第6話金色の散る




 血走った目をした男だった。まだ青年といってよい年齢だろうに、頭髪は一部が白い。削げた頬といい髪といい、何かがあったのは疑いなかった。

「お待ちしておりました、どうぞ」

 司書が出迎えたのは、そんな男だった。彼は無言のままに司書の背後に従う。司書が奇怪な男を警備員だと告げたときにもうなずいただけ。

「調べ物がしたい」

 図書館の予約を入れてきたときにもそう、言葉少なだった男に司書は特に思うところなどない。こんな図書館を訪れる人間などみなこのようなもの、とでも思っているのかもしれない。

「手伝ってもらえるか」

「お探しの本はどのような?」

「――化け物だ」

 男に司書は首をかしげる。それに彼は皮肉に嗤った。あたかも信じないのは無理もないというように。だが司書は両手を広げて図書館を示す。

「ここは、ほとんどがいわゆる『化け物』の本ばかりですよ」

 苦笑するような嘲笑うような。どこか不可解な笑みに男は目を眇めていた。嫌なものを見た、というのが近いだろうか。たかが司書にそのような感想を抱いたことこそ不思議だった。

「あんたは信じているのか、化け物を」

「さぁ?」

「信じもしないで……いや、信じないからこんな図書館をやってられるんだな」

「どうでしょうね。お探しのものは?」

「化け物を倒す方法を」

 端的な言葉に司書は微笑む。漠然としすぎていて、そんなものではわからない、とは司書は言わない。唇に浮かんだ笑みは懐かしさにも似ていた。

「いや、まずは敵を知りたい」

 男はぐるりと図書館を見回す。数多の書架。天井まで届くそれ一杯に詰まった本また本。知識の宝庫、あるいは知るべきではない叡智の果実。

「たとえばどのような?」

「だから」

「化け物と言っても種類はありますよ?」

 ふっと笑った司書に男は語る、見えない化け物だと。見えないのに、見えるのだと。語るにつれて彼の肌は粟立っていた。

 あれは、もう何年前になるのか。青年がまだ少年だったころのこと。父は警官だった。母は役所勤めだった。二人が互いに違う職場で、同じ事件に遭遇した、らしいとしか彼は知らない。それもあとになって調べて知ったのみ。

 父が追っていたのは、カルトだったらしい。星の彼方よりきたる神を崇めると謳っていた教団は信者を増やし、布施を募り。それが問題になった。

 母は教団本部が置かれた町の住人からの苦情を受けていた。怪しい気味の悪いカルトをなんとかしたいと。親身になって話を聞いていたと男は大人になってから聞いた。

 そして、両親は死んだ。まだ少年だった彼の目の前で、見えない何かに襲われて死んだ。あの日の光景を彼は忘れられない。

「酷かった。二人の血を吸うに従って、見えるんだ」

 まるで巨大なゼリーが浮かんでいるようだったと彼は言う。父の血が吸われ、ゼリー状の塊は姿を現した。母の血を吸い塊ははっきりと視認できるまでになった。

 それは、父よりも大きな塊だった。胴体とでも言うべき場所からは無数の触手が生え、その先端には歯があった。

「あれは、口なんだろうな。触手で食事とは笑わせる」

 けれど、確かに食事だった。父を吸い殺し、母を喰らい、血の化け物はたぷたぷと体を揺らしていた。つつけば弾けるのではないだろうか、生血の詰まった袋のようになった化け物の姿。徐々に消えていくあの姿。

「消化してたんだ。喰ったんだよ、二人を。化け物の下で干からびて死んでたってのにな」

 クローゼットの中に隠れて最後まで彼は見ていた。飛び出すこともできず、震えて動けず。目をそらすことも失神することもできず。あの日から、何年経とうとも忘れ得ない光景。

