主語とは翻訳の過程で失われる何かである。
誰に言われたわけでもないものの、〈神の慈悲なくば〉における私の文章は悪文です。
一人称だからある程度は仕方ないとはいえ、「俺が」「私は」といちいちうるさいし、セリフの後に「~が言った」と言わずもがなの一文を挟み込むし。編集者が見たら「誰が言ったのかわかるようなセリフを書け。そうでないなら削除しろ」と言われるレベル。知らんけど。
でもじゃあ何でこんなことやってんのかと、聞かれてもいないのに語るなら、
(舞台がアメリカなので)「英語で書かれた原文を日本語に翻訳してるっていう設定で書こう!」というコンセプトで書き始めたから。
学生時代、英語の「無生物主語(It)」に「何じゃこりゃ?!」となり、教師から「いいか、英語には絶対主語があるんだ……」と呪文のように言われて過ごした身としては、英語と主語は切り離せない存在。これがあれば、「一見日本語としてはおかしくないんだけど、どこか不自然な文」のできあがり。目指すは「翻訳アプリにぶち込んで、日本語⇔英語と翻訳させても、文法的に崩れない文章」。
逆に、日本語だと(使い古された例ですが)、
「トンネルを抜けたら雪国だった。」(川端康成『雪国』)
みたいに、「この文の主語何? つうか誰?」とも思わずに、何となく理解できてしまう。
だもので、ずーっと偽翻訳調でやってきて、たまーに純日本語的文章を書こうとすると、
「えっと……ここの主語は抜いてもいいのか……? 抜いても意味通じるんだから抜くべきだよね……? 前半と後半で動作の主体が入れ替わったりしてないよね……?」と謎に悩む羽目に陥る。
主語に限らず、人称も悩ましい問題で。
便宜上、「私(男)」「わたし(女)」、「あなた」「君」「お前」を使い分けているものの、英語だと全部「I」と「you」なんだよなー、せめてドイツ語(フランス語)だったら「
あとこれも日本語だと曰く表現しがたいものとして、話の中で同じ対象物が二度目以降に出てきた場合、日本語なら素直に名前を連呼するところ、“彼”だの“その少年”(あるいは“
この、意地でも直接名前を呼ぶもんかという姿勢が、同じ人物を愛称で呼び、名字で呼び、階級で呼び、職業で呼び、人種で呼び、立場で呼び……その他考えうるあらゆる代名詞的表現で呼ぶという、ややこしくも楽しい変換作業になっているのですが。
単なる自己満足だろうと言われればそれまでなんですが、言葉が世界を規定しているなと思うことが結構ありまして。
仏頂面、断末魔、逆鱗に触れる――現代日本が舞台なら何の遠慮もなく使えるこれらの言葉も、「やべえこれ仏教用語(でなければ中国古典)だ……」となり、慌てて和英辞典をひっくりかえして代替表現を探す、なんてことになったり。まあどうしてもしっくりくる和訳=英訳がない時は、「意訳だもんね!」ってことでそのまま使ったりしますが……(笑)。
それでも時々不自然な日本語がかもし出す、「日本ではない別のどこかの、日本語ではない言葉を話している(はずの)人たち」の話がまさにファンタジーを感じさせるのが好きで、こんなことをしているのです。願わくは読んでくれた人にも、その雰囲気が伝わればいいなあと思いつつ。
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