第3話ビブリオマニア




 私がこの図書館を訪れた目的はただひとつだった。変わった本が読みたい。人に知られていない、手垢のついていない、世にも珍しい奇書こそを読む。その愉悦を味わわんがために。

 はじめは、まるで信じてなどいなかった。

「完全予約制の図書館だと?」

 噂話で耳にしたものの、そのようなものがあるものかと笑って済ませた。あまりにも、奇妙な話ではないかと。図書館ならば広く知られていなければならない。公共の益に供するのが図書館というものだろう。

 が、それからも何度か耳に入ってきた話によれば、図書館とはいえ私設のものらしい。ならば、あるのだろうか。そのような奇妙な図書館が、本当に存在するのだろうか。

 そう思えば矢も盾もたまらなくなった。話を聞かせてくれた人に更なる話をせがみ、ただの噂と困惑されることを繰り返し。

 そして、ようやく、事実にたどりついた。本当にあったのだ、その図書館が。予約制といいつつ、連絡先は非公開。本物だ、私は直感した。震える手で連絡を取った瞬間をいまもまざまざと思い出せる。

「――えぇ、お待ちしております」

 穏やかな若い男の声が電話の向こうで。司書と名乗った彼に予約の日時を告げてからは日常生活などとても送れるものではなかった。

 毎日が楽しみで楽しみで仕方ない。俗に遠足前の子供のようなどと言うけれど、当の子供とてこれほどではないに違いない。何をしても上の空で仕事も手につかなかった。

「また出張なの」

 旅行鞄に荷物を詰めていたら、妻の呆れた声がした。適当に返事をしたはずだが、よく覚えてはいない。

 図書館に出かけるのに旅行鞄が必要だなどと言えば面倒な説明をせねばならない。しかも、聞いて納得するとも思いがたい。私自身、奇妙な話だとは思っている。それ以上に大変に興味深いと。

 予約した図書館は、一切の貸し出しを禁止している、という。司書は、それだけはご理解くださいときっぱり断言した。その代わり、隣接する家に宿泊してもかまわない、という。

 なんと面白い話だろうか。図書館併設の宿泊施設とはずいぶんと心弾むことを考えたものだと思う。私のような読書好きにはたまらない施設だ。

 どれほど滞在することになるのかは、行ってみなければわからない。司書も当日に予定を告げてくれればよいと言う。あるいはだから完全予約制なのかもしれない。多くの宿泊客をさばくことはできないのだろう。

 そんなことを考えつつ訪れた図書館は、趣きあるものだった。出迎えてくれた司書はやはり、電話口の印象の通り若い男。端正な佇まいがいかにも司書といった風情でこれもまたよい。

「お待ちしていました」

 微笑む司書が生け垣の戸を開き中へと促す。そこに広がっていたのは、私には夢のような景色だった。二棟の蔵がそびえ立ち、司書はそれが図書館だと言ったのだから。

「まずお荷物をあちらに」

「いや……」

「申し訳ないのですが、お鞄は蔵にお持ちになりませんように」

 なるほど、盗難を案じているらしい。疑われるのは不愉快ながら理解はできる。私はおとなしく司書に従い、まずはと宿泊施設に通された。

 それもまた、驚きだった。どうやら図書館に利用している蔵は屋敷の裏庭に建てられたものだったらしい。図書館として利用するにあたってわざわざ裏庭側の生け垣に戸口を設けたものなのか。本来は裏口であっただろう場所から中へと入れば、正に屋敷だった。現代でこれほどの日本家屋がこうして使用されているとはまったく驚きだ。古民家ホテルなど物の数ではない。いまも屋敷の住人がひょっこり顔を出しそうな生活の匂いがする。

「こちらをどうぞ」

「あぁ」

「おもてなしはいたしません。後ほどご案内しますが、キッチンやお風呂はご自由にどうぞ」

「食事は勝手にしろと言うことかね」

「愛想のないことですが」

 ここは図書館なので。そう司書は微笑んだ。私としては異存のあるはずもない。読書に没頭しているときにやれ食事だ風呂だと呼ばれるのは迷惑千万。そんな私の心のうちを悟ったのか司書はゆるりと笑った。