「だからな、決めたんだ。あれから、決めたんだ」

 握りしめた拳に汗が滲んでいた。思い出すだけで、いつもこうなる。司書は汗に強い恐怖を嗅いでいた。

「なるほど」

 それだけを言い、司書は歩みを進める。話を聞いただけで嘔吐した人間もいたというのに、司書は小揺るぎもしない。男は頼もしいというよりは不審げに背中を追いかけた。

「この辺りでしょうかね」

「どういうことだ」

「僕も全部の本を読んだわけでもないので。だいたいの把握はしてますが」

 肩をすくめた司書に理解が遅れる。つまり、司書は言っているのか。この書架におそらくはあの化け物の詳細が記された書物があるだろうと。

「感謝する」

 飛びつくよう、男は書架へと向かった。手に取るさえ覚束ないほど、嫌な気配を発する本があった。触れるだけで砕けそうな古書があった。いずれも読めるような代物ではない。状態が悪い、それ以上に彼が知る言語ではない。

「なにか。なにかあるはずだ――」

 カルトがいたのだ。あの化け物が実在し、崇めていた人間がいる。だからきっと、記されたものもある。男は信じて疑わず書架の端からすべてを見ていく。

「どれだ。絶対にある、ないはずがない」

 両親を殺したカルトはいまだ健在。無理もない。化け物に殺されたと言って誰が信じる。人間を殺した化け物を裁く法はない。人間が化け物を行使したと証明する手段もない。

 ――泣き寝入りなど、誰がするものか。

 父母の仇を討つまでは、止めるつもりなど毛頭ない。ようやく、ここまできたのだから。図書館の噂を聞いたのは偶然だった。

 奇妙な書籍を収集した私設の図書館がある、要予約なのに連絡先は非公開。面白おかしく語られていた話が琴線に触れた。これだ、と思った。理由はない。わからないと言った方がきっといい。しかしその図書館に行けば手がかりが、反撃の手段が手に入る。奇妙というならばその確信こそが奇妙だった。

 書き物机に向かう男はごっそりと本を抱えていた。どれも貴重な本ばかり。司書に丁寧に扱ってくれと釘を刺されたのが煩わしい。これは、あのカルトを潰す手段を知る機会。ならば大事な大事な手がかり。

「目を悪くしますよ」

 苦笑と共に司書が覗き込んできた。男は不快そうに顔を上げる。そして気づいた、暗いのだと。見回せば、書架すら見えない。目を凝らし読んでいた本も一旦視線を外せばもう文字が定かではなかった。

「あぁ……」

 困った。邪魔だから帰れ、そう言われているのはわかっているのだが。困惑する男に司書は言う。忘れてしまったのか、と小さく笑いつつ。

「そちらの家に泊まっていただいてかまいませんよ」

「なに?」

「ご予約時にお話するのを失念していましたか、申し訳ない」

 司書はほんのりと感情を浮かべたらしい。が、それがどんな感情なのかはまったくわからなかった。司書は知っている。言い忘れてなどいないことを。忘れているのは男の方なのだと。

「一朝一夕に読み解けるものでもないでしょう」

「……確かに」

「人間は食べて寝ないと持ちませんよ」

 笑みを含んだ忠告に違和感があった。なにがどうとは言えない。ただ違和感としか男にはわからない。感じ取ったこれが、何に由来するものやら。

 ――関係はない。

 男は肩をすくめ司書の忠告に従った。あの化け物を殺しカルトを暴くため真っ当な生活をすることに、ふと面白味を覚えた。

「人間食わねば持たん。まったくだ」

「えぇ。本来ここは図書館ですし、宿泊の方にお食事のご用意はしていませんが」

 自炊の準備をしてこない来客は後を絶たない、司書は苦笑気味にそう言った。彼にもわからないでもなかった。予約の日時が近づくにつれて気持ちが逸って仕方なかった。

 そんな客のために台所にはレトルト食品がいくつか保存してある、それを勝手に使えと言って司書は背中を向けた。不意に振り返り、敷地外に本を持ち出さないよう、念を押す。

「あぁ、わかっている」

 うなずく男に司書は軽く一礼し蔵から出ていった。後ろ姿を見送り、彼は影のよう警備員まで出ていったと気づいては苦笑する。もし自分がここで本を隠匿してもこれでは彼らは知り得ないではないかと。

「な……んだ?」

 途端に、ぞわりと肌が騒いだ。周囲を見回しても何もない。蔵を改築したのだろう図書館の薄暗がりがあるばかり。書架と書架の間には闇。字も判読しがたいほどの時間とあってはなんの不思議もない暗闇が。

 ――動いた?

