文は人なり

「たほいや」というゲームをご存知でしょうか。

 遊び方は単純です。

 4~7人くらいが集まったら、一人が“親”になり、広辞苑や大辞林など分厚い辞書から、参加者の誰も意味を知らない単語を一つ選ぶ。

 残りの人はその意味を予想して紙に書く。

 最後に、“親”の書いた正解も混ぜて発表し、どれが正しい意味かを当てる、というもの。


 昔やったことがあるんですが、その時思い立って、予想回答を「~いること。また、そのもの」と、いかにも広辞苑の説明っぽく書いたら、親が読み上げた正しい答えより皆ひっかかってくれまして。

 その理由が「書き方が辞書っぽかったからこっちだと思ったのに~」と言われた時は嬉しくなったものです。


 そんな私が小説を選ぶ基準は、一に設定ジャンル、二に文体。

 設定については…最近はミリタリーだのオカルトだの、極狭ジャンルしか手をつけていないのでさておくとして、問題は文体。


 これについてはもう、「感覚が合うもの」は読めるけど、「生理的に無理なもの」は読めない。昔は若さに任せて乱読していたものの、今は無理。


「生理的にムリだなあ」と思うのは、明治大正時代や歴史小説でもないのに「成る程」とか「兎に角」が使われている小説。「成る程」がセリフで使われていた時に背筋がゾッとしたんです(笑)。


 それから、これは生理的にムリではないものの、接続詞「そして」を連発している文章。

 これがあると一気に、書き慣れていない人みたいに見える。

 一度、文芸サークルに入っているという人のファンタジー小説を見せてもらったことがありまして。「そして」があまりに目につくので、ストーリーを読み進めるのそっちのけで赤ペンで添削してカウントしていったら、A4用紙1枚中、5段落くらいしかないのに、一段落につき「そして」が3つはあった!

「そして」がなくても文章は書けるぞ!


 あとは、参考文献から写してきたんだろうなあ~という文章を、そのままセリフでしゃべっていたり、地の文に書いている小説。

 講演会しているんでもないのに(いや、講演会していたとしても)、専門外の相手(と読者)に向かってこういう構文ではしゃべらんだろう、とか、ここの一帯だけ明らかに他の地の文と密度と語彙が違うぞ、というのが気になる。こっちは“小説”を読みに来ているのであって、参考文献の方が詳しくて面白いならそっちを読みたい(笑)。

 特に、マイナージャンルだと主要な参考文献が限られていることもあって、巻末に載っていなくても「この本のこの部分からもってきてるんだろうな」というのが透けて見えることがあったり。混ぜ込み方がうまければニヤリとするものの、あからさまだと、「手抜きだなあ…」と思えてしまう。


 もっと言うと(ああ、悪口は筆が進むなあ!)、

 セリフ中に笑い声を入れたり、エロ小説でもないのに擬音語オノマトペを多用している文章。

 中島梓/栗本薫もこう言っている。

『会話に笑い声「ハハハハ」や「わあーん」を入れるのは、死ぬほどデリカシーのいる作業だ。道場主は自分のテクニックを楽しむためにときどきやるが、道場主くらいのテクがなければ、こんなにしろうとくさくみせるものもない。』(中島梓『小説道場Ⅰ』)


 けれどもこれらは、イコールその書き手が本当に文章がヘタか、というと必ずしもそうではないのでは? と疑ってもいます。


 というのは、「わざとそう書いている」可能性が捨てきれない。

 他の作者の文章や文体を模倣する、パスティーシュという技法があるからです。

 有名どころでは清水儀範『蕎麦ときしめん』、最近では神田圭一/菊池良『もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら』などでしょうか。

 本来は多彩な文体を駆使できる書き手が、わざと「いかにも」な文章でネット小説を書いているかもしれない。


 なので、好みの設定なのに好みではない文章に出合った場合、作中の他の話か、他の作品も見てみることにしています。ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』がそうだったように、二話目で文法もめちゃくちゃなアホな一人称で書いていても、十五話目では格調高い三人称で書いているかもしれない。

 そうやって全く毛色の違う文体で書いているのであれば、その人は「わかってやっている」可能性が高い。そうでなければ……(以下略)。


 しかしどうしてわざわざそう書くのか?

 文体なんて自分に合った一つで十分、別に凝った文体なんていらない、そんなの誰も求めてない、難しい言葉を使ったって読んでくれない、誰にでも読めるようでないといけないと言われているし、わかりやすければそれでいいじゃないか…


 ファンタジー小説の大家、アーシュラ・K・ル=グウィンは昨今の風潮に真っ向から反対します。

『ジャーナリズムにおいては、作者の個性と感性は意図的におさえつけられます。目的は客観的印象を与えること。すべては、速く書け、より速く読めることを中心に考えられる。このテクニックは新聞にとっては正しいものです。小説には不適当、ファンタジーにとっては致命的と言えましょう。

(中略)

 多くの読者や批評家たち、そして編集者のほとんどが、文体というものを、あたかもケーキに入れる砂糖のごとく、作品の材料であるかのように、または、ケーキにかける糖衣のごとく作品に付け足すだけのもののように語っています。しかし、文体とは、当然ながら、作品そのものなのです。ケーキをかたづけてしまえば、残るのは調理法レシピだけ。文体を取り去ってしまえば、残るのはストーリーの粗筋だけになってしまう。

(中略)

 文体がなくてはどうにもなりません。文体なくして作品はありえないのです。文体は、作家としていかに見つめ、語っているかを表すものです。いかに見ているか――つまり、自身のヴィジョン、自身の世界観、自身の声なのです。』

(『夜の言葉 ファンタジー・SF論』「4 エルフランドからポキープシへ」)


 そう、私が読みたいのはルポルタージュでも新聞でもなく“小説”で、書きたいのも“小説”なんです(まあ、わざと「新聞みたいな文体」で書くことがあるにせよ)。小説においては「わかりやすさは正義」ではない。第一、何の謎めいたところもない人を魅力的だと思ったりしますか?

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