 畳敷きの立派な部屋に荷物を投げ出すように放り込み、司書をせかす。そうしてからわずかに羞恥を覚えた。だが司書は気にした素振りもなく、では蔵へ、と案内に立つ。若いのに中々の男だった。

「君は学問をしたのかね」

 問う気になったのは気が逸るせいか。悠然と歩みを進める司書に対して恥ずかしい、そんな思いでもあったのかもしれない。

「大学では、比較宗教学を修めました」

「ほう……」

「ここは、ですからそのような書籍が多く収蔵されていますよ」

 ぎちり、と蔵の扉が開かれた。途端に私は司書の話などどうでもよくなった。扉の隙間から漏れ出てくる本の匂い。それだけで飛び上がりそうだ。危ういところで司書を突きのけ突進する無様を見せずに済む。そうと察した司書が脇へと避けただけかもしれないが。

「おぉ……」

 言葉になどならなかった。これはなんだとばかりぽかんと眺めていた。私設の図書館などというものだから、もっと小規模なのだと思っていたのだが。想像を遥かに上回る。蔵を改造しているだけに高い天井まで書架が伸び、その書架には一杯に数多の書籍が詰まっている。

「なんと」

 どれもこれも一見してなんの本、とわかるものはない。革装丁、見慣れぬ紙の装丁、箔押し、象嵌。あちらには巻物仕立て、こちらには紙片を綴じた冊子。読書家の夢がここにあった。

「どうぞご自由に。メモを取るのはかまいません。言うまでもないでしょうが、ぜひ丁寧に扱ってやってください」

「もちろんだとも!」

「お気をつけを。ここの本はみな我が儘です。汚損すると……何があるか、わかりませんよ」

 司書の口許がほころんだ。冗談なのだろうが、読書好きには悪くない冗談だ。私は当然のことだと首肯しつつ、意識はすでに書架にあった。

 司書がいつ消えたのかも覚えてはいなかった。書架の間を逍遥するとはなんたる贅沢か。あれもこれも手に取りたい。その気持ちを抑えて一周してみた。

 わかったのは、私がいままで読んだ本が一冊さえないという事実。踊り出したい気持ちが、わかってもらえるだろうか。ここにあるすべては私に読まれるのを待っている本たちなのだと思うだけでときめきが止まらない。

 その弾んだ思いは、すぐに落胆へと変わった。図書館の本の多くは、私が読める言語ではなかった。天国から地獄に叩き落とされたとはこのことだろう。嘆きつつ、未練がましげに本の表紙を撫でてみる。ひんやりとして、少し気味が悪い。吸いつくような手触りだった。

 数冊ばかり、日本語の書籍を見つけた私は、図書館の中央辺りに用意されていた書き物机へと腰を据えた。椅子の座り心地は実によい。読書にはこのような椅子がなければと思わせるようなよい椅子だ。

 わくわくと本を開く。ざっと見た限り、ノートの類と思しき手書きのものもあった。もしかしたら、いずれかの外国語の書籍の翻訳ノートであるのかもしれない、と期待して持ってきたのだが、正解だったようだ。

「ほう――」

 はじめのうちは単語を逐語訳したのだろう、なんとも読みにくいそれが一種味わい深い。人のノートだと思うとまたそれも興味深い。大人になれば他人のノートなど見る機会は失われる。若い日に戻ったような喜びを覚えた。

 少しずつ、単語が文章になっていくのは面白いものだった。意味がさっぱりわからないのが恨みだが、通して読めばいずれ理解できるだろう。読書などそのようなものだ。

 だが悲しいかな、私も生身とあっては腹が減る。若くはない肉体は椅子に座し続けたせいで骨まで強張った。痛みを感じて伸ばしてみたものの、どうやら手遅れ気味の様子では仕方がなかった。

 ここは休憩としよう。立ち上がって驚いた。蔵の外は闇だった。郊外にあるせいだろうか、家から漏れる明かりも少なく、思わず私は立ち止まる。正直に言えば、屋敷の裏口にたどりつく自信がなかった。