 気のせいに違いない。闇を見続けていたがゆえの錯覚だろうと独り決めし司書の好意に甘えることにした。まずは食事を。そう歩き出した彼の動きのせいだろうか。つんと漂ってきた異臭に彼は顔を顰めた。なんの臭いでもない。いままで知ったためしのない悪臭だった。

 ――後で知らせておくか。

 そうは思うものの、どう言えばいいものやら。あの化け物といい今の悪臭といい、この世は奇妙で異常なことばかり。蔵を出れば悪臭は驚くほど見事に消えた。まるで自分の悪意に反応したかのよう漂ってきた悪臭と感じては苦く笑っていた。

 そして彼は滞在し、読書を進めた。司書はいつまでいてもかまわない、そう言う。だからこその予約制なのかもしれない。男はここに来てから司書と警備員以外の他者に会っていない。人の気配の少ない図書館でひっそりと本を読む。

 それは、研究と言ってよかった。数々の本を読み進め目標に近づきつつある感触を得ていた。はっきりとは、わからない。だがこれだろうと思うようなものが。否、きっとこれに違いない。否々、間違いなくこれだ。

 背を丸め、ページに顔を近づけて、のめり込むようにして。かすかに感じる。このページを構成する紙片は何からできているのだろうかと。ただの紙とは思いがたかった。

「あぁ――」

 いまにして父母の姿が、吸い殺されていく父母の姿が脳裏に浮かぶ。本の中に該当するものを彼は見つけた。ぶよぶよとした肉塊、それは見えることはなく「食餌」のときだけ犠牲者の血肉によって姿を現わす。ぬらぬらとした触手が、先端の口が。思い描いたそれに彼は悲鳴を押し殺す。噛み締めた唇から血の味がした。

 ゆっくりと呼吸を繰り返せば、蔵の中に漂う不思議な匂い。本の放つ時間と埃とかすかな黴のそれ。それから、淡く潮の香がするのはここが海にほど近い土地だからか。海の匂いに彼は息をつく。故郷もまた海のある土地だった。

「なんだ……?」

 それから、再び書籍に戻る。確信したからには、更なる先を求めて。彼は正体を知りたいのではない。復讐こそ。ならば、必要なのはそれではなかった。だが奇妙な記述を彼は見つけた。

「いったい、これは」

 海の匂いの連想だろうか。おそらくはあの化け物とは関係がない、とわかっていてもつい、読んでしまった箇所。彼は読み違いかと眉を顰める。

 そこには、あの化け物とは違う化け物が記されていた。もし、あの化け物を眼前にした経験がなければ一蹴したことだろう。

 けれど彼はあれを見た。知った。経験し、こうして知識まで得たいま、馬鹿らしいとは言えない。これは、事実だ。この世にはまだ化け物がいるのだと。世界は人間のものなどではない。隣人は本当に、人間か。人の姿形をしていても、それは。

 ぐっと唇を噛み締めた。聞くものとていなくとも、無様な声など上げたくはない。自らの腕で己の体をきつく抱く。手指が触れた肌は粟立っていた。

 それでも。彼の目は記述から離れず読み続ける。海に棲む化け物を。深海に生きる異形を。人間など歯牙にもかけないとはこのことか。海に揺蕩い微睡む神を崇める異形の化け物たち。

