第9話癲狂せし男




 私設図書館を訪れたときから、彼は妙だった。司書を見る目つきも警備員を見る目も疑わしげ。かと思えば舐めまわすような眼差しになりもする。

「お待ちしていました、どうぞ」

 司書に案内される間も彼の背中を窺い、書架をねめまわす。その書架は所々隙間が空いていた。それに彼は訝しげな目をしたけれど、何を言うこともない。本はいくらでもあった。

「メモを取るのはご自由に。母屋までならばかまいませんが、敷地外への持ち出しはご遠慮願います」

 型通りの言葉を述べたあと、司書はまだそこに佇んでいた。まるで、ご用はありませんか、と問うような態度に男は眉を顰める。こちらの動向を窺われているようで気分が悪い。

「何かありましたらお声をかけてください」

 男が犬でも追い払う手つきで司書を遠去けたときも司書は微笑んでいた。神経の繋がり具合がおかしいのでは、と男は冷笑する。

 一人になって早速と書架を巡った。素晴らしい書籍の森に男はそっと溜息をつく。これほどの知識、これほどの蔵書。ここならば、間違いなく目的を果たすことができるだろう。

 それを思えば自然に笑みがこぼれた。はじめは眉唾だと思っていた。この図書館は、噂にはなっている。男が知るのはネットの中で語られる風聞。ものがネットだ、信じられはしなかったが、実際に行ったと言う声がちらほらと。それが妙に現実味があった。

 しかも、戻らない人間がいる、と噂は語る。それこそ怪談じみているけれど、行方不明の捜索が行われたとの話もある。所詮はただの噂かもしれないが。

 様々な話を聞くにつけ、男には図書館の話が創作とは思えなくなった。非公開の連絡先とやらを入手する手間ならば惜しまないと動き出す。

 たった一人、なんとか探し出せたのはたった一人。その相手もどこの誰かはまったくわからない。相手は、図書館の連絡先を入手したはいいものの、急に恐ろしくなって訪れることはなかった、と言った。

 ――腰抜けめ。

 いまも思い出すだけで嘲りが浮かぶ。否、あのような輩にこの知識はいかにも惜しい。目にすることなく幸いだと男は思い直した。

 ネット上での短文のやりとり。それでも察した支離滅裂さ。相手は訪れていないと言ったにもかかわらず、明確に場所を知っていた。司書がいること、警備員の恐ろしい容貌。

「人間じゃない――!」

 音声会話であったならば悲鳴だったのだろう、あれは。文字とあっては響きこそ伝わらなかったけれど、相手の感情の波立つ様子は手に取るようわかった。

 面白い、男は思った。訪問していないのに顔を見たわけはないだろうと指摘すればしどろもどろになった相手。どこまでが嘘でどこまでが本当だったのか。ただ、図書館の所在地は相手が語った通りだった。

 そして、相手は消えた。アカウントを消しただけのことだろうが、それ以後一切の連絡が取れなくなったのは事実。逃げたのだと男は思っている。嘘を見抜かれて怖くなったのだろうと。

 ――あんな阿呆にはもったいない。

 どうせ予約をしたはいいが怖くなって訪問をやめたのだろう。そう考えれば辻褄は合う。場所を知っていたのはそれでいい。警備員や司書とて出勤してくるのだから、そのときに顔を見ればいいことだ。

 ゆるゆると書架を見て歩きまわるのは、心躍る。こんなにもたくさんの本があるのならば、探しているものもきっとある。その期待に胸が弾んで仕方ない。

「さぁ、どこにある?」

 思わず呟いてしまって苦笑した。本が返答をするとでも考えたか。だが、男はつい本には語りかけてしまう。癖なのだろう。いまも背表紙を撫でつつ足を進める彼の目はうっとりと潤んでいる。本こそが友といわんばかりに。

