図書館奇譚
朝月刻
第1話呼ばれた男
――あぁ、ここだ。
やっと見つけた。彼は満足げにその建物を見つめる。
都津上市の外れ、郊外に位置する閑静な住宅地にある一軒の家、むしろ屋敷か。昔ながらの家が多いのだろう。昨今の住宅事情からは考えられない広い敷地ばかりだった。その中でも大きな家へと彼は向かう。
「ごめんください」
人気はあるようでない。がらんとした廃屋と誰もが言うに違いない。が、気づきもしないのか、気にしていないのか、彼はインターフォンを押していた。ほどなく。
「はい?」
穏やかな風貌の青年が、廃墟にも等しいような屋敷から顔を出す異常。しかも、彼は郊外のこの家を探し歩いた。日中から、夜も遅い時間になるまで。だというのに、青年はまるで夜更けの客を厭うでもない。
「本を見せてください」
そんな青年へと彼は身を乗り出した。驚いたのだろう青年が一歩を下がる。驚愕というよりは、不快であったのだと彼が気づくことはなかった。ふと風に乗ってきたかすかな異臭にも。
「なんのことでしょう?」
「おとぼけを。ある、んでしょう。知ってるんですよ」
「さぁ?」
「ここに、あるんですよ。あの本が。あの呼び声に応える術を記した本が!」
青年は、来客に何を感じたのかふと微笑む。来客の目の奥にある淀んだ熱に笑みを浮かべたのかもしれない。恍惚と夢見る眼差しに笑んだのかもしれない。ゆるりと口を開いた。
「その本とは?」
「クタァト。クタァト・アクアディンゲン」
祈るよう唱えるようにたりと笑う客。それに青年は肩をすくめて片手を広げる。招くようであり、拒むようであり。小さく笑っては「そんな本があったかな」と呟いていた。
「ないはずがない。見たんだ、夢で見たんだ。ここだ、この家なんだ」
「まぁ、書籍は多数ありますから。そんな本もあるかもしれませんね。どうぞ」
言いつつ青年の方こそが外へと出てきた。追い返すつもりか、と気色ばむ客に青年はそちらからまわってくれ、という。
「裏ですよ。裏に蔵があります」
他人を家の中に入れるのは好まない。青年はゆるゆると歩みを進める。屋敷の外をまわり、横手へ。真っ暗な小道を通り抜け、裏庭に。そして、そこに蔵は建っていた。
「おぉ……」
聳える、そう言ってもいい。彼は感嘆と共に蔵を見上げる。夜闇の中、黒々とした蔵の影。窓も潰されたそれは、まるで漆黒の塊だった。
「どうぞ」
軋んだ音を立て、蔵の扉が開かれる。漂いくるは時間と埃と澱の匂い。そして、冷気が。あたかも骨まで冷やさんとする北風にも似て。だがしかし、ただの風ならば感じない、これほどの禍々しさなど、決して。
「ここだ、ここに違いない……!」
感極まった叫びをあげ、彼は蔵へと突進した。青年はそれに肩をすくめて微笑むだけ。明かりもつけていない蔵では、何も見えないだろうに。どこか嘲笑うようだった。
「どこだ。どこにある……!?」
手当たり次第に書架を探る彼に青年は顔を顰める。本を雑に扱われるのは気分が悪い。背後で物言いたげな気配がして、青年は小さく微笑む。
――まだ、このままで。
内心に呟いただけであるのに気配は退いた。来客はそれには気づくこともなくあちらこちらと書架をさまよう。探しているものが何か、わかっているのだろうか。
「何をお知りになりたいんですか」
「決まってる。呼び声だ。呼び声に応えたいんだ」
「と、いうと?」
調べ物用なのだろう。蔵には大きな書き物机があった。椅子が一脚、傍らには踏み台が置かれたまま。青年は来客を椅子へと誘う。苛立ちのあまり爪を噛みつつ客はそれでも従った。
「夢だ。夢を見たんだ。なぁ、わかるか? 南の海なんだ。あったかい、そう、南洋だ。青くて透き通った海の底から、聞こえるんだよ。蝙蝠で蛸で触手の塊で……いや、そんなもんじゃない。悍ましくて美しくて、吐きそうだ。あぁ、吐いたさ。はじめてあの夢を見た日は自分の吐いたもんで息が詰まって飛び起きたんだ。それから何度も見た。毎日毎晩いまとなっては起きていても聞こえるんだ、あの呼び声が聞こえるんだ」
