第4話別れの歌
図書館を訪れた客は出迎えた司書に驚きの表情を見て取って訝しい。ここを訪れるのははじめて、まして司書の知人などいない。だが眼前の司書はまるで出会うはずのない知人を見たような目をしていた。
「失礼しました。お待ちしていました、どうぞ」
だが生け垣を割った戸を開けた司書は何事もなかったよう微笑む。来客は予約の電話口で司書と名乗ったのは彼だろう、と思う。声の印象と容貌が極めて近い。
「あの……」
おずおずと入った客は若い男だった。年齢で言うならば、三十代に入ったかどうかというところか。まだ学生気分の抜けていない立ち居振る舞いが彼を未成熟に見せている。
「なんでしょう?」
前を行きつつ、司書は彼が不思議そうに首をかしげているとの気配を捉えていた。無論のこと彼は司書に気取られているなど知る由もない。
「初対面、ですよね?」
「もちろん。……だと、思いますが?」
「いえ、先ほど僕を見て驚いたような顔をなさったような、そんな気がして」
「――想像よりお若い方だったので。失礼しました」
一瞬口ごもった司書と、彼は気づかなかった。そのようなものだと、納得する。否、そうするしかない。司書の男性には彼も見覚えがないのだから。
「先にご紹介しておきましょう」
驚かせてしまうといけないから、振り返った司書の微笑。感情の籠らない笑顔だな、と彼は思う。それを咎め立てする気はなかった。
「はい?」
返答をした瞬間だった。裏庭にあたるのだろう、ここは。すぐそこに大きな蔵が見えている。おそらくはあれが私設図書館。その彼の目が大きく見開かれた。
「うちの警備員になります。無口な男なのでお邪魔にはならないかと」
つい、と司書の傍らに立ち一礼した男は屈強だった。目深にかぶった帽子から表情は窺えず気味が悪い。それを狙ってのことならば警備員としては成功なのだろう。
「え、えぇ……」
紹介しておいてもらってよかったかもしれない、彼は思う。もし、突然に出くわしたならば悲鳴のひとつもあげかねなかった。それほど、異様。引きずるような足取りだとか、顔形が見えないだとか、そのようなものではない。存在そのものが不可解だと、あとになって肌を粟立てた彼だった。
ぎちり、と司書が開けた蔵の扉。黴臭いかと思えばそのようなことはなく、図書館として利用しているのだから当然かと思い直す。
「どうぞ」
荷物らしい荷物を持っていない客だった。本来ならば荷物は預けてもらうのだが、と司書は笑う。
「そうなんですか?」
「稀覯書の類も多いので。万が一のことがあっては困りますし、お互いのためです」
疑われるのも疑うのも嫌なものだろう、薄っぺらいような司書の言葉ながら、ふと来客は身を震わせていた。きっと、視界に入った警備員のせい。
――もし、盗難なんてことになったら。
あの警備員が。ただ警察に突き出して終わり、にはならないような気がした。
「それで、なんの本をお探しですか」
客に向け問いかける司書を警備員が見やった。来客は知らなかった、その問いが珍しいものなのだとは。通常は客を放置する司書だというのに。
「それが……その。かなり荒唐無稽な話に聞こえるのは、わかっているのですが」
「うちにおいでの方はみな、そのような本をお求めですからね」
何もお前だけではない、嘲笑われた気がして来客は唇を引き結ぶ。本当は、いまでもまだ迷っていた。本を探すことも、ここまで来たことも、こだわっていることも。
「司書さんは、ここは長いんですか?」
「と、言うと?」
明かりをつけつつ司書は首をかしげる。そうするだけで、この蔵がまるで図書館のように見えた。明かりがなければ、そうは見えないのだとも来客は知った。
「もう、かなり前になるんですけど」
客は言う。この都津上にはかなり大きな森林公園があると。イベントも多く行なわれている、市民の憩いの場だと。振り返った司書は微笑んで聞いていた。
