に積まれていく段ボール箱を物陰から娘が見ていた。

「軽トラ借りてきて正解だったね」

 乗用車では到底積みきれない箱だった。一個人の蔵書としては法外な分量。娘はそれをどう思っていたのか。何も感じていないだろうと司書は思う。

「ありがとうございました。祖父も喜んでいると思います」

 このまま朽ちてしまうのは残念だったから引き取ってもらえてありがたい、彼女は頭を下げていた。その佇まいは屋敷を訪れたときとは微妙に変化している。司書に対する親和のようなもの、反面できうる限り離れたいとの思い。司書は見て取っていた。

「こちらこそ。大変貴重な書籍をありがとうございました」

 折り目正しく一礼した司書に彼女は息をついたよう。それでいて、硬い雰囲気は変わってはいなかった。それがはじめて揺らぐ。顔を上げた司書の目に。

「……え?」

 伸びてきた司書の指先が、ちょん、と額をつついた。まるで冗談のように、悪戯のように。

「お疲れさま、帰っておいで」

 司書の声を遠くに聞いた。指の触れた箇所から、彼女は弾け崩れた。皮膚が爛れ蕩け、衣服は抜け落ち。最後まで残っていた目が、不思議そうに司書を見つめる。

 その目だけは、蕩けなかった。変わり果てた彼女は、粘塊。司書の足元にわだかまる、漆黒の粘性。反射する光の虹色に輝くさまは重油の照り返しを思わせる。だがしかし、罷り間違ってもそのようなものではない。いかな重油とて、これほどの悪臭はしないものを。娘であったものが声を上げれば、それは悍ましい響き。テケリ・リ、テケリ・リと聞こえた。

 粘性は揺らぎ揺蕩い、無数の目と口と触手とを現しては消した。そして司書がうなずくなり、自らトラックの荷台へと収まる。肩をすくめた警備員の運転する車が出ていけば、あとに残ったのは異臭のみ。それも程なく風が吹き散らした。


 ――私はもうすぐ死ぬだろう。心残りはただひとつ。年老いた父が独り残されてしまう。

 なんと不幸なことか。一族の念願すら果たせず私は死ぬのか。せっかく妻が産んだ娘は事故で一番に死んだ。無理もない。まだ八つの子供にあれを生き残れとは無茶がすぎる。

 娘さえ生きていれば、娘が長じた暁には我が一族の務めを果たさせることもできただろうに。いまとなってはそれも叶わぬ夢と成り果てた。

 おぉ、神よ。偉大なる我らが神よ。運拙くして倒れる身を許したまえ。

 せめて、せめて時間があれば。私より優れた父ならば、何かができようものを。父には気力が足らない。私と孫娘を失えば父の希望は尽きる。

 尽きていないのだと、父にわかってもらわねば。そう、それしかない。それがいい。娘が、生きていればよい。父の希望が潰えねばよい。

 遠からず死す身ならば、この身を供物に。忌まわしい粘塊を我が娘の形となし、父の傍らへと。記憶など要らぬ。心など要らぬ。父に反応する人形があればよい。

 形代よ、父の傍らにあれ。父よ、念願を繋ぐ手立てを講じたまえ。我が身は供物なり――




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