「それに、応じたい、と?」
「あれの周りには、何体もの異形がいたんだ。わかるか? 魚で人で、違うものどもがいたんだ。あんたにわかるか? そこに加われない俺の哀しみがわかるか?」
両手を広げ嘆く来客に青年は微笑むだけ。夢を否定するでも、狂人を嘲るでもない。穏やかな笑みを崩しもせずそこにいた。
「俺は、あれになりたいんだ。魚でも人でもない、あれらに加わりたいんだ」
そのための本を寄越せ、ここにあるのだから。彼は繰り返す。夢で見た、ここにあると夢で見た。熱狂に唾を飛ばして彼は言う。
「なるほど。わかりました――」
少し考える風情だった、青年は。顎先に指をあて、遠く眼差しを投げ。ほんのりと笑みを含んだ唇に浮かんだ冷ややかさ。彼は見てもいなかった。
「止める理由はなさそうですね。しばしお待ちを」
「待て、どこに行く!?」
「本を取りに行くんですよ」
「……あんたは、何者なんだ」
「司書、とでも言っておきますか。待っていてください」
にぃと笑った青年に彼が見せたのは歓喜。司書ならば、ここの本を熟知しているに違いない。ならば、望んだ本が手に入るのも近い。待ち遠しくて、待ち遠しくて。椅子に座ったまま足を踏み鳴らす。蔵の中にかつかつと耳障りに響いた。
「さぁ、どうぞ」
ほどなく、司書が本を抱えて戻った。奪うよう手にして彼は身を震わせる。間違いないと確信した。触れるだけで血が凍る。目の当たりにしただけで背筋に冷や汗が滴る。それなのに、指先に感じたのは灼けるような熱。思わず手を離しそうになり、彼は本を握りしめては笑った。
「これだ……」
あのような呼び声を発する何かに応える術が記されている書籍ならばこうもあろうか。想像していた通りの本だった。彼は一心不乱に読み耽る。酒に酔ったような酩酊を覚える。いままでの人生でかほどの美酒はない。
「読めますか」
司書に尋ねられては苛立たしげに首を振った。見れば、わかるだろうに。あるいは、司書には読めないのか。可哀想だと彼は思う。これほどまでに素晴らしい本を読むことができないとは。人生の損失だろうと。
「古英語の翻訳をやってるんだ。これくらいなら辞書は必要ない」
自慢げに聞こえはしなかったか、ふと彼は恥ずかしそうに眼差しを伏せる。だが、かすかな笑い声が聞こえた気がして眉根を寄せては司書を見上げた。
「なんだ?」
「でしたら、これも読めますか」
「……なに?」
「ラテン語版、あるんですけどね」
これだ、司書が顔の横に掲げた書籍。彼の目は吸い寄せられて離せない。本当の本物の輝き。しっとりと濡れたような装丁の美しさ。飢えを満たさんと手を伸ばす。
「必要なものは、こちらに」
彼は受け取った本に頬ずりせんばかり。呆れた微笑をもらしつつ司書は言う。辞書の傍らのデスクライトを灯せば苛立たしげに彼はノートとペンを取り出しては早々と翻訳を試みはじめた。
「素晴らしい……なんて知識だ……」
ぶつぶつと呟く。己で口にしている、と彼は知らないのだろう。涎を垂らさんばかりの表情は、まるで至上の美味を前にした美食家のよう。うっとりと目を閉ざし、だがしかしそうすれば本が読めないと慌てて開く。ペンだけがかりかりと書庫の中に音を響かせた。
薄暗い書庫だった。窓もない書庫だった。人間は、こんな場所に長時間いられるものではない。いずれ遠からず気が触れる。
――手遅れ、かな。
忍び笑いは司書のもの。来客は、夢に引かれてこの家を訪れた、と言った。ならばその時点でもう手遅れだ。どことない苦笑が漏れはするけれど、司書に止める気はない。
「――いい、ん、ですか」
いびつに歪んだ声がした。来客は気づいてもいない、司書の他に誰かがいるなど。あるいは、司書の存在すら忘れ果てたか。司書は来客を視界の端に映しつつ小さく笑う。
「止める必要はない、んじゃないかな」