「そこで、事件があったのは、もう何年前になるかな――」
自嘲する来客だった。酷い事件だったと彼は言う。カルト教団によるテロだったと。野外劇場で上演されていた舞台に乗り込んでの自爆テロ。数多の人々が亡くなり、あるいは再起不能の傷を負った。いまだ入院している人もいるらしいと来客は聞いている。
「それが?」
図書館を訪れる理由としては不思議なものだ、と司書は笑みを浮かべたまま。いつの間にか警備員は消えている。よくよく見れば書架の間にいる様子だった。
「先輩たちが、事件に巻き込まれたんです」
「それは……」
「一人、亡くなりました」
ぽつりと彼は言う。人体の形跡を留めていない遺体も多かった中、形が残っていただけでも救われた、先輩の遺族は言っていたけれど、葬儀の際に最後の顔は決して見せようとはしなかった遺族。
「酷い亡くなり方だった、と聞いています」
「月並みですが、お悔やみ申し上げます」
「いえ……」
もう何年も経ったと彼は苦く笑った。当時はショックだったけれど、いまに至るまで引きずってきたわけでもない。面倒見のよい男で、なにくれとなく研究の手伝いをしてくれたものだったが。
「あぁ、言ってませんでした。大学時代の先輩なんです。比較宗教学の研究室にいて」
「そうですか。ここは宗教関係の書籍が多いですよ」
「それを、あてにして来たんです」
「研究の再開、ですか?」
「いいえ」
きっぱりと言う来客だった。もう何年も前の事件だった、先輩が巻き込まれて亡くなったのは。就職もして、忘れるともなく忘れていたものを。
ふと耳に入ったのだと彼は言う。噂話だと。はじめは、あの事件のことだとはわからなかった。理解が進むにつれて、酷い話だと思った。
「事件の関係者……というわけではありませんけど、被害者を知ってた自分としては、最低な噂話だと思いました」
荒唐無稽にもほどがある。被害者を侮辱する意図があるのか、そう疑ったのだと。だが所詮は噂。意図も何もない。面白おかしく語られているだけだった。
「がっかりしたのは、事実です。そんな連中が身近にいたのかって」
「関係のない話だからこそ、噂は面白いものなのでしょう」
「かもしれませんね。――いまは、噂だと思っていませんが」
「というと?」
ふと司書が眉根を寄せた。呼んでもいないのに滑らかに警備員が現れる。ぎこちない歩き方とは到底思えないほどの素早さだった。
司書は警備員に軽く視線を向けただけ。笑みの欠片を客は見たように思う。一瞬のことで確かではない。あれが、笑みであったのかも定かではない。ただ警備員が納得し退いたのは見えた。
「失礼」
謝罪され、はじめて自分が強張っていたことに彼は気づいた様子。何度か手を握ったり開いたり。汗ばんだ手の平に本人が驚いていた。
そして、それが恐怖とは理解しないままに彼は話を続けた。噂と思っていたものが、どうやら事実であったようなのだと。
「事件現場を目撃した、という……その、なんと言えばいいのかな。ホームレスの人がいて。物陰に隠れていて無事だったらしいんですけど」
「目撃者ならば、警察の捜査の対象だったのでは?」
「そこなんです。――その人、正気じゃなくて。いえ、なかったらしくって」
己を取り戻したのが最近だったのだという。もし入院してでもいれば警察も掴めたかもしれない。だが、彼は。
「あぁ、なるほど――」
「そうなんです。仲間たちがなんとか食べさせて飲ませて、命を繋いでいたような状況だったと聞きました」
「慕われていた方なんですね」
「きっと。持ち直したと、喜んでいたのだとも聞きました」
ふ、と来客は床に視線を落とした。それから、その人も亡くなりましたが、と呟く。正気に返ったがゆえに、生命を保てなかったとは皮肉だ。
来客は、亡くなる直前の彼に会えた、そして話を聞けた。凄惨というもおろかな事件の全貌を我が目で見たよう、聞いた。