 だが、少しずつ眉根が寄せられていった。期待しているものが、どうにも見当たらない。広い図書館だ、探せばあるだろうと考え直す。

 ――時間がかかるのも、またいいものだ。

 恋人との逢瀬を思わせる。いまかいまかと待ちくたびれそうな、しかし弾む心は抑えがたい。甘く苦い感覚が男は嫌いではない。

 こちらから待ちぼうけをくらわせてやろうとでも考えたか。男は目当てではない本を抜き取って、ぱらりとページを繰ってみる。

「なんだ……これは?」

 本当に書籍というべきものか、これは。知らず呟いたのは、男が知るいかなる常識とも合致しないせい。異文化ならばまだわかるが、これは違うような気がする。

 俗に下手な字を「蚯蚓がのたくったような」と言う。これは、それに似て、決して似てはいなかった。文字ではない、ただの落書きにしか見えない。それなのに、なぜかしら文字とわかる。

 男の背筋に冷たい汗が流れ、唇はけれどにぃと笑っていた。いかなる文化圏の文字でもない、だが紛れもなく文字であり文章が刻まれたそれ。男は恍惚としていた。

「お読みになれますか」

 突然に至福の時間を邪魔され、男は不機嫌に眉を顰めた。いつの間にか背後には司書が立って微笑んでいた。嘲笑うようだ、と男は感じる。司書の笑みは穏やかで優しい。それが嘘くさいと男は思う。人間、こんな顔は作り物と決まっている。

「読めると思うので?」

 鼻を鳴らして言う男に司書は屈託がなかった。ここには学者も来るから、と。

「学者?」

「宗教学や言語学の先生がお見えになりますよ」

「あんたは」

「はい?」

「あんたは読めるのか」

 どんなに著名な学者が来ようと立派なのは学者であって司書ではない、そう嘲る男は目を見開く。思わずまじまじと司書を見つめ、そして舌打ちをした。

「嘘をつけ」

 吐き出すのは、苛立ちのせい。多少だが読める、そう司書は言ったのだから。自分に読めないこれを司書ごときが読めるとは不快でならない。

 では読み上げてみろ、と言おうかと思った。が、男は賢明にもやめる。司書が適当なことを言っても判断できない。否、わからないのだからいい加減なことを言ってあしらえばいいと司書が考えていないとなぜ言える。

「あんたはここの本をよく知っているんだろうな。なにしろ職場だ」

 冷笑する男に司書は悠然とうなずく。当然だろう、働いているのだからと言わんばかりの態度が鼻につく。男は唇を歪め、ふと気づく。

 書架の影にちらちらと見えるのは、警備員だった。室内だというのに目深に帽子をかぶったままの姿が癇に障る。制服というわけでもないらしい格好も、歩き方も、気持ちが悪い。全体的に不恰好な警備員だった。

「あれはなんだ」

「警備員、と――」

「それは聞いた。俺を馬鹿にしてるのか?」

「意味がわかりかねますが」

「ああやって、盗まないか見張ってると言ってるつもりなんだろうがな! 人を泥棒扱いとはいいご身分だ。こっちは客だぞ!」

「稀覯書が多いので。ご了解いただけたもの、と理解していましたが」

 つい、と細められた司書の目。同時に警備員がこちらにやって来るのを男は見た。忌々しげに舌打ちをしてあらぬ方を見やる。事前に注意事項は聞かされていたが、気分のいいものでは断じてない。

「犯罪者扱いしやがって」

「お帰りいただいても結構ですが」

「なに?」

「お気に召さないとあれば、邪魔立てはいたしませんので。どうぞ」

 にこりと微笑んだ司書は出口を示す。それには男も答える言葉がなかった。帰れと言われて、黙り込んだことなどない。いままでは、更なる言葉を浴びせていたのだが。司書には、不思議と言えなかった。それを見て取ったか、司書は手振りで警備員を止めた。軽くうなずいた警備員が元へと戻るのに男は嫌がらせのような溜息をつく。司書も警備員も気にした素振りもなかった。

「あんたの職場だ。案内してもらおうか」

「何をお探ししましょう?」

 今しがた帰れと言ったのと同じとは思えなかった。平坦というのが最も近い印象だろうか。人間らしい感情の揺らぎがまったくない。男にとってそれは馬鹿にされていると同義。下等生物を見るように哀れまれてすらいるのを漠然と感じていた。