振り返れば人影。司書の最も身近な男がそこに立っていた。普段はこの家に住んではいない司書だ。出かけたままの司書を探しに来たのかもしれない。
「……そうですか」
「止めたい? 君が止めたいなら、考えてもいいよ」
そのようなつもりではない、男は苦笑していた。書庫の影にあって男の姿は窺えない。もし見えていたとしたら来客はどんな反応を示すのだろう。司書はかすかに笑っていた。
熱中する来客を、司書は世話する。人間、どれほど集中しようとも、食べなければ死んでしまう。差し出したサンドウィッチやおにぎりを彼は無言で貪った。机の上には筆跡すら定かではないメモが散乱しているが、彼にはそれで充分なのだろう。這い回るかのような文字を浮かされたよう眺め呟く。
「これだ。これが欲しかったんだ。これだ」
歓喜の顔も極まれば醜悪。司書はだが気にした風もない。書き物机に倒れ伏すよう眠る来客の背中に毛布をかけてやりさえした。目覚めて再びペンを握る彼に水を与えもした。
「見つかりましたか?」
海鳴りにも似た掠れ声を耳にしつつ司書はのんびりと来客を眺めていた。ちらりと見やればやはり影に入ったままの男。来客の目を気にしているらしい。
「上巻がないね。おかしなものだよ、あったはずなんだけどね、ゴート語版の上下巻」
来客は本物、と喜んでいるけれど、あのようなものではない。しっとりと吸いつく革の表紙は時によっては汗をかく。目にするだに異様な書籍。以前はここにあったはずなのだけれど。冷やかに微笑む司書は何事かを考えるかのようだった。
どれほど経ったのだろう。来客にはさっぱりわからない。わかったとしても意味はない。彼にとってそれは意味を失った。たったひとつの魔術。それを習得するために費やした時間。習得する以前に解読し、翻訳し。時の流れなど彼には見当もつかなくなっていた。
「……できた。わかった、やっとだ。やっと。これで! これで俺は海に。そうだ海だ。海に行くんだ」
勢い込んで立ち上がろうとし、だが彼は床に転がった。足が萎えていたその驚き。ゆるりと出てきた司書が手を差し伸べ立ち上がらせてくれた。
「あ、ありがとう。すまない。なんだ、これは……?」
掴まった司書の手はひんやりとしていて、まるで水から上がったばかりのようだった。
「ずっと座りっぱなしでしたからね。足も痺れます」
「は……?」
「三日も本に掛かり切りでしたよ」
ほんのりと微笑んだ司書に来客はぽかんとする。想像もしていなかったのだろう。何度も瞬き、己が記したメモの散らばる机を見やる。
「よくあることですよ。本に熱中するなんて。そうでしょう?」
来客はうなずいた。いかに熱中したとて、それは行き過ぎだと、普通ならば思う。馬鹿なと嘲笑う。けれど、彼は読んだ。人ならざるものの知識が記された書籍に目を通して解読し、我が身とした。
「あぁ、よくあることだ」
にぃと笑った彼に司書も笑みを返す。ふと彼は司書の背後に何者かの気配を感じたが、だがそれだけ。本を求める別人がいるのだろうとしか思わなかった。
「どれほど感謝しても足らない。この礼はいったいどうしたら」
「さぁ? 司書と名乗りましたし。ならば対価を求めるのも違いましょう。どうぞそのまま」
つい、と司書が手を開く。半身になっては蔵の外へと促す。来客はここに留まりたいと思った。ここならば、どれほどの知識が手に入ることか。
「あぁ、ありがとう。ありがとう。本当にありがとう。またいずれ世話になるだろう。そのときには」
けれど、彼は試したくてたまらなかった。得たばかりの知識を実行したくてたまらなかった。幸いここは都津上の地。海辺までそう遠くはない。
司書と、気づきもしなかった影とに見送られ、彼は駆け出して行く。一目散に車まで駆け込んで、海を目指す。あまりに気が急いてキーがうまく回せない。舌打ちをし、ようやくかかったエンジン。思い切り踏み込んだアクセルに体がシートへと押し付けられるも彼は笑っていた。
