第2話妬忌の末
男がその家を訪ったのは、昼下がりのことだった。インターフォンを押せば調子が悪いのか、歪んだ音がする。ほどなくこの家の人らしき男性が顔を出した。
「はい、どちらさまで?」
穏やかな、学者のような風貌の男性だった。優しげな眼差しにあるかすかな違和感、男は訝しげに眉根を寄せたけれど、用事を思い出したか身を乗り出した。
「この人が、ここに来ませんでしたか」
そう言って一葉の写真を取り出す。どうやら会社の旅行と思しき集合写真だった。昨今珍しいことではある。が、写っている人はみな楽しそうに笑っていた。
「この人です」
男の指が、小さく写った一人の男性を示した。
「えぇ、お見えになりましたよ」
「そうですか、やっぱり……」
「それが、何か?」
笑顔の男性に、来客は寸時ためらいを見せた。そして、深く息を吸う。吐ききったとき、決心をしたのだろう。それでも眼差しは揺らいでいた。
「――不躾ですが、なんの用事で彼はこちらに?」
「調べ物をなさりたいとのことでしたが。あぁ、ここですか。そうですね……」
ちらりと、笑ったのだろうか、彼は。何気なく背後を振り仰ぎ、来客の視線もまた同じ方向へと。大きな、屋敷と言って差し支えない大きな家の向こう側、更に大きな屋根がわずかに覗く。
「私設図書館、とでもいうところでしょうか。あちらにあるのがそうですよ」
自分はその司書だ、と彼は言う。来客には私設図書館などというものが本当にあるのかどうか、わからない。だが、探し人がここを訪れたのは確かな様子。
「この人がそのあとどこに行ったかは」
「さぁ?」
「中、見せてください」
司書の言葉など信じていない、あるいはまだ中にいるのか。険しい言葉とは裏腹の狼狽した眼差しが訝かしかった。司書の背後、家の中からのそりと現れた人影に来客はびくりと竦む。
「驚かせましたか。かなりの稀覯書があるので、警備員ですよ」
警備員が出てきたのは来客ではなく、不審者と見做したせいだ、司書は苦笑する。どちらなのだ、と問われている気がして来客は口をつぐんだ。ここで無理に乗り込めば、手掛かりが途切れるとばかりに。
まして、警備員が恐ろしい。筋者のような風ではない。むしろ愚鈍にすら見えるのは、着ているもののせいか。厚手の衣服は襟までしっかりと留め、室内から出てきたと言うのに目深にかぶった帽子のせいで顔形が窺えない。わずかに見えた肌はひどく荒れていた。
「知人が、行方不明で。中を見せていただけませんか」
喉の奥でこらえるよう来客は言う。その口調に滲むのは恐怖か、司書は嗅ぎ取ったものに苦笑していた。警備員へのそれではないと悟ったがゆえに。
「まぁ、いいでしょう。どうぞこちらに」
警備員にひとつうなずき、司書は家から出てきた。庭伝いにまわるのだ、と言われて来客は怪訝な表情。だが、すぐに理解した。見えていた屋根は蔵だったのだと。二棟もの蔵が裏庭に鎮座していた。
司書の手で開けられた蔵に来客は更なる理解を。彼が図書館と言い司書と名乗った理由がわかる。正に、図書館だった。上までびっしりと詰まった本が収められた書架がいったいいくつあるのか。
「……すごい」
「でしょう?」
「もうひとつの蔵もなんですか」
「えぇ、そうです」
「あいつは、どっちに……」
「こちらの蔵に。なのでご案内しました」
そう言っているうちにどこからかまわってきたのだろう、再び警備員が現れる。薄暗い蔵の中で見る彼に来客はぞくりとしていた。
だがしかし、その足はふらふらと書架の間をさまよいはじめている。夢のような足取りかと思いきや、ついて歩く司書は興味深いものを見たように思う。
――怯え、か。
警備員への、わかりやすい恐怖ではない。何かに来客は怯えていた。だんだんと目を血走らせ、書庫を巡る。そんなものを見ても知人は探せないだろうに。手掛かりはここにしかないと知っているかのように。
「ご友人ですか、先ほどの写真の方」