「召喚関係だ」

 端的に言うのは、それではわからないだろうと嘲り返すため。馬鹿にされようとも、知識ならばこちらが上と男は信じて疑わなかった。

「なるほど。ではこちらに」

 ぎょっとした。司書に通じた不可解。専門知識などあるはずのない司書ごときにあれで理解できるはずなどないのに。だが、司書の足取りは淀みなく書架の間を進んでいく。ともすれば男が置いて行かれそうなほどに。

「一口に召喚と言っても色々ありますが……」

「どうせあんたにはわからないんだろう」

「まずはこの辺りでどうでしょう?」

 吐き出した言葉は完全に無視された。男は舌打ちし、書架を見やる。数多の書籍が詰まった知識の山。だが、周囲の書架には少しばかりの隙間がある。ここもだ、と男は再び舌打ちをしていた。

「とりあえず見繕ってくれ」

 横柄に言う男に司書は諾々と従うよう。陰で警備員が嫌な顔をしていると司書は気取っていたけれど、客はまるで気づかなかった。そこに警備員がいるとすら。

「主に英語に翻訳されたものを選んでおきましたので」

「――なに?」

「辞書は机にご用意がありますから」

 侮った司書の声音に気色ばむ男だったが、司書は相手にもせず立ち去ろうとする。呼び止めたのは男の方。

「持っていってくれ」

 鼻を鳴らして命ずれば、嫌そうな顔のひとつもするだろうと思ったのだが、意外にも司書は気軽に本を抱えようと。だが途中でそれは奪われた。

「……なっ」

 まだいたのか、怒鳴るところだった。物陰から出てきた警備員は無言で本の山を抱え、男を見た。ついて来い、というつもりらしい。

「何か言ったらどうなんだ!?」

 お持ちします、くらい言うものだろう。躾けがなっていないのではないか。司書を睨んだときにはすでに司書は警備員と並んで歩き出していた。

 背中を追いつつ、男は忌々しく思う。この自分には、もっと頭を下げて丁重な態度を見せるべきだろう。それをしない彼らに苛立っていた。

 そしてあろうことか、警備員は書き物机に本を積み上げるなり物も言わずに背を返した。司書も同様に。唖然とする男を残して二人とも見えなくなる。

「なんなんだ、あいつらは。客商売をなんだと思ってるんだ」

 ぶつぶつと呟きながらも椅子に座った。中々によい椅子で、これは気に入った。机も重厚なつくりで、用意されているメモやペンも立派なもの。これこそが自分に相応しいと男は満足する。

「……クソ」

 だが、本を開いた途端に罵り言葉が漏れた。司書は英語、と言っていたはずが、ほとんど読めない。英語らしき単語なのだけれど、似ているだけでまるで違う。

「司書!」

 怒鳴れば影のように現れる司書だった。今度ははじめから警備員が後ろに従っているのが不愉快だ。

「これはなんだ!」

「はい?」

「英語だと言ったくせに――」

 言葉の途中で司書は男の手から本を取り上げ、うなずく。どこか笑みを含んだような口許が癇に障って仕方ない。男の視線になど気づいてもいないのか、司書は机の上の辞書を引き寄せた。そして男の前に据える。

「英語ですよ。古英語ですが」

 辞書には載っているからそれで読め、と言わんばかりだった。吊り上がった唇が男を嗤う。男にそう見えただけだった。司書の表情は微塵も変わっていない、人間としては不自然なほどに。

 腹立ち紛れ、男は本を手に取り、そして司書に投げつけようかと。瞬間、警備員の眼差しが向いた。帽子の影になって目など見えない。だがしかし、確実に見られた、見据えられたとわかってしまう。男は意識しなかった。けれど彼の肉体はそうはいかなかった。一瞬にして粟立った肌、ひんやりとした首筋。額には汗が浮かんだ。きつく本を握りしめ、男は動かない。それでいいと警備員が軽くうなずき、男は知らずどっと息を吐いていた。

