第5話悪ふざけ




 煌々と満月が照り映えていた。夏の真夜中の海辺。どこか浮ついた匂いのするそれだった。打ち寄せる波、引く波、砂浜が洗われてころころと砂が鳴る。貝殻がころん、と転がった。

 本来ならば静謐であるべき時間に、どっと笑い声が響く。夏とあっては致し方ない、まだ子供のような少女たちのはしゃぐ声。三人ばかりの彼女たちは輪になってまるで踊るよう。

 口々に唱えるのは、聞き慣れない言葉。どこの言語だろうか。耳にしたものは首をかしげるに違いない。人間に発音できない音を無理やりに音声へと変換した、そんな意味のわからない言葉だった。

「いあ! いあ! くとぅるふー」

「きたりませ我が神よ」

「いあ! いあ! ――って、やだぁ」

 ふふふ、くすくす、少女たちの他愛ない冗談のよう、笑い合う。砂浜に足踏み鳴らし、夏のオカルトを彼女たちは存分に楽しんでいた。

 切っ掛けは些細なことだった。中の一人が一冊の本を見つけた、たったそれだけ。面白そうだ、やってみようよ、言い出したのは誰だったか。

 夏休みのちょっとしたイベントだ。この夏が終われば大学受験に向かわねばならなくなる。高校最後の夏を三人で馬鹿みたいに遊びたい。

「これでさぁ。ほんとに神さまとか出てきたらどうする?」

「えー。そりゃ、受験合格祈願でしょー」

「あんたは先に彼氏作ったら?」

「いやいや、彼氏より大学だって!」

「いあ! いあ! くとぅるふ! 合格させてくださいっ」

 真剣なのだか冗談なのだか、両手を合わせて海に願う彼女の姿を友人たちが大きく笑った。それぞれがどこの大学がいい、スイーツ食べたい、新しい水着、わいわい願って騒ぐ。

「新しい水着とかいつ着るんだって」

「いま! いま着るから!?」

「見せる相手いないじゃん」

「あんたたちが見てくれるでしょ!」

「あんたの水着見て何が楽しいのさ」

「このナイスバディに金払え!!」

 女ばかりとあって遠慮のない言葉。高校三年間ずっと一緒だった。褒められることは滅多になかったけれど、悪戯をするときも授業中の内緒のやりとりも、どんなときも。

「なんかさぁ。終わっちゃうよねぇ」

「大学行っても一緒だよ、とか言わないんだ?」

「変わるでしょ、そりゃ」

「うっわ、冷静」

 茶化しつつ、三人ともがそう感じていた。進学先はみなばらばらの予定。この先まじわることがあるかもわからない。少なくとも高校と同じでは、いられない。

「ここはさー、神さまずっとみんなと一緒にいられますよーに、じゃないの?」

「そこまで夢見てらんないわー」

「あんたクールじゃなくてドライだよね」

「それ褒めてない」

 褒めてないもん、笑えば頬を膨らませたまま叩くふりをする彼女。避けた拍子に砂に足を取られて転がって。きゃあきゃあと笑う声が夜の砂浜に響いた。

「なんか面白いことないかなぁ」

「ねー。どうせだったら出てこいっての」

「はい?」

「ほら、神さま的な何か? 出たら面白くない?」

「呼んどけ呼んどけ、はいはい」

 投げやりに言ったわりに彼女の目はきらきらと。三人揃って目を見かわして、にっと笑う唇。弾むような唇が再び繰り返す、あの詠唱を。

「いあ! いあ!」

 本に書いてあった通りに、だが本当はなんと読むのかよくわからない。これが、面白かった。わけのわからなさが、楽しかった。

「神さま出てこーい」

「いるなら出てこい!」

 海に向かって叫ぶのは、あるいは将来への不安もあったのかもしれない。だが、ただの冗談、遊びに過ぎなかった。いないとわかっているから、嘘だから願える。そんなものだったのに。

「何をしているんです?」

 不意に声がして、彼女たちは揃って飛び上がりそうになる。こんなことをしているところを他人に見られたなど、一瞬にして羞恥に染まる。

「えっと」

 そこにいたのは、ほっそりとした青年だった。補導員や何かではないことにまず安堵する。通りがかりに騒がしくて声をかけた、という辺りか。彼女たちの一人がふと口許を緩ませた。