 ――人から、化け物に。

 変わっていくのならば人の姿のままとて。変化の過程で荒れたようにも見える肌は次第に鱗となり、首に刻まれた皺は鰓へと変わる。そうして、海へと還るのだと。

 ――まさか。

 何度も見かけた警備員の姿。いつも目深にかぶった帽子。荒れた肌を見たようにも思う。だが、彼は何も言わずに読書を続けた。目的に近づくために。化け物を殺すために。

「頼みがあるのだが」

 どれほど時間が過ぎゆきたのか。彼は司書の姿を認めて呼び止める。

「なんでしょう?」

「少し……実験をしたいんだ。どこか、都合のいい場所を知らないか?」

「でしたら、奥でどうぞ」

 何事もないかのよう司書は微笑み先に立つ。蔵の奥だった、正に。本来は何に使用されていた場所なのか、奥に至るには厚い扉を抜けねばならなかった。

「どうも、金庫だったようです」

「……なるほど」

「ですから、扉さえ閉めてしまえば本に被害は及びませんから」

 まるでそれは、実験する人間がどうなろうとかまわないと告げているかのような笑み。男は肩をすくめてやり過ごす。場所さえ確保できたならば問題はない。

 本に記されていたものは、いとも容易く揃った。呆気ないほど簡単に。台所にあるものでできあがる魔法の薬とはずいぶんときつい洒落ではないか。

 屋敷の台所から拝借し、実験を開始した。あの化け物を殺す手段はこれで入手できる、その歓喜。

 笑みに歪む唇が抑えがたかった。中世の錬金術師にでもなった気分だ。ビーカーとフラスコと。乳鉢で素材をすり潰す音。硬い音のはずが、粘着質の音がする異常。舌先にあるのは、詠唱だった。

 本に書いてあった通りに、手順通りに。馬鹿馬鹿しいと思っていても、頭のどこかが真実だと叫ぶ。

 目が吸い寄せられた。ただの素材が、変わっていく。混ぜ合わせただけでは、こうはならないものが。変化していく。少しずつ変わり、いつしかそれは金色の粉へと。

「おぉ……」

 わざわざ選んだ薄いガラスの瓶に詰め、彼は薬品を明かりに透かした。あまりにも美しかった。想像以上に悍ましかった。これが、化け物を殺すのだと思えばこんなに綺麗なものはないとも思った。

 弾む足取りで彼は扉を開ける。重たく軋んだ音がする。生まれ出ようとする赤児にも似た悲鳴じみた響き。ガラス瓶を手にした彼は笑っていた。

 その笑い声だろうか、司書が振り返る。本の手入れでもしていたのか、柔らかな布を持った無防備な姿で。

「実験は――」

 成功しましたか、とでも問うつもりだったのか。言葉は放たれることはなかった。走り込んできた男を咄嗟に司書は避けている。

「面倒な」

 かすかな呟きを男は聞いたように思う。なおのこと確信が強くなる、これ以上などというものがあるとは思いもしなかった。

「化け物め――!」

 男は、できたばかりの薬品を、そのガラス瓶を司書に投げつけた。実験というのならば効果を確かめてこそ。否、化け物などすべて死ぬべきと。男は、あの本を読み司書が「人間」ではないと悟った。悟ったからには殺さねばならない。人間の義務だとさえ思った。

 薄いガラスは、司書の体にあたるだけで容易に割れた。ぱっと散りしだく粉塵、きらきらと輝いて司書にまとわりつく。しかし。

「な、に――?」

 それだけ、だった。これで化け物は死ぬのではないのか。立ち尽くす男の前、煩わしそうに司書は粉を払っていた。

「何をなさるんです?」

「ば、化け物を殺すんだ。化け物は生きていていいはずがないんだ!」

 男の喚く声に司書は眉根を寄せる。カルトに両親を殺された、絶叫じみて何度も同じことを彼は繰り返していた。

「あんたもだ。あんたも化け物だ。海に潜む化け物――」

「ほう?」

「だから死ね!」

 再び投げられた予備の薬品。今度も司書は避けもせず体にあてるまま。ぽふん、と粉が散る。やはり、それだけ。

「言葉の上では『大変でしたね、同情します』とでも言っておきましょうか。ですがこんなもので我らを殺そうとは――」

 笑止千万、司書の唇が吊り上がった。

「他の何かが起こしたことのとばっちりを食らうのは迷惑ですね」

 男は、口許から涎を垂らしていた。無理もないと司書は笑う。あれほどの読書、そして人外の知識を得ての実験。まともな人間ならば正気など保てるはずもない。気の触れた人間ごとき、殴りかかられてもどうということもない。

「生兵法は大怪我の基、と言うでしょうに」

 拳が司書に届く、その寸前。男の腕は何かに掴まれていた。首だけ振り向ければ、背後には警備員が。間近で見た警備員の帽子の下の顔。男は硬直する。知っていただろうに。いま目の当たりにして。警備員の唇がにぃと笑い、ぞぶりと音がした。自分の腹から他人の腕が生えるなど、想像もしたことがない。背中から貫かれ、馬鹿みたいに男は笑っていた。

「やっぱり、殺さな」

 人間のために、人間の自分が。化け物を。これもあれも全部。腹をかき回す腕に苦痛は途切れた。




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