司書に声をかけられて、はじめて彼は立ち止まる。はっと息を吸い、引き攣るように笑って見せた。強張ったそれに司書は気づいても何を言うでもない。
「友達……というより、後輩です。会社の」
「そうでしたか」
「ここで、足取りが途絶えました」
真っ直ぐと司書を見る眼差し。揺れて定まらない。あたかもこのまま見つかってくれるなと祈るかの。来客自身はそれと気づかないのか、鞄の中からファイルを取り出した。
「調べたんですよ」
突きつけるようだった。司書は笑みを含んだまま書類を受け取る。すぐ背後に警備員が待機していた。
そこには、とある探偵社が調査した記録と思しきものが記されている。読み進めるうちに中々に優秀な探偵らしいこともわかった。確かに来客の後輩とやらの足取りはここで消えていた。
「ご存知ないんですか」
切り込む声に司書は肩をすくめる。図書館を出たあとのことまで知るはずがないと。当然の理屈を来客は受け入れない。視線が図書館の中を探っていた。
「お話を伺っても?」
いったいどういう理由で探しているのか。家族でもないものを、探偵まで使って探す理由は何かと。温和な司書の笑みが図書館の暗がりに浮かんだ。
「それ、は――」
躊躇したのか。ここまで来ておいて。来客の視線が泳いだのを司書は見ていた。不穏な気配を察知した警備員が近寄ってくるのを司書自身が片手を伸べて制止したのだと来客に気づく様子は微塵もない。それだけ切羽詰まっていた。
「行方がわからなくなったとおっしゃっていましたが。何か思い当たる節でも?」
「――本」
「本、ですか」
水を向ければようやくにぽつりと来客は口にした。だが、それを切っ掛けとして彼は堰を切ったよう話しはじめた。それは古本だったと言う。
「蚤の市でね、買ったんですよ――」
面白そうな本だったから、司書にはそう語りつつ来客自身は違うことを考えていた。面白そうだと感じたのは、本当だ。が、目的は違った。
――嫌なやつだった。
後輩の男は何をさせてもそつなくこなし、あまりにも生意気だった。自尊心も高くて、常に己を誇ってこちらを見下してきた。
「ぼろぼろでしたけどね、気になると言うので貸してやったんです」
蚤の市で買ったのは革装丁の書籍だった。来客にも何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。何語で記されているのかすら、見当もつかない。
それを、会社の食堂でさも楽しげに読んでいるふりをしていたら、後輩はまんまとかかった。覗き込んできて、興味深げに。
――へぇ、貸してくださいよ。
――別に……いいけど。
――大学時代は言語学の研究してて。こういうの大好きなんですよ!
嬉しそうに話す後輩に女性社員のうっとりとした眼差し。来客には、そう見えた。実際にはそのようなことはなかったというのに。
――だから、貸してやったんだ。
優秀な大卒様にはこの程度なんなく読めるだろうと。面白いよ、と笑って貸してやった。後輩は笑顔でお借りしますね、と本を押しいただいた。
「あんまり、執拗なのでね。仕方なく貸してやったんです。ちょっと、奇妙な本で、それが気になっては、いたんですけど」
「そうでしたか」
「えぇ。それから、少しずつ……やつは、なんて言うんでしょうね。おかしくなっていった」
来客はうつむいた。が、司書にはその顔が見えていた。にんまりとした喜びを隠しきれずうつむいた客であると。警備員にも見て取れたのだろう。背後から呆れた気配。
「仕事に遅れることも、増えて――」
生活態度が悪い、と上司に叱責されたやつを見たときの歓喜が脳裏に浮かぶ。あれほど優秀であった男が転げるように落ちていく。
ほんの少しだけ、恐ろしくもなった。あの本は、ぼろぼろのあの本は、なんであるのか、と。蚤の市で偶然購入した、後輩への餌。わかりもしない本を読んで見せればひっかかるだろうとしか思っていなかった小道具。
――やつは。
