アクションホラーに苦悩をプラス――『エクソシスト』考②
でも遠藤周作が『沈黙』〔**〕で嘆いたように、神(の愛)から離れるのは、キリスト教徒、しかも司祭、にとっては身を切られるほどの苦悩、らしいのです。
『「(略)わたし自身も、この悩みを断ち切ることができません。あまりにも大きな問題。しかも、ぜがひでも解明しなければならぬ問題です。わたし自身が、わたし自身の問題に悩んでいます。疑惑という問題に」
(中略)
より論理的にいえば、すべての問題が神の沈黙に根ざしている。この世に悪が存在する。そしてその悪のほとんどが、疑惑に端を発している。善意の人々のあいだにあっても、罪のない混乱から悪が発生する。合理的な神は、なぜそれらを終わらせようと努めぬのか? なぜ神の姿を顕現しようとなさらぬのか? なぜいつまでも沈黙をつづけたもうのか?』
(W.P.ブラッティ『エクソシスト』「1 発端」)
で、これが〈ヴァチカンのエクソシスト〉になると、確かにアモルト神父(ラッセル・クロウ)も悩みを抱えてはいるのですが、それは「自分が悪魔憑きだと信じなかったがために少女が自殺した」てなもので、信仰を持たない観客にも割と理解と共感を得やすい内容になっている。逆に、相棒となるトマース・エスキベル神父の「恋人よりも神を選んだ」という悩み(この場合も恋人は死んでいる)の方が理解しがたいのでは…。恋敵が神って、強力すぎ。
結局どちらの作品でも、悪魔は祓われます。
〈ヴァチカンのエクソシスト〉では定石通りの祈りによって。
余談ですが、司教に任命される“公式”エクソシストは、銀の弾丸を込めたピストルを撃ったり、剣で切りつけたりはしません(笑)。クライマックスシーンがものすごく騒がしいので聞き取りづらいのですが、お祈りをしています。
カラス神父は自身をリーガンの身代わりとしてをその身に悪魔を乗り移らせ、自ら命を絶つことで。
自分が死んでちゃ救いがないじゃん、と思われるかもしれませんが、そこはほれ、キリスト教が下敷きになっていることを忘れちゃいけません。あとになって思い返すと、これはつまりこういうことなのではないかと思うのです。
『人がその友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない。』
(新約聖書『ヨハネによる福音書』第15章13節)
話を戻して。
映像はもちろん〈ヴァチカンのエクソシスト〉の方が派手です。おそらく、マシンガン持って銀の弾をバラ撒いても、ヴァチカンを除いてどこからも苦情は出ないレベル。そして誰が見てもハッピーエンド。さすがハリウッド。
しかし、登場人物が真面目に苦悩する〈エクソシスト〉に比すると、アクションとか、映像としては面白いんだけど深みに欠ける…! なんというか、薄っぺらいんですな。
いやいやそんなのエンターテインメントに求めてないから、という声が四方八方から聞こえてきますが(幻聴か)、料理にだって、隠し味というものがあるでしょう。特にこの、善と悪、神と悪魔の問題は、古代ギリシャの昔から、哲学者たちが頭をひねり、キリスト教神学者たちが益体もないことを延々と…アワアワ。
一見ただのエンターテインメントに見えるもの、あるいはすごく地味な作品の中に、目の肥えた消費者にしか味わえないエッセンスを見出したとき、その作品は、少なくともその人にとっては、単純な「面白い」を越えて、複雑な味わいを持つようになると思うのですが。
〔**〕島原の乱鎮圧間もない頃、キリシタン禁制下の日本に潜入した宣教師ロドリゴが、日本人信徒たちに加えられる拷問と殉教の姿、「神の沈黙」に苦悩し、ついに彼自身も背教するに至る。
その中で見出される「神の愛」とは何か、について、出版当時日本のカトリック教会から批判の声があったそうですが、それは…と、これについては『沈黙』の井上筑後守とヴィクトル・ユゴー『
昔から読書感想文が嫌いだったのですが、それは「読んだ本」について書こうとすると、必ず別の本や別のことを思い出して話が収集つかなくなるからなんですよね…。
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