美しき“カルト”――〈エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命〉②
エドガルドはピウス九世死去のあと、抑圧されていた自分の感情が噴出した、と思うシーンがあるものの、そのままカトリック教会に残り続ける。
そして、母親危篤の
洗礼を受けずに死んだ者は救われない――というのはカトリックの論理であり、母親は拒否し、そのまま息を引きとる。
『どうして息子の側にこんな暴力が生じるのか』――パンフレットのコラムで映画誌・比較文化研究家の四方田犬彦氏が書いている。
『息子の側に』とあるけれど、本当に『息子の側に』だけなのだろうか?
「ユダヤ教徒として生まれたのだから、ユダヤ教徒として死ぬ」と言い切った母親の姿もまた、私には“宗教”の犠牲者、のように見える。
母親が「ユダヤ教徒として生まれ」、自分の子にも「ユダヤ教徒として死ぬ」ように教えたのなら(そしてそれが何千年も続いてきたのであれば)、途中からではあるけれど、「キリストの兵士」となって「死ぬ(=殉教する)」よう教えられた彼女の息子の立場とどこが違うのだろう? どちらも、果たしてそこに本当の自分の意志(というもの)はあったのだろうか?
ふつうの日本人なら言うかもしれない。
「なんでそんなにこだわるワケ? 本気で自分の子供を取り戻したいんなら洗礼ぐらい受ければいいじゃん。これだから宗教はさー」
しかし考えてみてほしい。
唯一神信仰というのは似通っているものの、ユダヤ教徒の家庭から見た
そこに入信したらお子さんを返してあげますよって…それができれば現代日本にだって「家族を救う会」が発足するハズがない。
無宗教を是とする一般的日本人家庭だって、たとえば先祖の墓石を突き倒したり、神社仏閣に放火落書きするような輩には激怒するだろう。単なる石の塊だとか、木造建築物だとかいうふうには思っていないはず。
そんなふうに染みついてしまうものが、宗教…というか信仰心なのだと思う。それが“自然に身についた”ものであれ、“強制された”ものであれ。
それらはここで描かれているように悲惨な暴力を生み出す一方で、救いも生み出す。
ピウス九世は居丈高に自身の無謬性を唱えることもあれば、エドガルドをはじめとする子供たちに、優しい父親のようにお茶目に接することもある。彼が幼いエドガルドを膝に抱き上げ、居並ぶ聖職者たちを指して「これがお前の家族だよ」と言うとき、彼には本当にそう見えていたのかもしれない。キリスト教徒はキリストを愛するひとつの家族だと。
突然、実の家族と引き離され寄宿舎に放り込まれても、誰もエドガルドをユダヤ人だからとか新入りだからとかいう理由で苛めない。皆同じキリスト教徒だから。
しかしそれでも、幼い子供の身には異質な環境なのは確かで、一見すぐ順応したかに思えた彼ば、母親との面会時に寂しさのあまり激しく泣き出してしまう。
彼をベッドに押さえつけ、「お利口だから」「お母さんが改宗すれば家に帰れる」と宥めすかす院長の姿は、見ようによっては背徳的でおぞましくさえある。
教皇の権勢に怯えながらも、カトリック組織内部に入り込み、国際世論の力も借りて、一家庭の子供のために尽力するユダヤ教徒の姿もまた。
文化的・宗教的基盤を同じくする者を
ものすごく複雑で、数奇なもの――
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