「ご休憩ですか」

 飛び上がるかと思った。不意に司書がそこにいた。おそらくは闇に紛れて私の目には見えなかったのだろう。

「あ、あぁ。休憩と、食事を」

「そうでしたか。ご精が出ておいででしたからお声はかけませんでした」

「そうしてくれてありがたい」

 やはり司書は読書家の気持ちがよくわかっている。満足する私を司書はさりげなく裏口へと導いてくれた。夜目が利くのか、それだけ慣れているのか。

「足元にお気をつけて」

 返答をしようとしたとき、それが目に入った。思わず上がってしまった声は掠れてみっともない。うろたえる私に司書の方が詫びた。

「お目にかけるのが遅れました。――警備員、と思っていただければ」

 司書の傍らに、いつからいたのだろうか。警備員というほど大柄ではないがよくよく見れば屈強ではある男は無言で一礼してきた。私もそれに目礼を返す。

 少しならず奇妙な男だった。警備員とはいえ制服を着ているわけではない。昔風にいう用心棒の方が近いのではないか。目深にかぶった帽子から覗く部分はあまりに少なく表情はまったく窺えない。あるいはそれは、ひどく荒れているらしき肌を恥じてのことかもしれないと部屋に戻って気がついた。

 何はともあれ、強張った肉体をなんとかしないことには食事もできない。自由にしてよいと司書が言ってくれたのを幸い、ありがたく風呂を借りた。さほど広くもない家庭用の浴室は、やはりここが民家なのだと思わせる。

「広いものだ……」

 だからこそ、呟いてしまった。羨ましいとすら感じる。もし私にこれほど広い住宅があったならば、どれほどの蔵書を収めることができるか夢想する。

 ――及ばないか。

 あの蔵の図書館の素晴らしさ。思い返すだけでうっとりとした。この世にはまだ見ぬ本がこれほどまでに私を待っている。

 その気分のよさに、食事の支度の面倒さも飛んでいくようだった。家事などしたことがない。食事と言ってもろくに作れたものではなかった。はじめからそれはわかっていたことだ。私は簡単に食べられるものとしてレトルト食品を選択してきた先見の明を自ら誇る。食事の支度などに時間をかけている暇はなかった。早急に読書に戻らねば。本が私を呼んでいる。

 かき込むようカレーを貪った。うまくはないが腹は満ちる。それでよい。ちょうど匙を置こうとしたとき、ふと奇妙な音を聞いたような気がした。振り返っても誰がいるわけでもない。気のせいだろうと座を立った。

 再び図書館に戻れば司書がいた。あの警備員はどうやらいない。そのことに安堵する己が多少不可解だった。だが、悪さをしたわけでもないのに監視されるとは不快なものだと納得する。

「まだお読みになりますか」

「無論」

「そうですか。僕は一旦さがりますが、何かあれば呼んでいただければ。部屋に内線電話がありますので」

「あぁ、わかった」

「それから」

 なんだと司書を見やった。長々と話しをする気分ではない。本がそこにある。私の気持ちを察したか司書はにこりと微笑んだ。

「敷地から持ち出さなければ、本はお持ちになってかまいませんよ」

「なに?」

「お部屋でどうぞ」

 では、と司書は図書館から出て行った。礼を述べるのも忘れて私は歓喜の中にいた。これをずっと読んでいられるのかと。寝床に持ち込み夢にまで持ち込める。そんな子供じみたことを考えた。

 早速にも夜の読書に相応しいものを選び出す。あれもこれもと目移りするが、それもまた心躍る。司書はあのように言ってくれたが、ここは一冊に留めるべきだろう。私は逸る気持ちを抑えて特別に不思議な本を手にして、部屋へと戻った。

 それは、なんと不可解な本であったことが。日本語ではある。だが、元は外国語の文章なのだと如実に想像できた。それほど、硬い文章だ。こなれていない、小説としては不出来な部類に入るだろう。