「なに、これってナンパとかですかー」

 ふふっと笑って青年を覗き込むように見つめる。彼はただ苦笑しているだけだった。完全に子供扱いか、思ったのだけれどそれとも違うような。わけのわからなさに彼女はきゅっと唇を噛んだ。それに彼は言う。

「神の名を呼ぶ声が聞こえたからね」

「はぁ!?」

「ちょっとヤバくない? 大丈夫この人」

「呼んでただろう?」

 青年は微笑んでいた。気づけば彼の後ろにはもう一人。いつの間に現れたのか、彼女たちの誰もが気づかないうちにそこにいた。

「なにあの人――」

 夜だというのに目深にかぶった帽子があまりにも異常だった。青年は異様な風体を気にした素振りもなく、自分は図書館の司書で彼は警備員だ、と言った。

「司書? なにそれ。その人が、なんだって言うの」

「やめなって」

「逃げた方がよくない?」

 こそこそと囁き合うも司書にはその声がはっきりと聞こえていて苦笑を誘われていた。それがまた彼女たちには奇妙に映るのだろう。

「神の名は、みだりに口にするものではないよ」

 司書にとっては、善意の忠告だった。が、彼女たちには不審者と映った。無理もない、と背後で警備員が肩をすくめた気配がして司書は小さく笑う。

「やだキモい」

「信じちゃってるってやつじゃないの」

「うっわ、気持ち悪い!」

「いあ! いあ! くとぅるふ。いるなら出てこいー!」

「信者がいますよー」

 わっと笑う彼女たち。仕方ない子供たちだ、と笑って済ませるわけには行かなくなった。

「キモい信者がキモい神さま呼んでますよぅ」

「おまわりさんこっちですー。あ、違った神さまこっちですー?」

「くーとぅるふっくーとぅるふっ」

 囃し立てる彼女たちは知らない。司書の眼差しが変わりつつあることなど。夜目がきいてもわからなかっただろう。それは、人が見るべき目ではなかった。ふと司書の溜息。

「まったく」

 長い吐息だった。滑るよう進み出てきたのに、警備員の足跡は砂浜にずるりと残った。異様さに彼女たちの言葉が止まる。振り向いたのは、誰が最初だったか。夜の海に、何かが。

「……え?」

 ぽこん、と浮かんできたものがある。またひとつ、ぽこんと。次第に数が増え、あっという間に無数のそれが。見えねばよかった、月明かりに彼女たちの目であっても、見えた。

「やだ、なにあれ」

 まるで魚だった。まるで人だった。それでいて、どちらでもなかった。浮かび上がってきたそれが、海の中から立ち上がる。全身が見えた。

「ひっ」

 気づけば三人で互いに縋りつきあっていた。逃げたいとさえ、いまは浮かびもしない。目の前で見ているものがなんなのか、動けもしなかった。

「あなたがたにはね、ただの冗談だったのかもしれない」

 ゆっくりと司書が近寄ってきた。彼女たちは気づけば魚人と司書と警備員とに取り囲まれていると知る。鼻をつく臭いのきつさは、間違いなく魚人たちから漂ってくる。

「けれど、我々には冗談では済まない」

 忠告したとき素直にやめれば見逃したのに、司書は溜息まじりに呟いた。ずり、ずり、と魚人が近づいてくる。逃げ場はない。輪になって、取り囲まれて。

「待って、なにこれ。特撮とかいうやつ?」

 はは、と引き攣った笑い顔だった。彼女の目は確かに見ている、魚人たちの肌を、その鱗を。月光にきらきらと輝く鱗が作り物とは到底思えなかった。

「嘘でしょ、ちょっと、やめてよ」

 これは、着ぐるみなどではない。ぎょろりと丸い目が三人を見ている。ガラス玉ではない生身の目が。嘲るように威嚇するように開いた口はぷんと腥い。

「やだ――っ!」

 腰を抜かすこともできず、抱き合って震えた。なんの冗談だ、誰がこんな悪ふざけを。そう、言われたかった。頭ではそう思うのに、心が精神が理解してしまった。これは現実なのだと。いま、目の前に異形が、人ならざるものどもがいるのだと。