遅刻に留まらなかった。連絡もなく休むことも増え、ついには完全に出勤してこなくなった。あまりにも異常な振る舞いに上司が様子を見に行ったと彼は仄聞していた。
それも、腹立たしい。無断欠勤したやつをなぜそこまで気遣うのか。馘首すればいいだけだろうに。上司は病気を懸念していたのだとは想像もできない彼だった。
――ザマァ見ろ。
上司はすごすごと戻ったらしい。自宅に後輩はいたけれど、ドアを細く開けただけでけんもほろろに追い返されたと聞く。どんなに優秀な男でも、上司相手にそのような態度を取ればおしまいだ。彼は躍り上らんばかりに喜んだのを思い出す。
「結局、休職扱いになってるみたいなんです」
口にした来客は悔しそうだった。辞めさせたかったと顔に出ていることにきっと気づいてもいない。司書は呆れるでもなく眺めているだけ。強いて言うならば笑みを含んだ眼差しで。冷淡な穏やかさとでもいうような不可解な目だった。
「そうなると、なんだか……」
「気が咎めました?」
「別に。咎めては。ただ、なんとなく、気にはなるじゃないですか、それだけです」
本が原因だと、漠然と悟っていた。あの本を貸してから後輩はおかしくなった。ならば、あの本とは、いったい。貸してしまったがゆえに彼の手元にそれはない。そうなると、気になってきた。
――そんなに、面白かったのかよ。仕事辞めるほど。お前には仕事なんかその程度だったんだろ。いつでも就職できるとか思ってたんだろ。
自分がどれほど苦労して就職に成功したと思っている。何度も言いそうになったけれど、言えば負けだと思った。努力が足らないんじゃないですか、そう嘲笑われる気がしてたまらなかった。後輩もまた就職難を乗り越えて仕事についたとは考えたこともない。
「あの本、なんだったのか――」
来客はぐるりと周囲を見回す。読めない本だけに題名もわからない。書いてあったかもわからない。ただ、見ればわかると思う。
「気になるんですか?」
「そりゃ、なりますよ!」
「探してみます?」
どうぞ、と司書は微笑んだ。来客はふと眉根を寄せる。何か奇妙なものを見た、そんな気がしないでもない。だが気のせいだろう。おっとりと微笑む司書がいるばかり。途端に司書の背後に控える警備員が目に入った。
「本を丁寧に扱っていただければ、何もしませんよ?」
忍び笑いを漏らす司書に来客はうなずき書架の間をさまよいはじめる。あの本に似た本はいくらでもあった。革装丁の古びた本。手に取るとひんやりとして、吸い付くようで、寒気がするのに手放せない。だがしかし。
「これも違う」
抜き出し確かめるまでもない。あの古本ではない。求めるあれでは。もつれる足によろめいて書架へと手をつく。ちょうど触れた本。
「これも。これもだ。違うんだ、みんな違う」
どれもこれも奇妙な本ばかり。けれど、彼の求めるものではない。ぞっとするような書籍もあった。装丁に使われた革は、なんの革だろうかと。ひどく手に馴染んでそれが悪寒を呼ぶ。しかし、それでもない。
「どこだ。どこにあるんだ! 知ってんでしょ!?」
ついて歩いていた司書に、振り返りざま掴みかかる。寸前。来客の腕は警備員に取られていた。ぞわりと肌が粟立つ。掴まれた自分の腕に伝わる冷気。まるで冷蔵庫から出したてのよう。生きた人間か、これは。考えてしまった彼は即座に腕を振り払う。それでも冷たさだけは残った。
「乱暴はやめて欲しいですね」
何事もなかったかのよう微笑む司書だった。警備員もいまは司書の影へと戻っている。来客は怯えたよう警備員を見ていた。異様な男だとは、思っていた。歪んだ背中と、引きずるような歩き方。じろじろ見ては失礼だと思ったからこそ、直視は避けたけれど。
――こいつ、気持ち悪い。
思った瞬間、警備員の帽子から覗く口許がにたりと笑った、気がした。知らず一歩を下がれば背後の書架に背中があたる。
「そ、そいつを近寄らせるなよ!」
「あなたが何もしなければ彼は無害ですよ」
