理由があって雨は降る 〈ザ・ライト ーエクソシストの真実ー〉
いつものごとく映画レビューのようなタイトルになっていますが、レビューではありません。創作ネタです。
その前に一応、タイトルになった映画の話をすると、原題(マジでこれ)の通り、ガチの
映画では、神学校を出て神父の道に進もうか迷っている主人公、アメリカ人のマイケル・コヴァック(助祭)が、「神父にならないなら奨学金を返してもらうぞ。ところでローマ(バチカン)で開講される悪魔祓いの講義に興味ない?」と言われ、半ば強引に(笑)ローマに派遣されるところから始まります。
そこで奇妙な縁から、ウェールズ人でエクソシストのルーカス・トレヴァント神父に会うよう勧められ、イタリア人少女の悪魔祓いに参加、最後には悪魔に憑りつかれたルーカス神父自身の悪魔祓いを行うことに――という話です。
ジャーナリストのマット・バグリオによるルポルタージュ原作を下敷きにしているとはいえ、主人公に共通するのは「葬儀屋で働いた経験がある」ことくらいで、あとはオカルティックホラーのエンタメ性が強い本作ですが、ホラーというには拍子抜けするほど地味~なエクソシズムの描写は、「何これ全然面白くない」という人と、「そうそう、こういうのが見たかったんだよ」という人(私)に分かれるでしょう。
悪魔憑きと精神障害の区別がつきにくい、というか懐疑的なマイケル神父…じゃない助祭の視点で見ていると、後半で憑依されたルーカス神父(高齢)の人格が豹変して、スータンの下に服を着ないで裸足で市中をうろうろしたり、声をかけてきた小さな女の子を突然ひっぱたいたりという行動は、私や相方にも「今必要なのは悪魔祓いじゃなくてMRIだよ! ほらー徘徊が始まった!」「前頭側頭型認知症じゃない?」としか思えず…(笑)。
とまあ、それはさておき。
この映画、隠喩が満載なのです。
伏線、といってもいいかもしれませんが、ちょっと違う。
主人公の名前がマイケル(=悪魔と戦う大天使ミカエル)から始まり、彼に協力する女性ジャーナリストの名前もアンジェリーナ(=天使)で、本編の映像に何度か出てくる、マイケルの亡き母が贈ったカードの絵柄ともかぶる。
ローマには猫がたくさんいて、ルーカス神父の住んでいるボロい司祭館の中庭には蛙がいる。
オカルトではヒキガエルは魔女の使い魔とされたり、蛇と並んで大概悪いイメージを持たれる生物。ルーカス神父も庭の蛙をちょっとした手品のタネとして使ったりしていて、それが主人公の反感を買う。
一見何気ない日常の風物に見えるのですが、ラスト、ルーカス神父に憑りついた悪魔の名前はバール(バエル)――これが、猫・人間・ヒキガエルの3つの頭を持つという大悪魔。
先日、「名前の意味なんてどうでもいい!」と豪語している創作論を読んだのですが、意味あるんだよ!
少なくとも私には、脚本家や監督が何の考えもなしに猫や蛙や天使をあちこちに配しているとは思えない。
その中で最も印象に残っているのが、悪魔祓いでも天使でもなく、冒頭、聖職に進むのを辞めようと考えていた主人公が、車にはねられた女性の死の間際に祈りを唱えるシーン。
この時、映画の中では雨が降っています。それもけっこうな勢いで。時間は夜。
別にホラー映画だからって夜である必要はないんですよ。単なる交通事故の場面なんですから。たしかに、「夜間、しかも雨が降っていて見通しが悪かったから事故が起こった」という理由付けにはなりますけども。
ただ、のちにローマ行きを承諾することになる彼の行動(と、映画ラストの選択)を重ね合わせると、私にはこのシーンは“洗礼”に見えた。今でこそちょこっとおでこに水をかけるだけですが、その昔、キリスト教の洗礼は頭まで水中に沈めるものだったとか。当然、ずぶ濡れ〔*〕。
事程左様に、キリスト教的オカルトホラーには、気付く人(主にキリスト教徒あるいはオカルティスト)には気付くギミックがてんこ盛り、なわけですが、俺キリスト教徒じゃねーし、という書き手にとっても、「これが彼の転機となり、結果的にこのような選択をすることになったのだった…」とか説明しなくても、読み手に、なんとな~く予期させる手段の一例としては学ぶところがあるのでは。
私も「そうしないと話が進まない」のはさておき、これで彼は司祭になるんじゃないかと思いましたよ。ていうか、原作では神父になってからローマに派遣されてましたから(笑)。映画では最後の最後でしたけど。
作中においては作者は神。雨を降らせるのも止めるのも思いのまま。
魔女ワーシェンカは「魔女になあ 目的なんて 要らんねん/目的があって 風が吹くか 雪が降るか」と言いましたが〔**〕、何の意味もなく雨が降るわけではない。そこには隠された理由があるのです。
* ここまで書いてみて、説明いらないだろうと思っていたのですが、たぶんカトリックでないと何のことやらわからないのではと思いベタに説明すると、キリスト教・カトリックの場合は、幼児の頃に、自分の信仰とは無関係に教会で司祭から洗礼を受けます。大抵は親が受けさせる(そのあと、思春期になったあたりで、「アナタハ神ヲ信ジマスカ~?」的な意志の確認などがあるのですが、ここでは
司祭(序列の一番下が神父)になるには、大前提として、洗礼を受けていないとなれないので、主人公はすでに一義的な意味では“洗礼”はすませているのですが、聖職に進もうかどうしようか…な意味では、自分の信仰に確信が持てないでいる。それがある程度クリアになる、というか道筋が見えてくる、のが冒頭シーンです。
** https://kakuyomu.jp/works/16817330657275343337/episodes/16818093076334072451
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