「ひ……ぃっ!」

 異形の腕が伸ばされた。頬に触れるぴしゃりとした感触、動けずに彼女は目の端で見た。その手に水かきがあったと。もう自分を誤魔化すことすらできない。生きた化け物がいまここにいる。

「神を呼んだのでしょう? 何を恐れることがあるんです?」

「だ、だって……!」

「神の御許へと案内して差し上げますよ」

 ほんのりと司書が微笑った。無垢とすら言い得る笑みに少女たちは震えさえ忘れて硬直する。自らを待つ運命を予感してしまったがゆえに。

 司書の笑顔と共に異形どもが彼女たちを囲む輪を狭めた。魚臭さに顔を顰めることもできない。縋りついた互いの手は凍えんばかりに冷え切っていた。

「いや……っ」

 異形どもが、彼女たちを捕まえた。肩を掴む手。頭を固定する手。髪を引っ張る手。いずれもぬめぬめと。一匹が片腕を捉え、別の一匹が反対を。跪いた姿勢のまま彼女たちは司書を見上げさせられる。

「お願い、やめて――」

「ごめんなさい、放して」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

 ほろりとこぼれた涙に司書は首をかしげていた。意味が、わからないと。彼女たちはなぜ泣くのだろうと。それにこそ、彼女たちは震えた。

「誰――」

 なに、と言いたかったのかもしれない。これは、何者だ。目の前に立つ優しげな青年は、いったい何者だ。魚人たちを従え、ただ穏やかに微笑む彼は。

「人間じゃない」

「あんたなんか人間じゃない」

 叫ぶようなその言葉が真実を言い当てていたなど彼女たちは知らない。異形が面白そうに笑った気がした。ぐい、と仰け反らされ、喉が露出する。

「やめ……」

 いまこそ感じた恐怖。殺される。はっきりと悟った。どうしてこんなことに。ただの遊びで殺される理不尽などあってよいはずが。

 だが司書の眼差し。透き通った魚の目にも似た意思の見通せない目。抗弁の無駄を脳より先に身体が悟った。自らを裏切り、体にはまったく力が入らない。ぐったりとした体を支えるのは異形の手だった。

「ね、ねぇ、お願い!」

 一人が司書の傍らにある警備員へと叫んだ。無駄と知りつつせずにはいられなかった。それに司書が微笑む。

「君は反対するかな?」

「……まさか」

「だよねぇ」

 喉の奥で司書が笑う。くつくつとした笑い声はあたかも水中の泡のよう響く。そして。

「いやぁぁぁああああ」

 警備員が、その帽子を取り去った。人間だと思っていた。司書と言葉をかわしていた。けれどしかし、帽子の下は。

 魚人どもに、どれほど似ていたことか。頭髪はなく、肌は荒れているのではない。鱗。それは鱗だ。裂けたような口は大きな魚を思わせる。なにより、首には、鰓があった。まるで傷跡のようなそれは、だが裂けている。時折呼吸にも似て動いた。

「さぁ、はじめようか」

 にこりと司書が言う。それに魚人どもが歓声をあげた。たぶん、歓声だった。くぐもり、人語ではないそれは、意味などわからない。ただ彼女たちの肌が知る、精神が知る。これは、祈りだと。先ほど自分たちが茶化していた、あの祈りの真実の形がここにあるのだと。

 無数の異形が声をあげ、声は揃い、海に響もす。

 彼女たちは感じた、己の首筋に異形の手が、鋭い爪が。つぅ、と糸を引くよう動かされたのを。一本、二本、両側に二対の傷が刻まれたのを。あたかも魚人たちの鰓のように。

「神に会いたかったのでしょう。我らが神の供物となる身を喜ぶといい」

 司書の指先が額に触れた。高まる祈りの声に彼は微笑む。これほど大きな声がしているのに、どうして誰も助けにきてくれないのだろう。疑念と恐怖と怯えとに支配されつつ彼女たちは司書の指を感じた。

 それが、最後の感触となった。引き裂かれた体も、抉られた内臓も、おびただしい血糊も、残ってはいない。すべては海に。異形も一人また一人、と海へ帰っていく。見送るのは司書と警備員。再び帽子をかぶり直していた。