「だ、だって」
「それより、本を探しているんでしょう?」
「そ、そうだ。本だ、あの本。あんた、何を知ってるんだ。ほんとは最初から知ってんだろ。あの本だ。あの本を見せてくれよ。なぁ、頼むよ。なあ」
肩を掴まんばかりに詰め寄った来客は、寸前で警備員の存在を思い出したらしい。ぴたりと止まって司書に触れることはなかった。眼前の必死の形相を司書は微笑んで見やっているだけ。
「そんなに気になるものですかね」
わからないな、呟く司書だった。聞こえてもいない来客は懇願を続ける。放っておけば土下座でもしかねない。
「あ、あいつはきっと、すごい発見かなんかしたんだ。あの本は俺のなんだ。だったら俺の権利だ、そうだろ。あいつばっかり、いつもいつも、いつもいつもいつもいつもいつも!」
頭をかきむしる来客を司書は笑みを浮かべて見ていた。あるいはそれは、形だけが笑みであって、温顔ですらないのかもしれない。床に膝をついて喚き散らす来客の目の前、一冊の本が。憧れるよう手を伸ばす。
「後輩さんがご覧になっていた……あなたが蚤の市で買ったのは、たぶんこれの断編でしょうね」
稀にあることだった。価値もわからず故人の蔵書を売り払ってしまうことが。そうして、知らずともよい人間の手へと渡ってしまう魔道書がいかに多いか。司書はそっと溜息を押し殺す。
「あれが、断編ってことは……こっちが本物なんだな!? これが本物なら、これを読めば俺の勝ちってことだな」
後輩もまた読んだと司書が言ったのを彼は忘れてしまったのか。涎を垂らさんばかりの歓喜の表情。司書の手から本を受け取り、押しいただく。その姿が以前の後輩のそれと似ていたとは来客は思いもしなかった。
来客は、けれど絶望した。読めないのだ、どんなに望んでもその本が。何語かさえわからない。後輩は断編を読んだだろうに。
「こちらに置きますよ?」
だが、司書が辞書まで用意してくれた。机にはライトが灯りノートまで。嬉々として来客は単語を拾っていく。読めることが喜びになった。後輩に勝ったと思った。やつだけの特権ではないのだと勝ち誇った。
それが。
次第に来客はのめり込んでいく。後輩も何もない。ただひたすらに本へとのめり込んでいく。額に滲んだ脂汗。拭うことも忘れた。
「なんだ、これ」
ぽかんと呟いたのはどれほど経ってからか。こんなに苦労して、これほど大変な思いをして、探偵を雇い金をかけ、蚤の市で読めない本を買って後輩をひっかけ、こんなに苦労して。
「お伽噺かよ、はは。ははは」
虚ろに笑う。化け物と異形の神々のこと。海原の底に死にながら眠る神。壮麗にして禍々しい都。海底に封じられた彼らの都市。
「こんなもののために、俺は」
笑いつつ彼の目は血走っていた。言葉とは裏腹に、信じてしまっていた。この本の記述が真実であるのだと。悍ましい化け物とその神は実在するのだと。
込み上げてくるものを抑えきれなかった。来客は机の前で喉を絞って叫び出す。あり得ない、こんなものは存在しないと。喉から血が出るまで叫び続けた。
はたと気づく。ポケットを探れば入っていた。周囲を見回す。司書は、いない。好都合だった。来客は笑いながらポケットからライターを取り出し、火をつける。本へと近づけたその瞬間。
「あ……」
いままで目に入っていなかっただけだろうか。にこりと微笑む司書がすぐそこに。だが、燃やしてしまえばそれまで。来客は止まらない。そのはずが。
「――あれ?」
動けなかった。いつの間にか、警備員が背後に。見上げて、はじめて気づく。はじめて、帽子の影になった警備員の顔が見えた。弛んだ肌、荒れているのではない。あれは、鱗だ。鰓だ。冷え冷えとした眼差しには、いまだ人間の気配。人間として生まれ、異形となっていくのだと。本に記されてあった通りの存在が、眼前にいた。
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