 だがしかし、奇妙に心惹かれる。読み進む目が止まらないのは、なんと楽しいことか。ごつごつとした違和感ある文体が、このいわく言いがたい内容に実によく合う。

 ファンタジー、とでも言えばよいのか。あるいはホラーか。普段は読むことの少ない分野だが完全予約制の私設図書館という舞台が整っている。なんともぴったりではないか。

 水に棲む異形の化け物。人間がそれへと変異していく。自ら望んで変異する人間もいる。その呪文というべき文言まで記されている。徐々に私は楽しく興奮しはじめていた。

「ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん――」

 思わず読み上げてしまった稚気に羞恥を覚えた。赤らんだに違いない頬をこする。海に生きる異形が崇めるという神。その神に捧げる祈り。いったいどんな人間がこのような音の羅列を作り出したものか。素晴らしき才能だと私は見知らぬ著者との出会いに感謝していた。

 ふと、だが何かを聞いた。気のせいだろうか。笑い声か。それとも嘲りか。一瞬のことではあったが、聞き間違いではない、はずだ。思えば食事中にも聞いた気がする。あれと同じだった、ような。

「うむ……体が痛むな」

 そのせいで妙な感じがしたのだろう。私はそう思い込み、再度入浴をしようと考える。悪くない思いつきだった。寝床で読もうと思っていたはずが、すっかり夢中になって座ったまま読んでいたおかげでまたも体が痛い。

 温かな風呂に入れば気持ちもまた変わるだろう。けれど、風呂の扉を開けた瞬間、私は顔を顰めた。なんだ、この臭いは。先ほどまで、こんな臭いはしなかった。気がつかなかっただけか。否、そんな馬鹿な話はない。

「海――」

 潮の香、と気づいた私は立ち尽くす。まるで本が現実を侵食したかのような。知らず虚ろな笑いが漏れた。

「き、気のせいだ。ここは、海に近い土地だからな」

 無理に言い聞かせ、だが浴槽につかる気力はなく、私はむざむざと部屋に戻った。確かに、海には近い。内陸部ではない。それでも、潮の香りがするほど近くか、ここは。

「風の具合もあるからな。そのようなこともあるだろう」

 ははは、笑った声が部屋に反響した気がして、私は本を手に取った。こんなときは読書に限る。読んでいるうちに忘れるだろう。

「ふふ。またあった。いあ! いあ! くとぅるふ ふたぐん! いあ! いあ! くとぅるふ ふたぐん!」

 面白い響きだと思う。中々お目にかかれない奇妙に不思議な音の連なり。いったいどのような意味を持つのだろう。何度か繰り返し読んでみた。声に出してみた。そのうちに意味が掴めるのではないかと期待して。

 だが、訪れたのは。悪寒だった。わけもなく全身の肌が粟立つ。本を持った手の甲にまで浮かんだ鳥肌。なぜかは、わからない。私の心の奥底が叫ぶ、この本を放せ、と。それなのに、手が動かない。ぎっちりと握りしめたかのよう微動だにしない。

 あまりにも、恐ろしかった。だから私は私にできることをした。すなわち、読書の再開を。海底の都。線と面の狂った都市。あり得ぬ生物。それらが復活を遂げる星辰正しき刻がいずれ遠からずきたる。

 これは小説の域を超えている。著書は素晴らしい幻視者だ。心象風景なる言葉を作り出したかの偉大なる作家に勝るとも劣らない。もっと読みたい。もっと知りたい。この世界を、更に。

 顔など、上げねばよかったのだ。なぜか窓の外を見やった私は見た。屋敷の庭を歩む司書と警備員の姿を。屈強にして歪んだ体躯、荒れた肌。あれは、本当に荒れていただけか。二人が、やつらが、こちらを見た。


 気がついたときには、数ヶ月が過ぎていた。狂ったように叫び続けながら逃げ回っていたのだと聞く。精神に変調をきたし、私は入院していたのだと。

 病室の窓から外を眺めることはまだできない。そこに、あれらがいるのではないか。私を見ているのではないか。医者は何があったのかと私に問う。私は答える言葉を持たない。

 あの図書館は、本当にあったのだろうか。確かめる勇気は私にはない。




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