「あの夢だ。あの夢が実現するんだ。俺は海に行くんだ」
うねうねとした触手が微睡む海の底。蝙蝠のような羽が蠢き死んだよう眠る偉大なる存在の姿。夢で見たあれに一歩でも近づきたい。あれの周囲で舞うよう揺蕩う魚とも人ともつかない生き物ども。できることならば、あれらになりたい。
「うなそこに、あれらになって。俺は、夢を死ぬんだ」
恍惚と呟く彼が事故を起こさなかったのは奇跡か。海岸近くの駐車場に乱暴に停め、もぎ取るようドアを開き、叩きつけるよう閉めた。逸る気持ちを抑えかねて走り出す。
「海風だ。潮の香り。なんて芳しい、素晴らしい――」
もし、これが昼間であったのならば常軌を逸した人間のこと。誰かが止め得た。しかし、もう夜も更けていた。服のままざぶざぶと海に入って行く彼を見たものはいない。足首までの水が、腿を洗う。腰を浸す。腹まで来たとき、彼は両腕を天高く掲げた。
それは、人語ではなかった。なんと言ったものか、わかり得ないのは幸い。聞くものとていなくとも。海辺の生物が彼の周囲から消える。悍ましい響きに、あり得ない声に。
彼は呼んでいた。魚にして人、夢に見たあれらを。深きものどもと呼ばれる、人ならざるものどもを。残酷で美しい海の異形を。あれらに立ち交じり共に海を泳げたならばどれほど。
掲げた手は震えていた。体は海水に冷え切った。声は掠れ、力ない。それでも彼は人ならざるものどもを呼び続けた。夢の呼び声が彼の耳にこだまする限り、止めるという選択肢はなかった。
あと少し。あと少しで、魔術は完成する。深きものどもはこの声に応えてくれることだろう。彼は思う。己は神の声を聞いたのだと。彼らの神にして己が神の呼び声を。魔術の最後の一節を叫ぶ。
静寂。
「だ、だめだったのか……」
呆然自失と彼は海の波を見ていた。応えるものは現れない。ただ漣が寄せては返す。顔にかかった飛沫は塩辛い。拭えば目に入って痛みを覚え、彼は強く唇を噛む。
諦められるものか。思った。あの呼び声がこだましている。これを聞きながら陸で生きるなど耐え難い。気づけば引き潮、波は足首を洗っていた。
そして彼は再び詠唱を。あれらを呼び寄せんと。神なる存在の声を聞き、呼ばれた己に応えてくれないなどあり得ない。人語ではなく、邪なるがゆえに清らかな祈り。極まったそれに人の身の耐え得ようか。喉が破れ、血の味がした。咳き込み、海に血が滴った。あたかも贄のように。そして。
「呼びましたか?」
彼は振り返る。そこには、あの司書が。月光にほんのりと微笑んだ口許。その背後には、人影。奇妙に歪んだ背中、引きずるような足取りで人影は近づいてくる。
「な……」
そして、海からはまた別の影が。いくつも、いくつも。ざぶり、ざぶりと波を割り現れたのは、夢に見た深きものども。なんと美しく悍ましく筆舌に尽くしがたいその姿か。月光に煌めく鱗も水かきのついた手も首筋に刻まれた鰓も、羨ましくて羨ましくて。
泳ぎ、あるいは歩み、異形は周囲に満ちる。いつの間にか司書は深きものどもの中心に。仄かに微笑んだ司書は手を差し伸べた。
「ようこそ、こちら側へ」
雲間切れに、司書の表情が彼にもはっきりと見えた。人間の顔をした、人ならざるものと悟った。これは、異形だと。人の姿で人に立ち混じる深きものだと。それは、最後の理性の表れだったのか。人間としての彼は拒絶する、人間の皮をかぶった異形を。
全身が粟立ち、絶叫した。夢など甘い。現実など温い。生々しく禍々しく悍ましい上にも悍ましいものどもが、いま眼前に。我と我が手で体中を掻きむしれば飛び散る血潮。
そして。彼は司書の手を取る。にたりと笑った唇が歪み、踏み込む。夢の世界へと。あの日から聞こえ続けている呼び声に近づかんと。深きものどもが笑った気がした。
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