「騒ぎは起こしたくないと言っていたのに」

 くぐもった警備員の声はどこか呆れているかのよう。

「それはそうなんだけど。見過ごせないでしょ」

「それはそうですけどね。さて――」

 不意に警備員が振り返った。無論、司書も気づいてはいた。そこに、遺棄された船があると。その陰に少女がいることも。さくり、砂が鳴る。司書の足取りに合わせて警備員も行く。船の側、少女は震えていた。

「何か、見ましたか?」

「み、見てない。私なにも見てない。見てない見てない、なんにも見てない!」

 月光に漂白されたよう真っ白い少女の顔。血の気の失せ果てたそれに司書は笑みを向けていた。見逃してもよい、本当に考えていたのだが。この少女は悪ふざけに加わっては、いなかったのだから。

「私のせいじゃない――!」

 這いずるよう、彼女は逃げようとした。そのポケットから、一冊の本が。司書の目が細められ、進み出た警備員が書籍を拾う。手渡されたそれに司書は溜息をついた。

「あんな子供たちがなぜ知っているのかと思ったら。こういうことだったか」

 少女は首を振る、何も知らない関係ないと。彼女は仲間たちにそそのかされただけだった。郊外に図書館があるらしいと。変な本がたくさんあるみたい、と。人のいない時に忍び込んでしまえばわからない、言ったのは誰だったか。

 彼女はそうして一冊の本を持ち出した。触れた瞬間、だめだと思った。窃盗がではない、これは触れてはならない本と悟った。けれど彼女は、ほんの少し。

 ――いつも私を馬鹿にしてばっか。ちょっと怖い目に合うかもだけど。

 合えばいいのだ、思わなかったと言ったら嘘だ。だから、彼女は仲間に本を渡した。仲間は喜んで馬鹿騒ぎをすると言い出した。本に書いてあった通りに。

「私じゃない、私はやってない――!」

 ずりずりと尻で逃げる彼女に司書は肩をすくめていた。警備員は動きもしない。逃げられる、一瞬はそう思ったものを。

「本当はね、僕は本を探しにきたんですよ」

 小腰をかがめ、司書は彼女を覗き込む。彼の目に何が映っていたものか。少女は声にならない絶叫を。

「愚か者が我らが神を愚弄するところに出くわしたのは、たまたまです。本当の目的は、本だ」

「わ、わた、わたし、は」

「僕の本はやんちゃをする。時折勝手に消えるものだから、今度もそうかと思っていたのだけれど」

 まさか隠れていた少女の手元にあるとは。司書は苦笑していた。砂に汚れた表紙をぽんぽんと手で払う姿など、ありふれた青年。それでも彼女は、あるいはだからこそ。先ほどの情景が脳裏に蘇る。血みどろになって死んでいった仲間たち。それをさせた司書。

「あなたは人間でしょう?」

「そ、そう。うん、人間、人間だから――っ」

「だったら、知っているはずですよね。『人の物を盗んではいけません』って、わかってるでしょう?」

 司書が微笑んだ。不意に彼女は口許を覆う。途轍もない吐き気に襲われていた。唐突なこの異臭は、いったい。生臭い海の臭いではない。ガス、石油、腐ったもの。いずれでもない強烈な異臭に彼女は臭いの元を目で探す。

「ひ……」

 それは、司書の足元だった。海からなのか影からなのか。ぬるり、ぬたりと這い寄る粘性が。漆黒でいて月光に照り映える虹色の輝き。ふつふつと泡立ちあるいは目が、あるいは口が現れては消える。テケリ・リ、テケリ・リ、この世ならざる悍ましき啼き声。

「……ぐ、ぅ」

 拒絶だったのだろうか。謝罪だったのだろうか。一瞬にして粘性に飲み込まれた彼女の声はもう聞こえない。粘性が咀嚼する音と潮騒が。

 見届けることさえせず司書と警備員は立ち去る。ほどなく黒い粘性は司書を追うよう移動をはじめた。残るは銀に、多彩に光る粘液のみ。それもすぐに消えた。

 ある年の夏、四人の少女が行方不明になった。一時騒がれ、だがそれだけの事件だった。




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