 黙って消えた司書と警備員を男は小声で罵り続けた。先ほどのよう、怒鳴ることはできなかった。彼自身は知らねど、恐怖ゆえに。彼の肉体は死を味わいかけたと知っていた。

 忌々しく辞書を引き、翻訳をする。本は読めるようになっていてはじめて本だろうに。この自分がなぜこんなことをしなければならないのか、不満で仕方ない。

「これは」

 だが、欲しかった。どうしても知識が欲しかった。自分を馬鹿にする世間をひっくり返すための知識が。この図書館ならば得られる、そう信じてきたものを。

「司書! どこにいる!?」

 呼べばやはり司書は現れる。ようやく男は奇妙だ、と感じていた。司書はどこにいて、どこから現れるのか。あまりにもすぐさま姿を見せる。いまもだった。

「お呼びで?」

 冷笑する司書を男は睨みつけ、本を投げかけては寸前で思い留まる。代わりに表紙を平手で叩いた。乾いた音がするはずの本は、なぜだろうか。ねちゃりと湿った音がした。

「これはなんだ! 召喚だと言っただろう。馬鹿にするのもいい加減にしろ!」

 なんとか読み下した本には、男が求めるものは載っていなかった。知らない名前がずらずらとあるばかり。呼び出さんとする悪魔の名などひとつも。

「俺が欲しいのは召喚だ、悪魔を呼び出す方法だ! 馬鹿にするな!」

「載っていませんでしたか」

「読んでもいないのに寄越したのか、クズが!」

 やはり司書の背後には警備員がいた。男の暴言をいまは静観している。無論、司書が命じたからに他ならない。男は知らないことだった。腰抜け警備員が怯んだとしか思わなかった。勢いにのって気分よく司書を罵れば、己の声に更に昂ぶった。

「魔王ルシファー、蝿の王ベルゼブブ。アスタロトでもいい、アスモデウスでも悪くない。載ってないじゃないか!」

「そんなものは載っていないでしょうね」

「だったらなんで寄越した!? なんだこの馬鹿話は! 魔王アザトースだと? こんなものは聞いたこともない。クソみたいな創作で誤魔化そうって腹だろうが!?」

 お伽噺を与えておけば喜ぶオタクと一緒にされた。男は嘲笑う司書を睨み据え、何度となく本を叩く。欲しいものがあるのに、司書は隠している。それに腹が立って仕方ない。馬鹿にするな、再度叫んだ。

「なんだこれは。クトゥルフだとかな、こんな馬鹿みたいなものを怖がるとでも思ったのか? 馬鹿馬鹿しい。触手がなんだ。蛸? あんなものは食い物だろうが! 死にながら眠るだとかな、阿呆を抜かすな」

 ははははは、男は大きく笑っていた。司書の気配が変わったのにも気付かずに、からからと笑っていた。怪談に怯える子供と一緒にされては困ると。そして唐突に笑いを収めては司書を見据える。

「持ってこい」

 いますぐにだ。いままでこの態度で得られなかったものはない。どんな相手も唯々諾々と男の欲しいものを持ってきた。相手をするのが面倒になったからだとは男は思わない。そのような思考は彼にはない。得られた、それだけが事実だ。

「ありませんよ、そんなお伽噺は」

 だが、司書は男が欲するのはお伽噺と言い放つ。今度こそは、真実嘲笑っていた。いままでとはまるで違う笑み。ちらりと男の手元の本を見て苦笑する。

「ないはずがない! 隠し立てするとためにならんぞ!? そうか、あんた司書だったな。本を壊されたらさぞかし館長に怒られるだろうな? クビだよなクビ」

 口の端に泡を滲ませ男は笑う。ふと見れば警備員がずいぶんと近くに。男はそれも気付かない。素早くポケットの中からカッターを取り出し刃を伸ばす。

「さっさと出せよ!」

「困ったお人だな」

 どうしようもない子供を相手取るような司書の声。かっとして男は本当に切りつけた。否、本に近づけただけ。紙が切り裂かれるより早く飛びかかってきた警備員に組み伏せられたとき、彼の帽子が飛ぶ。あらわになった警備員の顔。

「悪魔――」

 なんだ実在するじゃないか。呼ばずともいるならば俺の命令を。

 腕を握り潰され、喉を食いちぎられ。驚いた顔のまま死んだ男に司書は肩をすくめただけだった。




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