「変な、と言えればよかったような、話でした。――笑わないでくださいね、化け物がいたって、言うんですよ」
来客は、それを真実と信じてしまった。なぜならば、語り手は狂ったのだから。ただのテロなどでは断じてなかったのだと、否応なしに悟った。司書に語る彼の手は震えている。思い起こすだけで、逃げ出したくなるとの表れのよう。
「だから、来たんです」
そして来客は顔をあげた。司書を真っ直ぐと見た。眼差しの強さに脆さを見る司書は、何を思うのかただ微笑むだけ。小首をかしげ、冗談だろうと言うように。あるいは、先に進む意思を問うように。
「この図書館なら、そんな話が調べられる、と聞きました」
「――誰にです?」
「同級生が、マスコミ関係で。警察の方とも知り合いらしくて」
そちらから聞いたのだ、と客は言った。それに司書は肩をすくめる。同意のような諦めのような仕種だった。だが、客はそこに希望を見た。少なくとも司書は否定をしていない、ここにあるのだと。
「それを調べたいんです」
「調べて、どうするんです」
「どうって……」
「化け物、異形、人外。なんでもいいでしょう。確かにここにはあなたの望むものがいくらでもある」
すぅと司書が両腕を広げた。まるで図書館すべてを抱くかの。知らず客は一歩を下がる。なぜそうしたのかもわからないままに。
「それを知って、仮に事実と信じて。あなたはどうするのですか」
「……わからない」
「そうですか」
「わからないから、調べたい。知らないままは……怖い」
無惨に殺された先輩が、なぜ死ななくてはならなかったのか。理由など調べてわかるものではない。だが、あの場で何が起こったのかだけは、最低限わかるのではないか。
「先輩だけじゃないんですよ……」
呟き、客は己の両手を見た。その手に何があるのか、客自身にもわからないのかもしれない。
「同じ研究室にいた同級生も、助手の人も、行方不明なんですよ。担当教授だって突然亡くなった。笑えるでしょ。どんな大学だよ」
ははは、虚ろに笑う客に司書は答えない。書架の間から警備員が顔を覗かせ二人を見やった。それに司書は苦笑のよううなずく。
「少し――」
「なんです?」
「助手さんに、似てる気がします」
かすかに客は笑った。顔形ではない、佇まいとでもいうようなものが似ているのだと。行方不明の人間に似ているなど言われて不快だろうと詫びつつ。
「それは別にかまいませんが……そう、ですか」
小さく司書が笑った。客自身をはっきりと見て、微笑む。そうしてはじめて客はいままでこちらを見ているようで見ていなかった司書と気づく。視界に入っていても、認識はしていなかった、とでも言えばいいのだろうか。そのことに不思議と背筋に冷たい汗が滴った。
「どうか、お願いします」
ぐっとこらえ、客は頭を下げた。司書の目には客の額に滲んだ脂汗が見えている、身体が放つ恐怖の匂いを嗅いでいる。困ったよう笑った。
「どうぞ、こちらに」
ありがとう、客の顔がぱっと明るくなるも束の間、すでに司書は背を返し書架へと向かっていた。慌ててそれを追いかけ、改めてあまりに多くの書籍と圧倒された。
「すごい……」
ほとんどは古書の類に見える。現代の流通ではないだろう。何ともわからない革装丁の本に触れかけ、立ち止まることのない司書を追いかけた。惜しいと思いつつ。
「この辺りでしょうね」
どことなく嫌そうな顔をした司書だった。司書というのに、書籍に触れるのすら嫌がるとは意味がわからないものの、客は興奮にそれどころではない様子。両手で抱えて書き物机へと嬉々として戻って行く。弾む足取りに司書は肩をすくめていた。
本人にとっては幸運だった。渡された書籍はみな少なくとも古書ではあっても読めた。さすがに辞書の助けは借りたものの、読めた。
――なんだこれ。
