美しき“カルト”――〈エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命〉①
【映画あらすじ】
1858年、イタリア・ボローニャのユダヤ人家庭モルターラ家から、まだ7歳にもなっていないエドガルドが連れ去られる。
理由は、秘密裏にキリスト教の洗礼を受けた彼を、カトリック教徒として、教皇ピウス九世のお膝元・ローマで教育するため。
教皇の命により異端審問官の神父の手によって実行されたこの誘拐事件は、悲嘆にくれる両親とユダヤ人組織の尽力によりアメリカを含む世界へ報じられるが、教皇庁は頑なに彼を両親の手元に帰そうとはしない。
ローマの寄宿舎でキリスト教徒として育てられた彼はやがてカトリックの司祭となり、教皇の死後も教会に留まり続ける。彼が母親と再会したのは彼女の死の床だったが…。
始めに言っておきたいのは、私はこれでカトリックを批判したいのではないということ。また反対に、ユダヤ教徒を犠牲者だと擁護したいわけでもない。これは昨今の国際情勢とは無関係に。
実話をもとにしたこの映画では、いたいけな少年エドガルドの境遇から、“彼個人に加えられた”暴力(原題〈Rapito〉は英語ではkidnapping、誘拐そのまま)がクローズアップされがちだけれども、私が映画に感じたのは少し別のグロテスクさ。
青年期、彼は神父になっている。
教皇の訪れに感激し、その手に口づけしようと半ば飛び出していく大勢の若い司祭たち。そんな中、彼は勢い余って教皇を押し倒してしまう。
この粗相に対し、悔悛せよと言う教皇。最初、
しかし次には、まだ足りない、舌で床に十字の印を3つ描けと命じる――彼は従う。
教皇は慈父の微笑みで彼を赦し、
「司祭は従順の誓いを立てている、彼を見習うように」とエドガルドに祝福を与える。
カトリックの、いや王権、あらゆる権力の持つ宿痾がここにあると思う。
教皇はまさしく地上における神の代理人だ。教皇だけでなく、過去から現代までの独裁者、かつての王侯貴族、場合によっては軍隊も。明確な階級組織、上意下達の権力構造を持つホモソーシャルな集団において、己の意のままに他者を従わせることができるということの、なんと気持ちのよいことか。
同時に、(この映画の主題でもないし暗示もされていないと思うのだけれど)この場面はひどくエロティックでもあると感じた。若く美しい司祭が(中にはそうでないのもいるが・笑)、教皇その人の手に、衣の裾にでも触れなんと殺到する。その気がある人間なら地上の天国だろうし、そうでなくても権力欲は充分に満たされる瞬間だ。
おまけに、その従順さは必ずしも強いられた従順さでもない。彼らは――名目上は――強制されて司祭になったわけではないからだ。
その点、前段で、エドガルドを生家に戻してほしいと訴え出た、教皇領在住のユダヤ人団体のメンバーと教皇の対面シーンは対照をなす。
エドガルド奪還のため実力行使に出て失敗した(死者のためのミサ中に乱入し、誤って別の少年を連れ去ってしまった)彼らは、「ゲットーの門が閉ざされていた夜があったことを思い出せ」とカトリック教会の王に脅され、震え、恭順の証に、順にいざり寄って教皇の靴にキスする。――その時に教皇が傍らの枢機卿と交わす無言の視線!
カトリック信徒なら敬愛の証となるこの喜ばしい行為も、そうでない者には屈辱にしかならない、この欺瞞!
で、だから、じゃあユダヤ人(社会)はこの誘拐事件の犠牲者じゃないの、という見方に私は
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