比較宗教学などを修めていれば相当に奇妙な話は聞き慣れ見慣れている。しかし、これは。あまりにも。異界としか思えない情景、黄色にして多彩の襤褸。蒼白なる仮面。それは、人ではなく異形でもなく。
「こんな……」
これが、あのホームレスが語った化け物。確かにこれだと客は確信してしまった。まるで、目の前で見たかのように、脳裏に再現されてしまった。
気づけば寒気が止まらない。知るのではなかった。思うも遅い。更に知らねば、恐怖は募るのみ。だからこそ、司書はどうするのかと問うたといまにして知る。
書き物机に備えつけられていたメモに文字が乱舞していた。気づいた客が痙攣に似た笑いをもらす。その文字があたかも触手のように見えた。
「馬鹿な、あり得ない。あり得ないのに」
これで死んだのだと理解してしまっている。何度となく遊びに行ったあの森林公園に、仲間たちと覗いたあの舞台の上に。名付けるすら憚られるものがそこいたのだと。
「そりゃ……死ぬわ。こんなの、無茶だ。化け物なんて、生温い。こんなの、あり得ない」
人間が立ち向かうことのできる何かでは間違ってもないのだと。客の口許からは知らずうちに笑みと涎がこぼれていた。不意に視界が遮られる。見れば、開いた本の上、司書の手が。
「まだ、続けますか」
見上げた司書の顔は影になり、定かではなかった。客は何を問われているかわからないのか、無意識の仕種か、無言で首を振る。
「もう一度、聞きましょうか。知って、どうするんですか」
「どうって……こんなの、どうにも、できないじゃないですか。こんなの、事実だとしたら、事実なんですよ。これがこの世の真実なんです我々人間がどうにかできるようなものではないでしょ神だ、これは神なる――」
ぽんと音がして客は目を瞬く。司書の手が本を閉じていた。軽く、けれど不思議と重たい音に客はぼんやりと司書を見やるだけ。それに彼は苦笑してはポケットから手鏡を。
「のめり込みすぎです」
映ったものに客はぽかんとした。ついで、理解の証とばかり悲鳴が。そこには、客の顔であってそうではないものが。見慣れた己の顔とは思えない白髪。愕然と両手を髪に差し込めば鏡の中も同じ動作。紛れもなく、己が映る。
「あなたは、知ってどうにかなるものではないものがあると知った。ならば、ここでおやめなさい。いま引き返せば、あなたは忘れて生きていける」
司書の言葉と共に客の視界にはあの警備員の姿が。あの帽子の下はどうなっているのだろう。自分と同じよう知るべきではないものを知り真っ白に。そう思ったら最後、座ってなどいられなかった。物も言わずに椅子を蹴立てて立ち上がる。
「せ、先輩は――」
「あなたは何も見なかった」
「見なかった――」
「見たんですか」
ずりずりと下がるのに、司書は一歩また一歩と追って来た。その口許にある笑みに客は怯えた。
「あ、あなたは」
「なんですか」
「し、司書さん――」
人間なのか。いま知ったばかりの化け物たちの仲間ではないのか。巡る想像が客の口を閉ざさせる。もし、もし、もしも。そうだと答えられたならば。
「ひ……っ」
逃げた。転げるように図書館を走る。足がもつれるたびに、司書の足音。悲鳴も上がらず口だけがわななく。転んだ。
「やめろ、来るな。来るな。来るなって言ってんだろ!?」
震える足を叱咤して立ち上がろうと努力する。背後からは司書が、そして、横合いから警備員が。追い詰められた客は幸いだった。吹き飛んだ理性が身体の制御を奪ったかのよう飛び上がり猛然と駆けた。明かりを目指して。不思議と開いていた蔵の扉。こけつまろびつ光を目指す。
――それでいい。壮健で。
口から泡を吹き、意味不明の言葉を叫びつつ庭を駆け抜ける彼の背中に聞こえたかもしれない言葉は、潮騒の音がした。
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